藤原定子は藤原道隆の娘で一条天皇の中宮になる。
彼女に仕えた女房の一人に清少納言がいた、その清少納言は『枕草子』で定子は聡明で奥ゆかしい美人とたたえられていた。
父の後見や天皇の寵愛を得ていたことで華やかな将来が期待されていたが、父・道隆の急死後、兄の伊周が花山法皇の輿に矢を射かける事件を起こして失脚し、定子は出家します。
その後は、伯父の藤原道長が政権の主導権を握り、道長の娘・彰子(定子にとって従姉妹にあたる)も入内して中宮となったため、定子の権勢は衰えていく。
しかし、天皇の寵愛は変わらず一男二女を出産した。
長保2年(1000年)、第3子を出産直後、後産に失敗して23歳の若さで亡くなる。
藤原定子の家系図
藤原定子は、貞元二年(977年)〜長保2年(1001年)の生涯でした。
正暦元年(990年)、一条天皇に入内(天皇に嫁ぐ)して、中宮となるが、長徳元年(995年)、出家します。
長徳2年(996年)、定子は一条天皇の子・脩子(脩子内親王)を出産する。
長保元年(999年)に、従姉妹の藤原彰子が一条天皇に入内する。
11月7日に皇后・定子は第二子・敦康(敦康親王)を出産する。
長保2年(1000年)に藤原彰子が入内により彰子が中宮となり、定子は皇后となるも、この年の12月に第三子・媄子(媄子内親王)出産後が原因で崩御してしまいます。
▲藤原家の系図
一条天皇との出会い
永観二年(984年)8月27日、花山天皇が即位を継いだ時、皇嗣に立てられ、寛弘2年(986年)6月23日、花山天皇が内裏を抜け出して出家したため、数えわずか7歳で即位した。
これは、孫(一条天皇)の早期即位を狙った藤原兼家の陰謀と言われる(寛弘の変)。
皇太子には、従兄にあたる居貞親王(三条天皇)を立て、摂政に藤原兼家が就任した(のちに関白となる)。
就任した一条天皇は、病気がちで寂しい子供時代を過ごしましたのは、両親の折り合いが悪く、父・円通天皇とあまり会うことはできなかった寂しい幼少を送った。
正暦元年(990年)、一条天皇が11歳になった年に、初めての后になったまだ幼い14歳の藤原定子が、天皇の住まいである内裏にやってきます。定子と一条天皇は従姉弟同士、彰子も同じ従兄妹です。
お酒好きの父・藤原道隆は陽気で、母はバリバリのバリキャリとして女官の最高位に上りつめた知性派の貴子に育てられた、よく笑い明るい性格で、当時としては珍しく漢詩を読みこなすことができた女性だった。
定子と清少納言が仕えた中宮
清少納言は、一条天皇の后(きさき)である、藤原定子のお世話役や家庭教師の女房として約7年間仕えます。
▲清少納言
『枕草子』の数々のエピソードからは、この間に清少納言が10歳ほど年下の定子と親密な関係を築いたことがわかります。
あまりにも仲が良いので、恋愛関係があったのではないかとも言われてきました。
定子に魅了された清少納言
初めて出仕した清少納言と定子が出会った頃のエピソードが、『枕草子』の段のひとつ「宮仕えに参りたるころ」に書かれています。
宮仕えをはじめた頃の清少納言は人前に出るのを恥ずかしがり、目立たなくてすむ夜にしか定子の所へいけませんでした。
そこで。定子は清少納言を気遣い、清少納言を近くへ呼び寄せて絵を見せ話しかけます。
ますます緊張する清少納言でしただ、薄いピンク色に染まった定子の美しい手をみて「こんな気品のある人が、この世にいるとは」と見惚れました。
定子の優しいさと高貴な美しさに、清少納言が心を掴まれた瞬間でした。
急接近していく清少納言と定子
才女に溢れてさっぱりとした性格の清少納言と、聡明で明るい定子は気が合ったのが少しずつお互い認め合い親しくなったようです。
「清涼殿の丑寅の隅の」の段には、こんな話が残されています。
とある春の日、定子が女房たちに「思いつく古歌を詠みなさい」と教育テストを出しました。
清少納言は、定子の先祖である藤原良房が読んだ歌にある「花」という言葉を「君」(君とは定子のこと)に変えて、「君をし見ればもの思ひもなし」と詠みます。
すると定子は「古歌をうまく変えたこの機転を見なかったのよ」と褒め讃えたそうです。
「無名といふ琵琶」の段では、逆に清少納言が定子を称賛しています。
定子が女房から楽器の琵琶の名前を尋ねられた際、その琵琶の名前「無名」を掛けて「つまらない物だから名がない(無名)のよ」とシャレで返しました。
清少納言は、そんな定子の才知を素晴らしいと褒め称えたといいます。
二人はユーモアの感性が合ってた。
二人の心が通じた「香炉峰の雪
清少納言と定子の息が合ったエピソードといえば、「雪いと高う降りたるを」の段でしょう。
雪が降るある日、定子が「少納言よ、香炉峰(こうろほう)の雪は」と問いかける、そうすると清少納言は定子の意図を察して、さっと格子をあげ、簾を揚げました。
これは中国の有名な詩人・白居易が読んだ「香炉峰の雪は簾を掲げてみる」という漢詩に応じた行動です。
他の女房たちは「この漢詩を知っていても、雪を見たいという意味だとは思わなかった」と清少納言の機転に感心しました。
他にも『枕草子』には、清少納言の定子への素直な思いが書き残されています。
あるとき大勢の女房がいる中、定子が遠くにいた清少納言をわざわざ近くの席に呼び寄せてくれたことを「うれしい」と喜んでいます。
また、あるときhじゃ定子が不在と知って「来た甲斐がない」と思うほど会えないことを残念がりました。
清少納言は定子を敬愛し、定子も清少納言を特別に思っていたことがわかります。
別れて知る定子の信頼と清少納言の覚悟
相思相愛の関係にあった清少納言と定子ですが、二人は半年以上も離れていた時期があります。
清少納言が出仕してわずか一年半後、一条天皇の中宮(中宮は天皇の正妻という意味)としてトキメイテいた定子の身に不幸が襲い掛かりました。
定子の父・藤原道隆か亡くなり、兄の藤原伊周が叔父の藤原道長との権力争いに敗れ、うしろ盾を失った定子は失脚してしまった。
そのさなか、清少納言は同僚の女房たちから藤原道長に寝返ったのではないかと疑われます。
このときのエピソードが、「殿などのおはしまさで後」「御前にて人々とも」の段です。
同僚からの冷たい視線に耐えかねた清少納言は出ていました。
定子からは宮仕えを促す連絡がありましたが、清少納言は戻る気になりませんでした。
しかし、そんな清少納言の心を動かしたのは、やはり定子だったようです。
あるとき定子から、当時は貴重な上質の紙20枚と、模様のあるムシロ(薄い畳のような敷物)が清少納言のもとの贈られて来ます。
清少納言は自身が以前「自分は紙と白地に黒い模様のムシロがあると心が安らかと言った事を定子が覚えてくれていたことに感謝しました。
さらに、しばらくして、定子から山吹の花が届けられます。
花を包んだ紙には「言はで思ふぞ(いわずに心で思っています)」とだけ書かれていました。
清少納言は山吹と「言はで思ふぞ」という言葉にちなんだ古歌を連想し、次のような定子の思いに気づきます。
何も言わないで、あなたの事を思っている方が、言葉に出すより勝っています。
私はあなたを信頼しています。
そばにいてください定子の変わらぬ自分への信頼を知った清少納言は覚悟を決め、宮仕えも戻ったのです。
定子は「新参者ですが」と清少納言をからかいながら、昔と変わらぬ優しさで彼女を迎え入れたのでした。
定子を支え奮闘する清少納言
定子は天皇の子を産みますが、一方で複数の女性が次々と天皇の妻として宮中に入っていきました。
とはいえ天皇は何人の妻がいても中宮は定子一人でした。
そんななか、藤原道長も娘・彰子(しょうこ)を天皇の妻にします。
さらに道長は強引に定子を中宮から皇后(天皇の正妻)に変え、彰子を皇后と同格の中宮にしてしまうのです。
一人の天皇に二人の正妻が同時に存在するのは前代未聞の出来事でした。
そこで清少納言が定子を応援すべく奮闘したのが「大進生昌が家に宮のいでさせ給ふに」の段にあるエピソードです。
定子が住まいとした平生昌邸は門が狭いため女房たちの車が入らず、清少納言は徒歩でこの邸宅入る羽目になりました。
清少納言は「門だけでも立派にする人はいますよ」と、中国の故事を引き合いだし平生昌に文句を言い、その後も生昌に何かとからかいます。
こうした平生昌とのやりとりを清少納言がユーモアをまじえて定子に言いつけると定子も「そこまでやっつけて気の毒に」と言いつつ思わず笑いました。
自ら道化になって定子を笑顔にしようという清少納言の心意気が伺えます。
清少納言と定子の絆の到達点
清少納言と定子の二人の絆の到達点ともいえるエピソードが、「三条の宮におはしますころ」の段にあります。
5月5日の節句の祝いの日、定子の周囲も女房たちが飾り付けをして太にぎわいでした。
清少納言はこのとき「青ざし」という珍しい唐の麦菓子と、「定子さまをお慕いしています」という意味を含んだ和歌を定子に差し出します。
珍しいお菓子と機智にとんだ歌には、好奇心旺盛で聡明な定子を喜ばせようと考えた清少納言の気持ちが込められていました。
すると、その心をくみ取った定子から「あなたこそ私の心を分かっているね」という清少納言にとって最高の褒め言葉が返ってきたのです。
このとき、定子は3人目の子を懐妊していましたが、藤原道長一族に配慮した世間からは歓迎されていませんでした。
そんななかでの清少納言の心使いに定子は気が楽になった事でしょう。
『枕草子』は、もともと苦しい状況にある定子を元気づけるために清少納言が里にいたとき書き始めたものとされています。
清少納言は定子に楽しんもらおうと、辛いことは書かず、日々の面白いこと、華やかだった時代のことのみを書きつらねました。
清少納言と定子は『枕草子』を詠んで、昔の楽しい日々を思い出したり、笑い合ったりしたのかもしれません。
こうした清少納言の支えもあったのか、12月に定子は無事に第3子の女の子を出産します。
しかし喜びも束の間、体力が弱っていた定子は出産後しばらくして24歳の若さで亡くなりました。
定子と清少納言は恋仲だった?
清少納言と定子の関係があまりにも親密なため、二人は恋仲だったという見解もあります。
確かに清少納言は『枕草子』で、定子の指先や「額のあたりが白くとても綺麗」と定子の美しに度々うっとりしています。
また、「うれしきもの」の段では、「沢山の女房がいるなか定子さまが自分自分に目を合わせて喋ってくれるのが嬉しい」とも、恋する乙女の気持ちに近いとも考えられそうです。
「御方々公達上人」の段では、定子の方も清少納言に「私にあなたの事を思って欲しい?その時は一番がいい?」と問いかけています。
「中宮さまに思われるなら私は最下位でも」と答える清少納言に、「一番の人(私)に一番と思って貰おうとしないだめよ」と定子は返しました。
このやり取りは、以前に清少納言が「自分は一番に思われるのは一番でないと嫌」だと言っていたことからなのですが、「私から一番に思われた?」と聞くとは恋人どうしのような会話にも思えますね。
とはいえ清少納言も定子もそれぞれ結婚しており、身分も違うため恋愛関係にはなかった思われます。
清少納言にとって定子は永遠の憧れの主人であり、その思いは定子の死後も変わりませんでした。
その証拠として。定子への鎮魂の意を込めて『枕草子』を書き続けたのです。
『枕草子』の数々のエピソードから、清少納言と定子は恋人かと思われるような親密な関係だったことが見てとれます。
お互いに聡明で明るい人柄の二人は気が合ったのでしょう。
当初は定子に支えて貰った清少納言も、いつしか定子を支える存在になっていました。
実際には恋人では無かったでしょうが、お互い大切な人同士であり、清少納言にとっては定子が生涯ただ一人の敬愛すべき人物だったに違いありません。