北条早雲=伊勢宗瑞が「北条早雲」と呼ばれるようになったのは、彼の死後のことです。
生前は伊勢宗瑞や伊勢新九郎と名乗っていました。
「北条」の姓を名乗るようになったのは、嫡男である氏綱の代からです。
氏綱は苗字を「伊勢」から「北条」に改称し虎の印判を用いた虎朱印状を始め、一定の地域の支配を管轄する拠点(=城)を取り立てる支城制を整えていkなど、後の北条氏代々にも続く基本の体制を作り上げいった。
氏綱は、関東での支配を正当化するために、鎌倉幕府の執権であった北条氏の名を借りて伊勢を北条名に名乗りました。
また、伊豆の地名である「北条」に由来することありあり、関東の武士達にとって馴染みやすい名前でした。
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難攻不落の小田原城を攻略
北条早雲=伊勢宗瑞が小田原城を欲しかった理由は、戦略的な要素が大きかったのです。
小田原城は関東地方の要所に位置し交通の要衝で、これにより関東一円を支配するための拠点として非常に重要であった。
また、小田原城を手に入れることで、北条氏はその後勢力拡大の基礎を気づくことができ、実際、北条氏は小田原城を本拠地として、関東地方での支配を強化し、約100年間にわたって勢力を維持しました。
このように、小田原城は地理的・戦略的な価値が高く、北条早雲=伊勢宗瑞にとっては関東地方での拡大を図るための重要な拠点だった。
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奇襲で小田原城を獲得
明応2年(1493年)、伊豆国に乱入して堀越公方・足利茶々丸を駆逐した伊勢宗瑞=北条早雲の伊豆討ち入りには、扇谷上杉定正の手引きがあったとの見方があ古来より強い。
▲伊勢宗瑞=北条早雲の系図
上杉定正は伊勢宗瑞と結ぶことになる。
明応3年(1494年)、扇谷家重臣の大森氏頼と相模の名門の三浦時高が相次いで死去すると、同年10月に扇谷・上杉定正は伊勢宗瑞と共に武蔵国高見原に出陣して上杉顕定と対陣するが急病により死去した。
荒川を渡河しようとした際に落馬して死去。
大田道灌の亡霊が上杉定正を落馬させたのだとする伝説があります。
長岡市にある定正院が菩提所と伝えられています。
上杉定正・大森氏頼・三浦時高の三将の死は扇谷家にとって大きな痛手となった。
甥で養子の上杉朝良が跡を継ぐが、伊勢宗瑞とその子・伊勢氏綱の侵攻に押され、扇谷家は徐々に所領を蚕食※1されていった。
※1.蚕食(さんしょく)とは、(蚕(かいこ)が桑の葉を食うように)片っ端から次第に他の領域を侵略すること。
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すると、伊勢宗瑞=北条早雲は、西相模の要衝で難攻不落といわれた小田原城の攻略に乗り出します。
父・大森氏頼の死後跡は兄の実頼が継ぐわけだったが早死のため、父の氏頼が没した明応3年(1494年)前後に大森藤頼が家督を継いだといわれる。
氏頼没後の大森氏について家督を争った大森憲頼の一派とに内紛状態にあったともいわれています。
城主になった大森藤頼に伊勢宗瑞=北条早雲が進物を贈るようになり、友好関係を装い大森藤頼に接近し、油断した藤頼が箱根山中に鹿狩りを許してしまったため、勢子※2擬装した伊勢軍の奇襲を受け、小田原城を略取りされ追放されたといわれます。
※2.勢子(せこ)とは、狩猟を行う時に、山野の野生動物を追い出したり、射手(待子:まちこ、立間:たつま)のいる方向に追い込んだりする役割「に人をさす。
かりこ(狩子、狩り子)、列卒(せこ)ともいう。大人数でで行う巻狩りなどの狩猟法で、勢子は活躍した。領主などの権力者が行うように大規模な巻狩では参加する勢子の人数が数百人を超えることもしばしばあった。
この時伊勢宗瑞=北条早雲は既に64歳になっていました。
この間、権勢を誇った関東管領の上杉家は扇谷、山内の二流派に分かれて抗争に明け暮れおり、すっかり伊勢宗瑞=北条早雲に虚をつかれた格好となりました。
この事件が起きた年代について通説では、明応4年(1495年)とされていますが、その翌年に書かれれたとされる山内上杉家の上杉顕定の手紙には伊勢氏が大森氏(藤頼か?)を小田原城に攻めたが、三浦義同(道寸)らの援軍に敗れたとあり、伊勢氏が小田原城を奪ったのはそれ以後、文亀元年(1501年)までには奪取されたと考え考えられている。
また、城の奪取に際し、大森藤頼と大森盛時にこのようなやり取りがあったか不明である。
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北条早雲関東へ進出
室町時代中期後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖・初代です。
伊勢氏の一族であり、号は、早雲庵宗瑞。
伊勢から姓名を変えて称したのは死後、嫡男・氏綱※3の代になってからです。
一般的に「北条早雲」の名で知られていますが、本人自ら北条早雲と名乗ったことはなく、生前の署名も「伊勢宗瑞」または「伊勢新九郎」だった。
※3.氏綱(うじつな)とは、戦国時代の武将で戦国大名、後北条氏第2代の当主。伊豆国・相模国を平定した初代・伊勢宗瑞の跡を継いで領国を武蔵半国、下総の一部、そして駿河半国にまで拡大させた。
「勝って兜の緒を占めよ」の遺言でも知られる。
当初は伊勢氏を称していたが、北条氏を称するようになったのは父・伊勢宗瑞の死後の大永3年(1523年)か大永4年(1524年)からである。
父・宗瑞は北条氏を称することは生涯なかったが、後北条氏として氏綱を北条氏綱として2代目と数える。
なお、氏綱以降の当主が代々通字※4として用いることとなる「氏」の字は、宗瑞の別名として伝わる「長氏」「氏成」「氏盛」の偏諱※5に由来するものとも考えられる。
(もっとも、近年の研究では宗瑞の諱は「盛時」であったとするのが定説となっている)。
氏綱の元服時に宗瑞がまだ今川氏の婚族・重臣であったことから従兄である今川氏親からの偏諱として与えられたのでないかという説があります。
※4.通字(とおりじ)とは、人の実名に、祖先から代々伝えてつける文字。例えば源氏で頼朝、頼家、義家、義朝の「義」「義」、平氏での清盛、重盛の「盛」などの類。世間一般に通用している俗字。
※5.偏諱(へんき)とは、2字のうち、主に通字ではない方の字は、ある程度避ける習慣があり、このように避諱が行われ字を偏諱という。
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先の小田原城主大森氏の時代
小田原城の創建時代は明らかになっていませんが、15世紀中頃に大森氏によって造られたと考えられています。
大森氏は北駿地域と呼ばれる(現・裾野市・御殿場市あたりを本拠地としていたが、関東の争乱で次第に勢力を拡大していきます。
さらに相模国や武蔵国で公方足利氏と関東管領の上杉氏(長尾氏)による争乱が起こるなどの政治状況により、箱根を超えて小田原に本拠を移したと思われます。
その頃の小田原は町場も独自に発展し、永享4年(1432年)の関東公方・足利持氏の御教書で「小田原関所」が見られるように、室町時代中期には関所も設けられていました。
小田原を配下に置いた大森氏は、関守として交通の要衝も抑えていたことになります。
大森氏時代の小田原及び城について詳細は知られていないが、従来の町場も取り込み、後の小田原城下の原点ともいうべき開発をすすめたと思われます。
(この頃の小田原城は現在の八幡山古郭が中心と言われていましたが、発掘調査によって八幡山から天正年間(北条氏政・氏直の時代)以前の出土品がないことから、大森氏の時代から小田原城の中心地は現在の城址公園にあったとも考えられます。)