北条時政は、主君・源頼朝亡き後、今まで忠臣を貫いてきたが、後妻・牧の方に操られ権力の牙をムクムクと剥いてきた。
正治2年(1200年)梶原景時を追放、建仁3年(1203年)比企能員を暗殺、頼朝以来の有力御家人を排除した。
その上、孫である二代将軍・頼家まで暗殺、その謀略は畠山重忠に及んでくる。
しかし、畠山重忠討伐は、時政は自らの失脚にも繋がっていく。
鎌倉武士の鑑と言われた畠山重忠だが
畠山重忠は、武蔵国男衾郡※1畠山郷を領した武将。
後で出てくる平賀朝雅は武蔵国の国司、なお、北条時政との間には武蔵国の支配めぐる対立があったにもかかわらず娘を嫁に出している。
※1.男衾郡(おぶすまぐん)とは、現在は埼玉県にあった郷。東武東上線「男衾駅」などにその名がみられる。
治承4年(1180年)頼朝が挙兵した時は、平家方の大庭景親に従っていたが、頼朝が安房の国に渡り坂東武者を集結して、鎌倉を目指すとこれに従った。
▲畠山重忠
源平合戦でも活躍し、“鎌倉武士の鑑”と呼ばれた御家人。
『吾妻鏡』によると
元久元年(1204年)3代将軍・源実朝の妻となる坊門信清の息女を迎えるため、北条時政と牧の方の子・北条政範・桔梗朝光・千葉常秀・畠山重保(畠山重忠の嫡男)らが上洛。
11月4日に京都守護の平賀朝雅邸で催された酒宴の席で、平賀朝雅と畠山重保が口論となるが、集まっていた者が宥めたことによって、その場は収まった。
その翌日、北条時政と牧の方の子・北条政範が16歳(官位は従五位下:時政は北条家の嫡子は北条義時ではなく、亡くなった政範に決めていたらしい)で急死。
さ〜大変、ひと騒動した。
この2つの事件が畠山氏の滅亡へと繋がっていくことになる。
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平賀朝雅と北条時政の関係
平賀朝雅は、新羅三郎義光の子・義信を祖とする河内源氏。
義信は、平治の乱で頼朝の父・源義朝に従い、多くの御家人を遠ざけて行われた勝長寺院での源義朝の埋葬にあたっては、頼朝の命により源氏一門として参列している。
▲北条時政は娘婿を使って畠山重忠を騙し討ちをする。
平賀義信は頼朝の死後も源氏の重鎮として存在していた。
平賀朝雅は、その平賀義信の次男、母は頼朝の乳母・比企尼の三女。
結婚相手が、北条時政の娘(後妻・牧の方の子)を正室にしている。
北条時政は娘婿・平賀朝雅を鎌倉将軍にしたいと牧の方にそそのかされる。
建仁3年(1203年)に京都守護に任命され、元久元年(1204年)には伊賀・伊勢で起こった平家残党の反乱(三日平氏の乱)を鎮めて伊賀・伊勢の守護職も任じられた。
平賀朝雅と牧の方の恨み
元久2年(1205年)4月になると、鎌倉中が騒がしくなり、近国の者が武具を整えているとの噂が流れる。
畠山重忠に恨みがある平賀朝雅が、重忠一族が謀反を企てていると、時政の後妻・牧の方に告げ口をしたことから、4月11日に北条時政が娘婿の稲毛重成を鎌倉へ呼んで示し合わせ、「鎌倉に騒動が起こった」と重忠に報告した。
それを聞いた重忠は鎌倉へ向かった。
5月に入ると騒がしかった鎌倉も、多くの御家人たちが帰国したことで静けさを取り戻したようだったが・・・6月20日に稲毛重成が畠山重保を鎌倉に呼んで到着。
翌21日平賀朝雅は、牧の方を通じて圃場時政に畠山重忠父子お謀反を訴え、それを受けた時政は息子・義時等に畠山討伐を諮った。
義時は「重忠が、そのような企てをするはずがない」といって、畠山討伐に反対していたというが・・・牧の方が義時の屋敷に兄弟の牧時親を遣わして「重忠謀反は明白である」と伝えたことにより、義時も考え直したのだという。
虚偽の報告で畠山父子を殺す
6月22日早朝、謀反人が由比ヶ浜に集結しているという虚偽の報告を受けた畠山重保は、郎党3名を連れて由比ヶ浜に駆けつけるが、待っていたのは北条時政の命を受けた三浦義村によって討たれた。
一方、その頃畠山重忠は、稲毛重成の虚偽報告を受けて、6月19日に菅谷館を出発し、鎌倉へ向かう途中だった。
重忠が鎌倉へ向かっているとの噂が流れると、畠山重忠誅殺の命が下り北条義時らが鎌倉を出発する。
重忠は、陣を布いていた鶴ヶ峰の麓で、嫡男・重保が殺され討伐軍が攻めてきている事を知ったのだという。
畠山重忠は、僅か150騎を従えていたのみで、家臣からは引き返すように進言されたが、「潔く戦うことが武士の本懐」として、正午頃、武蔵国二俣川で討伐軍と畠山軍が激突、激戦が繰り広げられたが、重忠は愛甲三郎秀隆の矢を受けて最期を遂げた。
北条義時は、結果重忠軍がたった150騎で謀反を起こすはずがない、父・時政の虚言であった事を確認する。
9月23日鎌倉に帰参した義時は、父・時政に戦いの様子を尋ねられ「重忠の弟や親類は他所へ赴いていた。
従っていたのは僅かに100騎程で重忠が謀反を企てるはずがない」虚言である。
讒訴によって征伐されたのでは不便極まりない。
首実験で重忠を見た時涙止めることができなかった」と話した。
時政は何も言えなかった。
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北条時政追放
閏7月19日、時政と牧の方による平賀朝雅を将軍に据えようとする企てが発覚し、時政らは伊豆に追放され、閏7月26日、京都にいた平賀朝雅は追討軍によって討たれた。
牧の方の陰謀
畠山討伐からの一連の事件によって、北条義時が父・時政にかわって政所別当となり、執権の座に就いている。
畠山重忠東光禅寺に安置
東光禅寺は、重忠が鎌倉の薬師ヶ谷(現在の鎌倉宮付近)に建てた医王山東光寺を前身としているという伝承がある。
境内には重忠の供養塔が置かれ、近くの六郎ヶ谷には嫡男重保の五輪塔も建てられている。
畠山重忠の乱によって、桓武平氏の名門畠山氏は滅亡するが、重忠の妻は北条時政の娘で、のちに足利義兼の子義純の妻となった。
義純が畠山の名跡と旧領を継いでいる。
これによって畠山氏は、源氏の家系となる。
室町時代に足利将軍家の下で活躍する畠山氏はこの家系。