美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

細川忠興

ガラシャの夫・細川忠興の刀・歌仙兼定は美しくも恐ろしい剣だった

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   細川忠興といえば、妻・をこよなく愛した武将で知られている。

また、細川幽斎の息子で教養人・茶人として有名で利休七哲の一人に数えられる人物。

 

 

義父には、明智光秀、嫁には光秀の娘・(細川ガラシャ)がいます。

その忠興がもつ歌仙兼定という刀は、細川家に代々伝わっていた代物で、室町時代の刀工・関兼定(2代目)により作られた刀です。

 

 

この刀は、美濃国関を代表する刀工、受領した官位から和泉守兼定と呼ばれていた、また、銘を切る際に「定」のウ冠の下を「之」と切ったため之定(のさだ)とも呼ばれる。

 

 

忠興は若くして織田信長に仕え、数々の武功で名を挙げ、信長亡きあとは秀吉・家康にも重用され、巧みな処世術によって39万9000石の大大名へ出世します。

 

 

また父・幽斎は古今和歌集で第一人者であったが、忠興は茶の湯に精通する文化人であり、「千利休」の高弟「利休七哲」に数えられる茶人武将であり、茶道の流派3斎流の開祖であります。

       ▲イメージ

 

 

歌仙兼定の名前の由来

この刀・歌仙兼定の名前の由来は、肥後熊本城主であった、細川忠利を取り巻く近臣達の補佐ぶりが悪いとして、隠居していた利忠の父・細川忠興が八代城に家臣36名を呼び、(一説には6人ともいう)、この刀で首を刎ねたという。

        ▲イメージ

 

三十六歌仙にちなみ「歌仙兼定」と名付けたという伝承に由来しているらしい。

 

 

この刀は、関鍛治の代表と言われる、美濃鍛治の名工和泉守兼定の作。

二代兼定の鎬造り(しのぎ)、身長は二尺餘、山田浅右衛門が試し斬りして最上大業物※1なりと折り紙をつけている。

 

 

三斎細川忠興の指料で、三十六人斬ったからとて一名歌仙斬りともいう茶人だけに拵付面白く、頭は四分平山道、縁は革着せ青漆塗、目貫金鉈豆、柄は黒塗鮫茶革巻、鐔は鉄丸形左右影蝶透し、鞘は腰下刻み鮫着せ黒塗研出しで、これが歌仙拵えと呼ばれて名高い代物です。

※1.最上大業物とは、江戸幕府公式の試し斬り役兼死刑行人であった山田浅右衛門5代吉睦が編纂した『懐宝剣尺』などの書物に記載された日本刀の刀工の格付け一覧。

山田浅右衛門は多くの刀で試し斬りを行い、刀工ごとに刀の切れ味(切断能力)を分類して格付けをした。最古位は最上大業物、次が大業物、良業物、業物4等級に分類される。▲

 

 

細川忠興の佩刀であり、忠興の考案した肥後拵(加算拵ともいう)の施された優美な刀です。

 

 

細川家は文武に優れた家柄で、忠興の父・幽斎は歌の道を極めた歌人として有名でした。

※上記の幽斎をクリックしていただくと詳しい記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

忠興は茶の道に通じており、千利休の高弟として「利休七哲」※1の一人に数えられた。

※1.利休七哲とは、呼称としては「利休七人衆」というのが古い、「七人衆」として、前田利長(加賀の肥前)・蒲生氏郷・細川忠興(三斎)・古田織部・牧村兵部・高山南坊(右近)・芝山監物の七人を初見としてる。

 

 

そうした文化的素養を持つ反面、忠興には冷徹な面もあったと伝えられている。

 

 

その顕著な例が、この歌仙兼定の由来に伺える。
歌仙とは歌道の名人三十六歌仙がが有名であるが、忠興も兼定で三十六人の家臣を切り捨てたのだという。

 

 

事実ではなくともそうした世評が立つ要素はあったのだろう。

忠興は信長を敬しており、臣下だった頃貰った九曜紋を代々家紋とした。
また、本能寺の変後では明智光秀の協力を断った

※上記の本能寺の変をクリックして頂くと、光秀は直接本能寺には同行してなかったという記事はあります。興味ある方は読んでください歴史観が変わるかも。

 

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細川忠興とはどういう人物か

名を細川忠興又は長岡忠興は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、丹後国宮津城主を経て、豊後国小倉藩・初代藩主。肥後細川家初代。
足利氏の支流の細川氏の出身、正室には明智光秀の娘・玉(珠)通称:細川ガラシャです。

 

 

室町幕府第15代将軍・足利義昭が信長によって追放後は長岡を称し、その後は羽柴氏も称したが、大阪の陣後に細川氏へ復した。

 

 

足利義昭・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と時の有力者に仕え、肥後細川家の基礎を築いた。

 

 

また、父・幽斎と同じく、教養人・茶人の細川三斎として、利休七哲の一人として茶道の流派三斎流でもある。

 

 

一方私生活の方はというと、主君・信長の勧めで結婚した二人だったが、義父・明智光秀が主君の織田信長を討ち取ってしまってから、美貌の妻を幽閉してしまった、とにかく玉(珠)に対する愛が重い人物である。

 

 

とにかく(珠)は美しい女性だったと、細川家の記録『綿孝輯録』に美人であったと書かれています。

 

 

そもそも母・煕子も美人として知られていた、『落穂雑談一言集』によれば、信長は近習との会話の中で、光秀の奥方が天下一の美女であることを聞き、家臣らの妻を出仕させ物陰からこっそり見たという。

 

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謀反人の娘になった珠の取った行動

珠は逆臣・明智光秀の娘、本能寺の変後2年間もの間、丹後国の味上野に隔離して幽閉されてしまいます。

 

 

二人は政略結婚なので、通常なら離縁して縁を切ってしまうところですが、忠興は違いました。

 

 

逆臣の娘をずっと妻にしておくのは不利になる状況でありながら、珠恋しさであるため忠興は幽閉ということで逃れます。

 

 

珠も離縁されるか殺されるか、覚悟を決めていたところだったのに忠興の行動には驚きました。

 

 

ただ、二人は仲難まじい夫婦だったから、珠は夫の心を理解して甘んじて辛い山奥での幽閉生活を受け入れたかもしれない。

 

 

この幽閉生活は、珠の辛い暮らしぶりを聞きつけた太閤殿下・秀吉が元の生活に戻れるようにとりなすまで続きます。

 

 

珠はその後キリシタンになりキリストの教えを熱心に学ぶようになってから落ち着き穏やかな性格になっていきます。

 

 

天下分け目の関ヶ原合戦の折、忠興は家康の次男・結城秀康と共に上杉征伐に向かっていました。

 

 

西軍の石田三成は徳川方の忠興の妻・珠を人質に取ろうとするのですが、珠はこれを拒否し、夫の命令通り死ぬことを選びますが、キリスト教では自殺はご法度なので、家臣に殺させて命を絶ちました。

 

 

-細川忠興

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。