美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

源仲章

源仲章らは朝廷との二重スパイか?系図を見ると実朝と繋がった

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 実朝に勉強を教えている源仲章ってどいう人物なんでしょう?

後鳥羽上皇に仕え、京から来た第59代・宇多天皇の子、第八皇子敦実親王の三男 雅信王こと源雅信の子孫です。

 

 

元を正せば清和天皇から来ている源姓が、源実朝侍読※1として、わざわざ京都から鎌倉にやって来た。

※1.侍読(じどく)とは、貴人に仕えて学問を教授する学者。

 

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、北条義時と火花を散らし、ドラマの中では女の暗殺者を使って暗殺を企てるも失敗に終わる。

 

 

仲章は朝廷と幕府に仕え、実朝と後鳥羽上皇を繋ぐ役割を果たしていた。

 

 

当時は幕府と朝廷は対立するような関係ではなかった。

が、義時は次第に仲章を二重スパイではないかと疑い出し、それで暗殺をしようとしたのか?実際には殺そうとしたのか?ドラマだけじゃないのか?。

 

 

事実仲章がスパイだという十分な確証がなかった。

実朝が暗殺されると一緒に仲章も北条義時の身代わりで殺されてしまったのか?
謎・謎・・・
では一体源仲章とはどいう人物か?

 

 

 

源仲章という人物

平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての貴族・御家人儒学者で、宇多天皇の子が宇多源氏を作って活躍、左大臣・源雅信の後裔※2で、河内守・源光遠の子。官位は従四位上・文章博士である。

※2.後裔(こうえい)とは、子孫。後胤。「清和源氏のー」

 

 

後鳥羽上皇に仕え、建仁3年(1203年)政子の妹の夫・阿野全成の3男・頼全を処刑、元久3年(1206年)鎌倉に下向して源実朝の教育係になる。

 

 

建保4年(1216年)鎌倉幕府政所別当に任じられる、建保7年(1219年)源実朝右大臣拝賀の日に、鶴岡八幡宮にて公暁によって殺害される。

 

 

天皇を辿ると頼朝の先祖は、第56代・清和天皇、次の天皇は第57代・陽成天皇(退位)させられ、そのため、先の天皇第54代・仁明天皇の第三皇子が第58代・光孝天皇になる。

 

 

 

陽成天皇の宮中殺人事件?・・と退位

本来なら陽成天皇の子が、第58代を継ぐ訳だが、陽成の乳兄弟であった源益が殿上で天皇に近侍していたところ、突然何者かに殴殺されるという事件が起きた。

 

 

これは偉いこちゃ誰が犯人だ?と言って探索したがs探せず、事件の経緯や犯人は不明とされ、記録に残されていないが、陽成が事件に関与していたとの風聞があったといい、故意であれあれ事故であれ、陽成自身が起こしたか少なくとも何らかの関与があったということで、宮中の殺人事件という未曾有の異常事態に、翌年2月に退位させられる。

 

 

そして第58代天皇は・第54代の仁明天皇の第三皇子が光孝天皇に選ばれる。

その後は、第59代・宇多天皇となる。

 

 

 

宇多天皇の皇子・諸王が宇多源氏の祖

源氏には祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)があり、宇多源氏はそのうちの一つで宇多天皇から分かれた氏族で、この天皇の第八皇子敦実親王の三男・雅信王が、承平6年(936年)に臣籍降下して源朝臣の姓を賜い源雅信と称した。

     ▲源実朝と源仲章の系図

 

宇多天皇の子孫が源仲章、宇多源氏は第59代宇多天皇の皇子・諸王を祖とする

源仲章は源雅信の子孫

 

 

第2代将軍・頼朝が修善寺に幽閉された殺された頃、源仲章は第3代・将軍の実朝の持読として鎌倉に下向するが、時期は不明となっています。

 

 

『吾妻鏡』によると、建仁4年(1204年)正月12日の読書始めに侍読として登場し、「特別な文章があるわけでもなく、才名の誉はないが、好んで書籍を集めて百家九流に通じている」と評されている。

 

 

一方仲章は、しばしば上洛し後鳥羽上皇に臣下としての地位も保ち続け,その為、密偵のような役割を果たしていたのではないかという説もある。

 

 

でも実朝からは気に入られ『吾妻鏡』では、建保6年(1218年)、幕府の推薦で持読としての昇殿を勅許されている。

 

 

ただ、大江広元北條義時をはじめとする御家人からすると面倒な存在であったらしい。

 

 

建保7年(1219年)正月27日、鶴岡八幡宮で行われた実朝の右大臣拝賀の式後、実朝の甥・公暁により共に殺される。

 

 

『吾妻鏡』によると、源仲章が務めてた太刀持ち役は、本来北条義時の役だったが、義時体調不良で仲章にかわってる。

 

 

慈円の『愚菅抄』は、源仲章は義時と間違えられたと伝えている。

義時は事前に公暁が襲ってくる予感を感じていたか?どうして体調不良になったのは事実か?

 

 

 『吾妻鏡』では、義時は体調不良を理由に太刀持ち役を源仲章に代わってもらい自館へ帰ったということになっているが・・・、公暁の暗殺を事前に察知した行動か?

 

 

慈円の『愚管抄』は、実朝の命により中門で待機していたと伝えている。
これは何を意味しているか?

 

 

-源仲章

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。