美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

太田道灌

江戸城を築城した太田道灌はなぜ?主君に殺されたか悲運の武将

投稿日:2024年10月22日 更新日:

 戦国一の智将とも称される太田道灌。

彼の功績は、同時代を生きた他の誰とも比べられないほど輝かしいものでしたが、彼の聡明すぎる頭脳と自己顕示欲は、自身の破滅を招いたひとつの要因だったと言えるでしょう。

         ▲太田道灌の家紋

 

出る杭は打たれるという言葉を使いたくはありませんが、彼を許容する度量の広い主が存在しなかったことが、彼の不運でした悲運の名称、大田道灌は、室町時代後期の武将で特に関東地方で活躍しました。

 

 

本名は大田資長で幼名・鶴千代です。
父は資清で扇谷・上杉定正に仕えた。

 

 

道灌は康正2年(1456年)に江戸城を築城し、後の江戸の発展の基礎となりました。

         ▲太田道灌

 

また、父・資清と共に岩槻城や河越城も築き、武蔵国や相模国での影響力を強めました道灌の生涯は戦乱の中で過ごし、享徳の乱や長尾景春の乱などの戦いで活躍、特に上杉氏の仕え扇谷上杉家と山内上杉家の内紛の調整にも尽力しました。

 

 

晩年には、道灌の名声と影響力が強くなり過ぎたため、主君の上杉定正から警戒され謀反の疑いをかけられ暗殺されてしまいます。

 

 

武将としてだけでなく、学者としても一流とされ文化的な面でも高く評価されています。

 

スポンサーリンク

 

 

太田道灌暗殺される

長尾景春の乱の鎮圧に乗り出す

古川公方・足利成氏に対抗するための算段を練っていた太田道灌ですが、ここで思わぬ事態が起きてしまいました。

同じ上杉の中で内紛が起きてしまった。

 

 

山内上杉家の当主・上杉顕定が、家宰※1の地位を別の者に与えたことに不満に思った重臣。長尾景春が、主家に対して反旗を翻してしまったのでした。

※1,家宰(かさい)とは、家の仕事を、その家の家長に代わって取り仕切る人のこと。

 

 

これが、享徳の乱の最中に同時進行で起こった『長尾景春の乱』です。

長尾景春と太田道灌は従兄弟同士だったため、

 

 

長尾景春から誘いもあったのですが、道灌は断り享徳の乱での戦いを進めつつ、従兄弟の景春とも対峙する道を選びました。

 

 

道灌からすれば主家である扇谷上杉家が補佐する山内上杉家に反抗する長尾景春は、逆賊として戦った。

 

 

まず、道灌は長尾景春の乱を鎮圧することに尽力し成し遂げます。

道灌なくして長尾景春の乱の鎮圧はなく、道灌こそが最大の功労者だった訳ですが、それを正当に評価されないことが、道灌の心に不満を芽生えさせました。

 

 

それは主家にも伝わりお互いに疑心暗鬼となって行くのです。
結局やはり家臣でなかった道灌は、主君によって命を奪われることとなります。

 

 

長尾景春の乱を鎮圧する

長尾景春方の城を次々と落とした太田道灌は快進撃を続け、ついに長尾景春の拠点・日野城(現・秩父市)を落とし長尾景春の乱を鎮圧することに成功しました。

 

 

この間道灌は古河公方対策も行っていたといわれているのですから、その頭脳と行動力には驚かされています。

 

 

長きに渡っる享徳の乱で疲弊してきた古河公方・足利成氏は、上杉方との和睦を考えるようになっていましたが、足利成氏に加担している千葉市が和睦に反対していました。

 

 

ここに目をつけた太田道灌は千葉氏内部での対抗勢力を担ぎ出し、千葉氏自体を分裂させる、こうして古河公方と上杉方での和睦が成立し、30年にわたる享徳の乱は、ようやく収集に向かうことになります。

 

 

享徳の乱と長尾景春の乱の両とも太田道灌の活躍なくして収集はありませんでした。

 

 

ほぼ負けなしで戦い抜いた道灌の活躍はまさに「八面六臂」と呼ぶにふさわしいもので、道灌「山内上杉家にあるのは、私のおかげだ」と書状の上自負するほどだったのです。

 

 

そこまで言うことが出来たのは道灌の功績がずば抜けていた。

 

 

 

主君に招かれまさかの暗殺劇

文明18年(1486年)道灌上杉定正の館に招かれ、足を運びます。

そこに湯を使わせてもらった道灌ですが、風呂から上がった道灌を待ち受けていたのは定正がはなった刺客でした。

 

 

道灌は暗殺者の手にかかり絶命します. 享年55歳です。

 

 

主家の滅亡を予言

太田道灌を襲った刺客には和歌の心得があり刃を手に同課に対し「かかる時、さこそ命の惜しからめ(この時さぞかし命が欲しいだろう)」と上の句を詠みかけました。

 

 

すると和歌に長け、時に戦いの中で和歌を読んだ逸話も持つ道灌は、刃をその身に受けながらも「かねてなき身と、思い知らずは(前から、身分など存在しない身と指そっていなかったならば、な)と返し、その後「当方滅亡」と叫んで絶命したといわれて言われています。

 

 

道灌の最期の言葉には、「自分が死ねば、主家(扇谷上杉家)もいずれ滅亡する」という意味が込めらていたそうです。

 

 

果たして道灌の予言通り扇谷上杉家は衰退に迎えます。

道灌が暗殺されたことで、道灌の息子や側近たとは、皆山内上杉家に出奔し、翌年には両者の直接対決「長享の乱」が勃発して、両 上杉は自ら衰退の道を歩むことにななるのです。

 

 

戦国一の智将とも称される太田道灌、道灌の功績は同年代を生きた他の誰とも比べられない輝かしいものでしたが、彼の聡明過ぎる頭脳と自己顕示欲は、自身の破滅を招いた一つの要因だったと言えるでしょう。

出る杭は打たれるということです。

 

 

 

太田道灌

太田道灌は室町時代後期の武将で、相模の生まれで大田資清の子で本名は大田資長で扇谷・上杉定正に仕える。

 

 

康正2年(1456年)に江戸城の築城に取りかかり翌年に寛政させ、また、父と共に岩崎城、河越城の2城を築き、武蔵・相模の実力者となっていく。

         ▲江戸城

 

文明8年(1476年)、山内・上杉顕定の家臣・長尾景春の乱が起こると、上杉定正と上杉顕定を守り、以後、数年に渡り、関東各地で長尾景春の兵と戦い、これにより、扇谷上杉氏の勢力を強める一方で、自らの名声を高めていった。

 

 

ところが、その後、山内、扇谷の両上杉家の対立が強まる中、文明18年(1486年)、相模国糟屋(現・神奈川県伊勢原市)で、主君の上杉定正に殺害された、扇谷家のの内部対立と、扇谷家の台頭を恐れた山内家・山内顕定の陰謀ともいわれています。

 

 

太田道灌は、幼少の頃から学問を好み、特に古今の兵書を読んで兵学に強く、軍法師範と称された。

 

 

なかでも足軽軍法を得意としたという。

また、詩歌を好み文明17年(1485年)には、臨済宗の僧、万里集九らを江戸城に、あるいは建長寺や円覚寺の学僧を隅田川に招いて船を浮かべるなどして、度々討論会を催した。

 

 

文明10年(1478年)に江戸平河城内梅林坂上に平河天満宮(平河天神)は、天正18年(1590年)に徳川家康によって上平河村に、その後、慶長11年(1606年)に徳川秀忠によって現在地に奉還され、江戸市民の崇敬を集められている。

 

 

 

太田道灌の江戸城は中世的な城

父・大田資清の命で道灌は早速城を築く土地の検討に入り江戸の地を選びました。

 

 

当時の江戸氏はかなり勢力が衰えておました。

江戸氏の子孫である江戸重広は道灌に追われるように江戸の地を去り、現在の世田谷喜多見の地に移しています。

 

 

その後も江戸氏の一族は細々ち在続していましたが、勝忠の代に徳川家康に仕え名前も喜多見氏と改称し、しばらくは徳川幕府の下で存続していた。

 

 

しかし、五代将軍・徳川綱吉の時代に、喜多見重政は身内の刃傷沙汰の責めを負って失脚し、ついに江戸氏の系統が途絶えることになります。

 

 

道灌が江戸の地を選んだ頃の、このあたりの地は、いわば勢力を持った領主のいない荒涼寂寞たる土地だった。

 

 

しかし、道灌はそのような茫漠※2たる江戸の地が地勢、形勝に優ると判断し、長保元年(1457年)ここに江戸城を築城しました。

※2.茫漠(ぼうばく)とは、とりとめがないほど広い土地、ぼんやりしてつかみどころのないさま

 

 

そして、この城を拠点として南関東一帯を治めるおうになりました。

しかし、道灌は何故このような荒れた地を選んだのでしょうか、また、ここが地勢、形勝に優れていると判断した理由はどこにあったのか?

 

 

今でも、その名が残っていますが、当時この辺りには千代田村、宝田村、祝田村と呼ばれる小さな村がありました、それらの村が後々まで繁栄する縁起のいい名前であったことや、この辺りから眺める富士や海辺が絶景であったことを道灌は気にいっていた。

 

 

そればかりではなく、江戸は奥羽へ通じる要衝の地であること、荒川の存在によって水運の便に恵まれ、川越と江戸とを結ぶ重要な交通路が確保出来ること、さらに荒川は敵の侵入を防ぐ格好の自然の要害であることなどを見抜いていました。

 

 

道灌は江戸城を築きましたが、精勝軒と呼ばれる櫓も作り、この櫓は、現在の皇居の富士見櫓のある場所に造られ、道灌はこの櫓から富士山や海の素晴らしい眺望を楽しんでいました。

 

 

道灌が精勝軒で読んだ句があります。

「我が庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る」
この句からみても、当時海岸の松原が精勝軒のすぐ側まで迫っていたことが分かります。

 

 

その海岸とは、日比谷入江の海岸のことです。

そして、一望のもとに富士の雄姿が眺められる絶景の地だったことも確かなようです。

 

 

 

山吹の里伝説

大田道灌といえば、何をおいても『山吹の里伝説』です。

ある日、道灌が鷹狩中に急な雨に降ってきたので蓑を借りようと、一軒の農家に立ち寄った。

 

 

その時、中から出てきた少女は何も言わずに一枝の山吹を差し出しましたところ、道灌は腹を立てて立ち去りました。

 

 

しかし、憤り帰って近臣にことの由を告げた。

家臣の一人が「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」の古歌を引用し「実の」「蓑」をかけて、“蓑”がない事をお詫びする気持ちを込めて山吹の花を差し出したことを教えられました。

以降、道灌はこれから和歌の道を学ぶよう励んだといわれています。

 

 

-太田道灌

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。