伊達政宗の父は伊達氏第16代当主・伊達輝宗、母は正室の最上義守(最上氏第10代当主の娘)・義姫で、兄弟姉妹は弟・伊達政道(小次郎)天正18年(1590年)に死去、姉もしくは妹・千子姫、異母兄弟に伊達秀雄(のち大悲願寺住職)、女子(詳細不明)です。
戦国時代末期に奥州をほぼ平定した、伊達氏の第17代当主です。
62万石の仙台藩の初代藩主、幼少の頃の患った天然痘のために右眼を失明して隻眼ながら武勇に秀でた人物でした。
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伊達政宗には正室として愛姫を迎へ次男・伊達忠宗(仙台藩第2代藩主)、五郎八姫(長女で松平忠輝の室のちに離縁)、長男・伊達秀宗(宇和島藩第2藩主)母は側室・新造の方かは不明ですが、含む10男4女をもうけた。
伊達騒動は伊達政宗が、寛永13年(1636年5月24日)に亡くなってから起きた事件です。
伊達騒動は大きく3つの期間に分けられてますが、一般的に伊達騒動と呼ばれるのは、寛文事件を指すことが多いです。
伊達4代藩主・伊達綱村の時代の万治元年(1660年)から寛文11年(1671年)までに起こりました。
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伊達騒動を作った3代城主・伊達綱宗隠居事件
仙台藩3代藩主・伊達綱宗は放蕩三昧の生活を送っていた、これに対し、叔父で一関城※1城主の伊達宗勝が諫言※2しましたが、藩主・綱宗は聞き入れてくれません。
※1.一関城とは、天和2年(1682年)伊達家の分家田村建顕が岩沼から一関へ移され、一関藩が再興、以後代々築城年代は定かではない。
天正年間(1573年〜1592年)に葛西氏の家臣・小野寺伊賀守道照が登米から一関へ移され、一関城を居城とした。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の奥州仕置きによって葛西氏は滅亡し、その所領は木村吉清に与えられたが、間もなく葛西大崎一揆が起こり、鎮圧後は伊達政宗の所領となった。
伊達政宗は、はじめ重臣の留守政景※を一関城主とし北東麓に居館を構えた。
※.留守政景とは、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、伊達政景の名で知られています。伊達氏の一門で、留守氏18代当主。
寛文年間(1661年〜1673年)伊達政宗の十男・伊達宗勝が三万石を領して一関藩となった。
しかし、伊達騒動によって宗勝は所領没収のうえ土佐藩にお預けの身となり一関藩は一代で消滅した。続いて明治に至る。
※2.諫言(かんげん)とは、いさめること。その言葉。「この点を強く上司にーする」▲
その結果、一関城主・伊達宗勝は他の親族大名や老中・首座の酒井忠清に訴え、1660年に主君・伊達綱宗は強制的に隠居させられた、わずか2歳の伊達綱村が第4代仙台藩城主に就任した。
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寛文事件
4代藩主・伊達綱村になると、伊達宗勝や立花忠茂が実験を握りました。
伊達宗勝は目付の権力を強化し、奉行を上回る権力を与えました。
しかし、この集権化に反対する声もあり、伊達宗重と宗勝の間で所領紛争が起こり、この紛争は幕府に訴えられ、寛文11年(1671年)に審問が行われましたが、その最中に原田宗輔が伊達宗重を斬殺し、その後原田宗輔も死亡しました。
この事件により、宗勝の一関藩※3は改易されました。
※3.一関藩(一関城)とは、釣山に築かれた山城で、小野寺氏、伊達氏、田村氏などが居城した。(現在は釣山公園となっており、城郭や井戸などの跡が見られる)
一関城は伊達氏の支城である一関藩の旧城であり、現在は釣山公権になっています。
一関城は別名・釣山館や高崎城とも呼ばれ、岩手県一関市で一位、岩手県で二位のお城として知られています。
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伊達綱村隠居事件
4代城主・伊達綱村は寛文事件に後、権力を強めようとしましたが、次第に自身の側近を藩の重職に据えるようになった。
これに不快感を示した、伊達一門と旧臣は綱村に諫言書を提出したが聞き入れらなかったため、元禄10年(1697年)一門7名と奉行の5名の計12名の連名で、幕府の藩主・伊達種村の隠居願いを提出しようと試みた。
これに対して、伊達家親族の高田藩主・稲葉正往は隠居願いを差し止めた。
その後も再三にわたり、一門・家臣が城主・綱村に対する諫言書の提出が続いた。
元禄16年(1703年)、この内紛が時の5代将軍・徳川綱吉の耳に達し、仙台藩の改易が危惧されるようになった。
このため老中になっていた稲葉正往は伊達綱村に状況を説明し、隠居を勧告した。
これに促され、伊達綱村は幕府に対して隠居願いを提出し、伊達綱村には実子がいなかったため従弟の伊達吉村が仙台藩第5代藩主となった。
伊達騒動は4代城主・伊達種村の隠居でようやく終止符をうった。