元亀元年(1570年)、越前国敦賀郡金ヶ崎(現・福井県敦賀市金ヶ崎町)で織田信長・徳川家康率いる「織田・徳川連合軍」と「朝倉義景」率いる「朝倉軍」が対峙したことは皆さん知っていると思いますが、多勢の織田・徳川連合軍約3万に対し、朝倉軍は約4,500で戦った。
当初は、織田・徳川軍が優勢でしたが、信長の義弟・浅井長政が朝倉軍について裏切ったことにより形成逆転してしまった。
戦国史上有名な織田信長が危機的状況下で行った撤退戦でもあることかあら、「金ヶ崎の退き口」や「金ヶ崎崩れ」とも呼ばれています。
※.上記の「金ヶ崎の戦い」の詳しい記事がありますので興味のある方はクリックして読んでください。
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もともと朝倉氏は越前に本拠地を構えていなくて出自は但馬の地方の豪族で、南北朝期に朝倉広景が北朝方の斯波高経※1に従って越前に入ったのが越前朝倉氏の始まりだった。
※1.斯波高経とは、南北朝時代の武将、守護大名。
越前・若狭・越中守護。足利氏の有力一門・斯波氏(足利尾張守家)4代当主で、なお、高経自身はその存命中に斯波姓を自称したことを他称された事もなく、足利氏の別家(足利尾張守家)城主として終生足利の名字で呼称されたため、現在も足利高経と呼ばれる事も多い。また、藤島の戦いで新田義貞を討ち取る功を挙げた。
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朝倉氏西軍から東軍へ寝返った
七代・朝倉孝景は応仁の乱で活躍。
応仁の乱が終息へ向かうと同時に、朝倉孝景は朝倉広景から数えて七代目の当主、教景・敏景とも名乗っていました。南北朝期以降、越前守護は管領家の斯波氏が継承してきたのですが、次第に守護代の甲斐氏が力をつけてきて斯波氏と対立するようになっていきました。
斯波氏自体、斯波義敏と義廉の家督をめぐる内紛が表面化していき、応仁の乱の一因のもなっていくことになります。
応仁の乱が勃発すると、当初、朝倉孝景は斯波、甲斐氏と共に西軍(山名宗全)に属して京都で戦いました。
しかし、東軍の大将・細川勝元が、「西国一の暴れん坊」と称された朝倉孝景に対し、越前守護任命を条件に寝返らせたのです。
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戦国の家法を制度
文明3年(1471年)に守護に就任した朝倉孝景は、ついに斯波・甲斐氏を抑えて越前をほぼ平定してしまいました。好機を逃さず、軍略を駆使してのし上がったため、初期の下克上大名※2の一人ともされています。
※2.下克上
まず下克上とは、地位が低い者が上の者に代わって実権を奪うことを意味します。下克上の事例は、室町時代から戦国時代にかけて多く発生しました。家臣が主君を殺害したり、農民が領主に抵抗したり、分家が本家を乗っ取るなど様々なケースがありました。
戦国時代では、出自が農民であっても才能次第で戦国大名になることができたため、豊臣秀吉のように下克上が起こった時代でした。
※2.下克上大名
下克上大名と知られている戦国武将は
⚫️三好長慶:一時は畿内のほぼ全域を掌握し、「三好政権」と呼ばれ呼ばれる独裁政権を樹立した戦国武将です。
⚫️斉藤道三:京都の寺院に出家した幼少時代から、油商人を経って戦国大名となりました。
⚫️浅井長政:北近江の守護・京極氏の家臣でしたが、名門を追い落とした下克上大名です。
※.下克上の風潮は、室町幕府の影響力が低下し、各地で争いが絶えない状態となった戦乱の世の中で広まりました。実力がものをいう時代になり、身分の低い者が身分高い者を実力で倒すっという風潮が広がりました。
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朝倉家当主
七代・朝倉孝景は、応仁の乱で活躍した武将。
応仁の乱が終息へ向かうと同時に、越前一国を手中に収めるべく、次々と戦いを起こしました。
▲越前 朝倉氏の系図
戦いでは連勝を重ね、ほぼ全域を平定したところで、越前守護に任じられ大名としての朝倉氏が確立したのです。
朝倉高景
正和3年(1314年)〜応安5年(1372年)朝倉広景(越前朝倉氏の祖)の子。
斯波高経の子・斯波義将が2代将軍・足利義詮の執事になると、越前の守護代となりました。享年59歳。
朝倉教景
康暦2年(1380年)〜寛正3年(1463)
朝倉為景の子。孫は戦国大名・朝倉氏初代・朝倉孝景。
六代将軍・足利義教の命により一色義範を討ち、永享の乱で関東公方・足利持氏・義久父子を攻め、その後結城合戦にも参戦。享年84歳。
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朝倉孝景
正長元年(1428年)〜文明13年(1481年)
戦国大名・朝倉氏初代。
朝倉教景(家景)の子、初名は教景後に敏景を名乗った。
朝倉孝景は越前守護の斯波氏に内紛が起きると、守護代の甲斐氏と結んで渋川氏出身の斯波義廉を擁立して、当主の斯波義敏を追やりました。
応仁の乱では当初斯波義廉の西軍についていましたが、後に細川勝元の東軍に寝返った。
その後、一乗谷を本拠地にし、甲斐氏の勢力を駆使して越前の支配固めてしましました。
「朝倉孝景条々(朝倉敏景十七箇条)」という家訓を制定しました。
享年54歳。
正室は叔父・鳥羽将景の娘。
朝倉貞景
文明5年(1473年)〜永正9年(1512年)、戦国大名・朝倉氏三代、朝倉氏景の子。
朝倉元景ら一族の内紛を抑え、加賀一向一揆の侵攻を撃退して朝倉氏の越前支配を確立し、明応8年(1499年)将軍職を追われ越中にいた足利義稙が朝倉貞景を頼り、将軍復帰のために兵を出すことを求められましたが、飢餓を理由に兵を出すことは拒否しました。
享年40歳。
正室は美濃守護代・斎藤利良の叔母。貞景の娘は美濃守護・土岐頼武に嫁ぎました。
朝倉孝景
明応2年(1493年)〜天文17年(1548年)、戦国大名朝倉氏四代。
朝倉貞景の子。享年56歳。
正室は若狭の大名・武田元信の娘。
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朝倉義景
天文2年(1533年)〜天正元年(1573年)、戦国大名朝倉氏五代。
朝倉孝景の子、幼名は延景で十三代将軍・足利義輝の一字を頂き義景と名乗りました。
将軍・足利義輝亡き後、その弟・足利義昭を越前に迎え、その後、義昭は織田信長を頼り越前を去りました。
元亀元年(1570年)姉川の戦いには自身は出陣せず、朝倉景鏡を近江に派遣し、盟友の浅井長政を援けて※3織田・徳川連合軍と戦うも敗れました。
※3.授けてとは、「援けて」は「たすけて」と読みます。「授」は「たすける」を意味する漢語で、音読みは「エン」です。訓読みは「たすける」で「助ける」と同じ意味です。「援」を使った言葉には、「義援金」「援護射撃」などがあります。
その後、近江国を中心に織田軍との戦いを繰り返して、天正元年(1573年)に浅井長政(信長の義弟)は滅ぼされ、その勢いで越前まで侵攻され、一族の朝倉景鏡の裏切りによってあっけなく滅びた。享年41歳。
正室は細川勝元の娘、側室は近衛稙家の娘。