美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

真田昌幸

真田昌幸の系図は武田信玄に人質生活ー正室・山手殿の出自

投稿日:2022年5月9日 更新日:

 真田家岩村遠山氏との間に多少なりとも関係があった。

岩村城おつやの方(女城主)の時代に、武田・家臣の秋山信虎と戦った女城主は、岩村合戦の時の城主が、信長の子・御坊丸だったが幼かったため。

 

 

信長が政略結婚で送り込んだ叔母・おつやの方が城主の代わりをして戦闘を指示した。

 

 

何故かというと夫・遠山景任が亡くなったので養嗣子とて信長の4男・御坊丸を迎えていたが幼かった。

 

 

そこに武田軍は岩村を攻め勝利したため、御坊丸を甲斐へ人質として連られて行った。

 

 

真田昌幸の出自を見てみよう

天文16年(1547年)8月、真田幸綱(真田幸隆)の三男として誕生、年月日は不明だが幼名は源次郎と名乗っていた。

 

 

真田昌幸は三男で、同母兄に真田信綱・真田昌輝がいたため、生まれたときには真田家の家督相続の権利は無かった

      ▲上田城

 

 

昌幸人質となって甲斐の武田へ行く

昌幸「真田の里」と呼ばれる(現・上田市)の地城で生まれたとされているが事実は不明で諸説あります。

 

 

生まれた当時、真田家は甲斐国(現・山梨県)武田家の軍門に下り仕えていた、そのため真田家が武田家を裏切らないための保険として人質に出されていた。

 

 

天文22年(1553年)8月、まだ7歳で甲斐の武田家へ人質として下り、武田晴信(信玄)の元に奥近習衆※1に加わった。

※1.奥近習衆(おくきんじゅうしゅう)とは、甲斐の戦国大名・武田信玄の側近中の側近であり、将来の幹部候補となるべき人材として活動のこと。

 

 

なお、甲陽軍艦によれば、昌幸の他に金丸平八郎、曽根与一、三枝勘解由、三枝新十郎、曽根総次郎が挙げられえている。

 

 

武田信玄は、人質達に自分の持っている軍事知識の全てを叩き込んだ武将で、軍略の中に「秘伝」というものを持たないが。

 

 

武田の人質は、最良の環境下で最高の教えを得ることができた、人質の中で昌幸は信玄の最高傑作といってもいい人質の一人であった

 

 

真田昌幸は永禄年間に、信玄の母系・大井氏の氏族である武藤氏の養子となり、武藤喜兵衛を称し足軽大将に任じられ、その軍役は騎馬15騎、足軽30人と伝えられています。

 

 

どうして養子を取ったかというと、武田の家臣・武藤三郎左衛門※2の実子の武藤与次が早死にしたため、真田昌幸を養子に取ったとされている。

※2.武藤三郎左衛門尉とは何者、戦国時代の武将で、武田信玄の母方の従弟に当たる人物、甲斐武田氏の家臣。▲

 

 

昌幸結婚する

永禄7年(1564年)頃に、山手殿※3を正室に迎える。

※3.山手殿はどのような人物か?戦国時代から江戸時代前期にかけての女性。京の御前、寒松院とも言われている、真田信之・信繁(幸村)兄弟の母。

 

養子に行った先武藤喜兵衛(後の真田昌幸)のとき、永禄7年(1564年)に山手殿と結婚。

 

 

これは永禄9年(1566年)嫡男・信之誕生の生まれた女子(村松殿)がいるため、正確な昌幸と山手殿の結婚日は推定です。

 

 

山手殿の出自について探る

1.公家の精華家菊亭晴季の娘とされているが、しかし当時の真田昌幸の身分は武田信玄の下級家臣に過ぎず、上級公家である菊亭家の娘を妻に迎えるとは考えられない。

でも、元を正せば上田城の三男であるからわからない。

 

 

なお、主君である武田信玄の正室の実家・三条家と菊亭家は同格であり、考えられない。

 

 

菊亭晴季の娘としたのは後世の格付けを意識したものとされている。

もし本当に菊亭晴季の娘だったとしても実娘とは考え難いです。

 

 

2.もう一つの見方は、宇多親忠の娘ではないか、これは石田氏の系図『石田氏系図』からみられ、宇多親忠の別の娘が石田三成の正室になっているために記載されている。

 

 

また、江戸時代の『尾張藩石河系図』にも、寒松院が宇多親忠の娘と明記されている。

 

 

先に述べた関ヶ原の戦いの時、真田昌幸宛て三成の書状にも、山手殿の後に宇多親忠・頼重の動向に触れ、両者の親戚関係を伺わせる内容でした。

 

 

宇多氏説を主張する白川亭は、遠山氏なら真田氏自身が公式系図で、そう書くのに何の不都合もなかったはずで、客観的理由であり得ない菊亭氏説としているのは、徳川幕府体制下で悪人とされていた三成と縁戚ということを隠した。

よって宇多説の方が信用できる。

 

 

3.もう一つの説は、武田信玄の家臣・遠山右馬助の娘という説である。
この人物は騎馬10騎、足軽30人持ちの足軽大将『沼田記』には紹介されているが、実名も系譜も不明である。

 

 

武田氏滅亡後は、徳川氏に仕えたとされるが、『寛政重修諸家譜』には記載がない。

 

 

『甲陽軍艦』には、遠山の名が数ヶ所確認されており、昌幸とも知己があった可能せは高く、真田昌幸の正室の出自としては、最も説明がつく人物です。

 

 

武田から人質から解放される

真田昌幸が甲斐武田氏に仕えていた際には、人質として新府城にいた。

天正10年(1582年)3月に織田信長による甲州征伐で武田氏が滅亡した際には、九死に一生を得て新府城から脱出して上田に帰還した。

 

 

慶長5年(1600年)7月関ヶ原の戦い直前に大阪にいたため、西軍の人質となった。

 

 

同年7月30日の大谷吉継の書状によると、吉継の娘で信繁(幸村)の妻である竹林院と共に吉継のもとで無事保護されたという。

 

 

一説によると、大阪城に抑留されるが、真田家臣・河原綱家の機転により城を脱出して上田に帰還したとの説もあります。

 

 

ただし、人質とは形式だけの事で、慶長5年8月6日で石田三成が昌幸に宛てた書状で「御内儀も大阪へ入り候、何事もなく候、宇多河内父子(宇多親忠・頼重)も当城(佐和山城)留守居として今日当地へ参り候」とある事からも明らかです。

 

 

関ヶ原終結後の同年12月13日、昌幸・信繁親子は16人の家来と信繁の妻女を伴って、九度山に幽閉されることになったが、山手殿は信之に引き取られ、上田に留まった。この後、出家して名を寒松院と改める。

 

 

-真田昌幸

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。