美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

戦国時代突入

応仁の乱後も戦乱継続し戦国時代が本格化して行き各戦国大名の登場

投稿日:2024年11月6日 更新日:

 15世紀の終盤になって突如として歴史の表舞台に登場したのが北条早雲=伊勢宗瑞、将軍一族の堀越公方を滅ぼして伊豆を平定し、野望の実現小田原城を奇襲で落とし関東管領上杉氏や三浦氏といった強敵を奇策を駆使しながら次々と破って行き、念願の相模制覇を果たし戦国大名の先駆けとなってきます。

※.上記の北条早雲=伊勢宗瑞をクリックすると別の記事があります。興味ある方はご覧になってください。

 

 

加賀の守護を倒した一揆勢が越前を平定した朝倉勢に挑むも急流のの九頭竜川で敗退。

 

 

応仁の乱が集結した後も混乱がなお続いていました。

足利将軍家や有力大名の間で内戦が頻発。

 

 

将軍家の影響力の衰退と、各地の国人一揆といった混乱に乗じて管領家の細川氏が力を増して行きます。

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ただ、細川家自体も家督争いが発生して不安定だったため、細川氏を軸とした政権も長くは続きませんでした。

 

 

西国では、鎌倉時代の有力御家人の流れを組む名家の大内氏が、応仁の乱の後、勘合貿易による利益や軍事力を背景に、幕府内でも強い発言権を有するようになりました。

 

 

ところが、中国地方でも国人たちが勢力を伸ばし出雲、石見を支配する尼子氏らの脅威が表面化化していき、地元を監視する必要に迫られた大内義興は京都を離れ周防に帰国します。

 

 

実力者がいなくなった京都では、足利将軍家、細川家の内紛が再燃してしまいました。

それにより全国各地で戦乱、下克上が勃発する。

 

 

戦国の主舞台の一つとなる尾張美濃で下克上の代表といわれるs斎藤道三は、父子二代で実力者にの仕上がり、土岐氏を倒して美濃を支配を完成させてました。

このほか、北陸では朝倉氏が手強い一向一揆を平定します。

▲上記の朝倉氏をクリックして貰うと詳しい記事に飛びます。よかったら読んでください。

上記の朝倉氏をクリックして貰うと詳しい記事に飛びます。よかったら読んでください。興味ある方はご覧になってください。

 

 

また、甲斐でも武田信玄の父・武田信虎が周囲の並み居る勇将を退けて支配を固めるなど、日本各地で弱肉強食の戦乱の世が現出した。

 

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北条早雲が激戦地相模を制覇

まず相模の雄三浦氏を標準にした

15世紀後半、突如として戦乱の世に踊り出た名称・北条早雲=伊勢宗瑞は小田原城を落とした後、相模国の平定に乗りがした。

 

 

緒戦となった相模西部での山内・上杉顕定との戦いは苦戦しますが、永正元年年(1504年)の武蔵立川原の戦いでは、今川氏親と共に出陣して扇谷・上杉朝良を援護し、山内・上杉軍に大勝した。

 

 

躍進する北条早雲=伊勢宗瑞に脅威を感じた両上杉家は手を組ます。

ここで北条早雲=伊勢宗瑞は攻撃目標を相模最大の勢力を持つ扇谷・上杉の重臣・三浦氏に定めます。

 

 

三浦氏の当主・三浦道寸(義同)は剛男で知られた強敵でした。

 

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3年かけ新井城落とす

早雲=伊勢宗瑞は周到に準備を重ね、永正9年(1512年)に三浦道寸のいる相模岡崎城を攻めたが、道寸は必死で防戦しましたが、こらえきれずに住吉城さらに三浦半島の新井城に移住。

 

 

早雲=伊勢宗瑞は三浦半島の付け根に玉縄城を築いて糧道を断ち、三浦氏応援の機会を伺っていた両上杉勢や江戸城の太田道灌を食い止めた上で、新井城を包囲し兵糧攻めを決行した。

 

 

3年後、ついに三浦軍はは全員が城から出て玉砕し、相模全土が北条早雲〜伊勢宗瑞の手中に落ちた。

 

 

新井城下の油壺湾は、三浦軍の兵士の血で真っ赤に染まったといわれています。

早雲=伊勢宗瑞は、その3年後88歳で死去した。

 

 

約100年間続いた「北条五代百年」の創設者として、繁栄の疎を築き上ました。

北条家の野望は2代の北条氏綱・3代の北条氏康へと受け継がれ、宿的のライバルともいえる管領家の両上杉氏、大田氏、里見氏といった数々の強敵との戦いに次々と勝利を収め、関東制覇への道を行ったのです。

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朝倉貞景が永正の一向一揆撃退

拠点一乗谷に接近

越前支配を確立した朝倉孝景の孫の3代目当主・朝倉孝景のとき、最大のピンチを迎えます。

 

 

守護冨樫氏を滅ぼし加賀支配を実現した一揆勢が、隣国越前に勢力を広げ始めたのです。

 

 

永正3年(1506年)7月、一考一揆勢は加越国境から続々と越前に侵入。

 

 

戦いながら、朝倉氏の最後の防衛線である九頭竜川にまで迫りました。

川を越えると、朝倉氏の拠点である一乗谷まで一気に近づくことができます。

一揆勢は30万の大軍。

 

 

対する朝倉方は一万程度、総大将で孝景の子・朝倉教景(宗滴)は、先手を打って渡河して、総攻撃をかける作戦を敢行しました。

 

 

数は少ないながらも一騎当千の武者が襲い掛かり、不意をつかれた格好の一揆勢は右往左往の大混乱陥り、先を争って川に飛び込んで溺死する者も多く、暴れ川として有名だった九頭竜川は、一揆勢の死傷者で埋め尽くされたという。

   ▲一向一揆衆を討つ朝倉勢

 

 

その後も続いた戦い

 

永正の一向一揆と呼ばれるこの決戦の後、朝倉氏は一向宗本願寺派に対するる厳しい禁止政策とった。

 

 

蓮如がかつて滞在し、加賀の一向宗徒の拠点ともなった吉崎を始め、和田本覚寺、藤島超勝寺、久末照巖寺、荒川興行寺といった諸寺院を打ち壊し門徒たちを国外追放処分にしました。

これらの寺院の門徒たちが持つ土地・財産も没収しました。

 

 

その後も朝倉氏と一向一揆の戦いは、その後も続きました。

九頭竜川での戦いの翌年にも、越前を追われた和田本覚寺、藤島超勝寺を中心とした一揆勢力が再び攻撃を仕掛けています。

 

 

両者が和睦するのは、織田信長という共通の敵相対する戦国末期地なります。

 

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『今川仮名目録』の今川氏親が台頭

名門家だった今川氏

今川氏は清和源氏の流れをくみ、南北朝の争乱で手柄を立て、駿河二か国の守護となった。

 

 

応仁の乱の頃、当主・義忠(駿河今川家第8代、織田信長に討たれた義元の祖父、北条早雲の妹と結婚)が死去すると、義忠の嫡子・竜王丸の一派と義忠の従兄弟・小鹿範満の一派が家督を巡って対立、叔父に当たる北条早雲=伊勢宗瑞が仲裁に入るなるどして尽力した結果、竜王丸改め今川氏親が駿河守守護なった。

 

 

金山開発でも手腕発揮

早雲=伊勢宗瑞の多大な影響を受けた氏親は、土地と農民を直接支配する検地を行った他、54ヶ条からなる分国法『今川仮名目録』を制定するなど、為政者としても非凡な面をみせます。

 

 

また、氏親は産業振興面でも手腕を発揮。

特に金山開発では、坑道を掘り進んで金山鉱石を採取するを推し進め、金産出量を飛躍的に増やし進めます。

 

 

こうした坑道を掘る技術は非常に優れたもので、永正13年(1516年)に浜松城を攻略した際には、城の下に坑道を掘り、城の井戸を※1らして落城させたというエピソードまで残されています。

※1.涸(から)とは、枯れる、からす、干からびる、つきるという意味。      

 

 

氏親の死後14歳で家督を継いだ嫡男・氏輝でしたが、支配体制を強化しつつも、若くして死去してしまいます。

 

 

その後、氏輝の弟・義元が跡を継ぐ念願の三河を手中に収めることになり。絶頂期を迎える。

 

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武田信虎表舞台に登場

躑躅ヶ崎に拠点移す

清和源氏の流れをくむ甲斐守護である武田氏は、永正4年(1507年)、武田信虎が14歳で家督を継いで以降、猛烈な勢いで拡大させていきました。

 

 

武田氏がそれまでの石和から甲斐に居館(躑躅ヶ崎館:つつじがさきやかた)を移し、守護大名から戦国大名へと脱皮したのも、信虎の頃からです。

 

 

武田家は、長い間一族の内紛が絶えず信虎が家督を相続した直後にも、叔父信恵(のぶよし)が、郡内の小山田氏らと共に反旗を翻したが信虎はこれを打ち破り、その後も、大井、栗原、今井、穴水氏ら武田一族の反抗や、小山田氏の抵抗は続きますが、合戦や和睦を繰り返しながら、権力の地歩を固めていった。

 

 

侵攻を試しみる周囲の今川、北条、上杉、諏訪といった有力大名とも相次いで戦って行くことで、ようやく甲斐の統一を果たした。

 

 

信虎公信濃で生涯を終える

ところが、輝かしい前半生は、意外な相手との対立から破綻して行く、それは嫡子・晴信(信玄)だった。

 

 

信虎は、天文10年(1541年)まだ21歳だった晴信(信玄)と家臣が計画した無血クーデターによって娘婿の駿河の大名・今川義元の元に追放されてしまい、その後、二度と甲斐の地を踏むことはなかった。

 

 

駿河へ追放された信虎は、義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れると京都へ向かい、さらに高野山や諸国を流浪し続けた後、死の直前になって信濃の地まで辿り着き生涯お終えました。

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斎藤道三が念願の美濃統一

下克上大名や梟雄※1として名を知られた男

道三の資料が少ないため謎が多く、特にその前半生についてははっきりしません、

 

 

名前も次々と変えていき、法蓮坊、松波庄五郎、西村勘九郎、長井規秀、斎藤利政などと名乗っていました。

 

 

油商人から一代で美濃国を平定した話は有名ですが、最近の研究では父と共に二代かけて、美濃統一を果たしたという説が有力視されています。

 

 

道三の父は、京都妙覚寺の修行僧だったのですが、還俗して、美濃国守護土岐氏の重臣だった長井氏に任え、土岐氏の三奉行の一人に上りつめた。

 

 

美濃のマムシ面目躍如

道三の代になって、いよいよ下克上の始まりです。

まず、名家永井家を倒し美濃の守護代・斎藤氏を乗っ取って家名を奪い取りました。

 

 

そして、天文21年(1552年)宿敵となった大桑城※2の土岐頼芸(よりなり)を倒し、名実と共に美濃一国の支配を完成させた。

※2.大桑城とは、金華山より北上する事約25分。(現・山県市大桑地区)は、天文4年(1535年)、美濃国守護土岐氏が守護所をそれまでの枝広(現・岐阜市長良)から、この地に移した地です。標高407.5mの頂上に大桑城が築かれた。

 

 

この間、道三は、娘の濃姫を尾張の織田信秀の信長の嫁がせています。尾張の国を視野に入れながら波乱含みの拠点美濃の内政を切り抜けるためにとった策でした。

 

 

道三は美濃平定の後、稲葉山城(現・岐阜城)を大改修して、領国支配の拠点を固めました。こうして「美濃のマムシ」と恐れられろ大名へと成長をち遂げたていった。

 

 

 

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