なんとも胡散臭い人物が、義時の継室・伊賀の方と三浦義村である。
真意の程は遠い昔話なのでわかりませんが、色々の書物などにより書いていこうと思います。
義時の死後に起きた事件といえば、跡目を巡っての伊賀死の変。
第3代執権を巡っての画作、誰もが義時と八重姫の長男・北條泰時であると考えていたところが、泰時にとっては、継母である伊賀の方が弟・伊賀光宗とはかって、実子の北條政村を執権に、また、娘婿・一条実雅を将軍に据えようとする陰謀が発覚、この陰謀に三浦義村も関わっていた。
しかし、政子が三浦義村を説得したことにより陰謀が失敗に終わり、伊賀の方・弟の伊賀光宗・一条実雅は流罪となって一件落着となった。
先ず、三浦義村の生い立ちを見てみよう。
三浦義村は義時の味方だったのか
三浦義村は三浦氏の当主・義澄の嫡男、母は伊東祐親の娘、義時の妾となった八重姫の姉、また義時の母も伊東祐親の娘、八重とは姉妹だから従兄弟の関係。
正治元年(1199年)梶原景時の変では、景時に讒言された結城朝光から相談を受け梶原景時追放の中心的役割を果たした。
また、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱では、北条時政の命により畠山重忠の嫡男・重保を討ち取り、乱後、無実の重忠を陥れた稲毛重成一族を誅殺した。
また、建暦3年(1213年)には和田合戦では、身内の義盛に起請文まで書いて味方すること約束をして、いざとなって義盛を裏切って、挙兵を北條義時に告げ和田一族を滅亡に追い込んだ、一般的にはとんでもない裏切りである。
最も肝心なことは、建保7年(1219年)1月27日、鶴岡八幡宮で3代将軍・源実朝が兄の子・公暁に暗殺されるという事件が起きると、義時の命により公暁を捉えるでもなく討伐してまう。
なぜか?後ろめたい事実が判明するのを隠すためか?
三浦義村・実朝暗殺黒幕説
3代将軍・実朝は「源氏の正統は自分で終わるので、せめて高い官位に付き家名をあげたい」という理由から官位昇進を望んで。
建保6年(1218年)権大納言、左近衛大将、内大臣となり、同年12月2日には、武士として初めて右大臣になった。
▲源実朝
翌、建保7年(1219年)1月27日に鶴岡八幡宮で行なわれた右大臣拝賀の式に出席した実朝は、太刀持ち役を務めていた源仲章と共に、兄の子・公暁に暗殺されてしまう。
『吾妻鏡』の記述からすると、公暁は「親の仇(2代将軍・頼朝)」として、実朝を暗殺したものと考えられるが詳しいことはわからない。
実朝の首を持って逃走した公暁は、乳母夫の三浦義村邸へと向かうが、義村の差し向けた長尾定景によって討ち取られた。
実朝の首は見つからないまま勝長寿院に葬られたという。
秦野市には、「源実朝公御首塚」があって、長尾定景と共に公暁追討を命じられた武常晴が、実朝の首を埋葬したと伝えられています。
実朝の死によって、源頼朝から始まった源氏の政権は三代で滅んだ。
伊賀氏の乱に義村は絡んでいたか
父・義時が貞應3年(1224年)6月12日に、二代執権・北条義時が病に倒れ、翌13日に死去、18日に葬儀が行われ、源頼朝の法華堂の東の山上が墓とされた。
同月26日、六波羅探題北方を務めていた長男・北条泰時が京都から鎌倉へ戻って、この日は由比ヶ浜辺りに泊り、翌27日に鎌倉の屋敷に入った。
28日、北条政子の御所へ行った泰時は、三代執権に任命され、 叔父の北条時房が後見役に付けられている。
密談を重ねる伊賀一族と三浦義村
義時の死後、後妻・伊賀の方(伊賀朝光の娘)と弟の伊賀光宗は、三浦義村と語らい、北条政村を執権とし、一条実雅を将軍に据えようとしていたのだという。
『吾妻鏡』によると
7月5日、伊賀光宗兄弟が何度も三浦義村の屋敷へ出入りし、何か密談しているのに違いないと怪しんだ人々がいた。
夜になると伊賀兄弟が義時邸に集まって「この事を変えてはならない」と誓っていた。
それを聞いていた女中は何の事なのかわからず、その様子を泰時に伝えた。
しかし、聞いた泰時は動揺する気配もなく「伊賀兄弟が正しい道を誓い合っていることは神妙な事」と語っていたのだという。
17日、近国の連中が競うように鎌倉へ集まってきてもの騒がしい事態になってきた。
深夜、北条政子は三浦義村邸に赴き義村にこう忠告をする。
「政村と光宗らがこの屋敷に出入りして、何か密談をしているという噂がありますが、これはどいうことなのでしょうか?
目的がわかりませんが?
もしや泰時を陥れるつもりなのでしょうか?
去る承久の乱での関東の勝利は、天運でもありましたが、半分以上は泰時の功績です。義時の跡を継ぐのは泰時です。とキッパリ義村に申した。
泰時がいなくなれば、人々は長く争うことになる事でしょう。
あなたは(義村)は政村の烏帽子親、共謀を疑わないわけにはいきません。両人とも何もせぬように」
義村は政子に「存ぜぬこと」と答えると、政子は、「政村に助力して世を乱そうとするのか、あるいは、平和のために尽くすのか、早く決断しなさい」と重ねて忠告をした。
すると義村は「政村に逆心はありませんが、伊賀光宗は反逆の考えもっていますのでやめさせましょう」と政子に誓っている。
28日、三浦義村は北条泰時に会って「故太夫(義時)の時には、忠義の私に親切にも3男・政村さま元服の絵帽子親にしてもらいました。」
義村は、私の息子・泰村は猶子にして頂きました。
その恩を思うと、泰時さまと政村さまのどちらにに着くか迷っていました。
ただ、心から願うことは平和な世の中です。
と義村が話すと、泰時は喜びも驚きむせず「私は政村に害を加えようとは思っていません。何を思って敵対していると思うのでしょうか?」と返したのだとか。
30日の夜、御家人が皆側を立て、鎧兜で競うように走り回るという騒動があったが、明け方には収まった。
北条政子は三浦義村に度々使いを出し、反逆者を鎮めるよう伝えてきたが、このような騒動が起こったため、翌日の閏7月1日、泰時邸に義村を呼び出して、こう命じた。
「私は三寅を抱いて泰時邸にいます。義村もここにいるように」義村は断ることができなかったのだという。
その他、葛西清重・中条宗長・小山朝政・結城朝光らの宿老が呼び出され、北条時房(北条政子・義時の異母弟)が言い聞かせている。
そん時、政子が語った事は
「三寅が幼い間は、下々の反逆を抑えるのは難しい。ただ私は長生きをしている。特別な根拠はないが、各々が生存しより集まる事は、亡き頼朝さまが願う所。その命に従い心と行動を一つにしていれば、誰が蜂起しようが何ともないこと」
伊賀氏の謀反発覚する(伊賀氏の変)
閏7月3日、伊賀光宗が一条実雅を関東の将軍にしようとしていることが露見したため、北条時房と老体の大江広元も出席して、北条政子の御前で処分がなされた。
伊賀の方は伊豆国へ追放、伊賀光宗は信濃国に流され、一条実雅は越後の国に流されている。
『吾妻鏡』によると
夫・義時の死後、伊賀の方は弟の伊賀光宗と共謀して、我が子北條政村を執権にし、娘婿の一条実雅を将軍に据えようと企てたという伊賀氏の変を起こした。
果たして本当かどうか?閏7月3日、その謀反計画が発覚し伊豆国へ流罪となった、同日伊賀光宗は信濃国へ流された。
一条実雅は、10月10日に越前国へ流罪、北條政村と実泰は、3代執権となった北條泰時の計らいによって連座を逃れた。
一方、伊賀の変は、政子のでっちあげ説もある。
伊賀の変は、北条氏の代替わりによって自らの影響力の低下を恐れた、義時の後妻の実家・伊賀氏を潰すためのでっちあげという説がある。
伊賀の方は、伊豆国へ追放されら4ケ月後の12月24日鎌倉に危篤となったことが知らされていることから死去したものと思われます。
弟の伊賀光宗は、北条政子の死後嘉禄元年(1225年)12月22日に許されて所領も回復され、寛元2年(1244年)には、評定衆に就任している。
3代執権となった北条泰時は、伊賀の方の謀反を否定していたのだという。