一般的に武田信玄を武田信玄という呼び名で呼ばれていますが、本来は武田晴信という名で信玄という呼び名は出家した38歳からつけた名前です。
ではいつ出家したかというと、永禄2年(1559年)に出家したときに付けた名前なんです。
出家後は、「徳栄軒信玄」という法号を用いました。
それまでは、武田晴信=(分かりやすいので武田信玄)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名で戦国大名で、甲斐源氏第19代当主で武田氏の第16代当主で、諱は晴信、通称:晴信、通称は太郎と呼ばれていた。正式な姓名は、源晴信と言います。
表記は「源朝臣武田信濃守太郎晴信」。
生誕は、大永元年11月3日(1521年12月1日)、死没は、元亀4年4月12日(1573年5月13日)です。
甲斐の守護を務めた武田氏の第18代当主・武田信虎の嫡男として誕生しました。
先代・武田信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、その後、信玄は体制を継承して隣国・信濃に侵攻していきました。
その過程で、越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野及び遠江・美濃・飛騨などの一部を領していきました。
戦国時代の武田勝頼期にかけて、さらに拡大する基盤を築いたが、信玄は西上作戦の途上に西三河で病を発し53歳で没した。
武田信玄としての新たな決意
弘治3年(1557年)2月15日武田晴信=(信玄)は葛山城を真田幸隆の凋落により、葛山城中腹の静松寺を通じて落合一族の落合遠江守、落合三郎左衛門尉が寝った。
また、水の手などを切られ※※馬場信春らの攻撃で城は落城した。
城将・落合治樹吉(落合備中守)、援軍の将として入城していた小田切駿河守幸長は戦死した。
※※.水の手などを切られとは、攻城戦に置いて水の手を切るという攻撃です。武田信玄などは、金堀衆の穴を掘らせて水の手を切るという事を行った。人は3日ぐらい食料を口にしなくても活動する事はできるが、一日水分を取らなければ命が危ない。そして、外から大量の水を運ぶ事は、兵糧を運びこむより難しい。
武田軍のあげた城兵の首は夥しい数にのぼり、落城する火勢の中で逃げ場を失った女達は峯の上から北側の谷に身を投げ全滅したと伝えられます。
落城が伝えられた長沼城の島津月下斎は北の大倉城に難を避け、戸隠山の人々も武田側と上杉方とに分裂し多くが遠く越後に逃れた。
同年、武田晴信=(信玄)の北信への勢力伸張に反撃すべき長尾景虎=(上杉謙信)は出陣するが、武田晴信=(信玄)は決戦を避け決着はつかなかった第3次川中島の戦い=上野原の戦いともい割れた。
同年、室町幕府の第13代将軍・足利義輝による甲越和睦の案内書がくだされる・
これを受諾した長尾景虎に対し、武田晴信=(信玄)は受託の条件に信濃守護職を要求し、北信守護に補佐されています。
一連の戦闘の結果北進地方の武田氏勢力は拡大して行った。
永禄2年(1559年)3月、長尾景虎の有力な盟友であった高梨氏は本拠地の高階氏館(中野城、現:長野県中野市)を落とされ、飯山城(現・長野県飯山市)に後退した。
長尾景虎は残る長尾方の北信国衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになった。
同年、永禄の飢餓が発生、甲斐国が大規模な水害に襲われる。
同年、2月、第3次川中島の戦いの後に出家した、『甲斐国志』に拠れば、武田晴信は長禅寺住職の岐秀元伯を導師に出家し、「徳栄軒信玄」と号したという。文書上では翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願い文「信玄」の初見史料となっている。
出家の背景には信濃をほぼ平定した時期であることや、信濃守護に補任されたことが契機であると考えられている。
ほか、永禄2年(1559年)に相模後北条氏で永禄の大飢饉を背景に当主氏康が家督を嫡男氏政に譲り徳政を行っていることから、同じく飢饉が蔓延していた武田領国でも、代替わりに近い演出を行う手段として、晴信の出家が行われた可能性が考えられている。
「信玄」の号のうち「玄」の字は「晴」と同義であるとする説や、臨済宗妙心寺派の開山である関山慧玄の一字を授かったとする説、唐代の僧臨済義玄から一字を取ったとする説などがある。
甲斐源氏の武田晴信=(武田信玄)
大永元年(1521年)11月3日に、武田氏第15代の武田信虎の嫡男として生まれる幼名は勝千代(太郎)」。
甲斐の守護大名だった父・武田信虎の時代に戦国大名となり隆盛※1する武田氏の基礎が築かれていきました。
※1.隆盛(りゅうせい)とは、栄えて(繁盛して)盛んなこと。
幼名:勝千代(信玄)は、神童と評されるほど、武術にも学問にも優れ、2〜3日で庭訓往来※2という武士の心得を全て覚えてしまった事に教育係の和尚が孫子・三略など、中国の軍略書までを覚えたという逸話話もありほどです。
他にも神童と言われる逸話話がある。
※2.庭訓往来(ていきんおうらい)とは、南北朝時代から室町時代にかけて編纂※3された往来物(寺子屋で使われた教科書)です。
※3.編纂(へんさん)とは、多くの教科書を集め、または、それに手を加えて、書物の内容を纏めること。編集。「辞書のー」。
あまり賢い勝千代=信玄を当主の武田信虎は嫌った、弟・四男の幼名:次郎=武田信繁を寵愛し、嫡男・晴信=信玄を廃し家督を譲ろうとしていたことを察知した晴信=信玄は無血で解決することを画策する。
父・武田信虎を追い出す部下との連携と家臣団の強化
天文10年(1541年)晴信=(信玄)21歳になった時、重臣たちを味方につけ、父・武田信虎を娘婿の駿河国の今川義元の元へ、弟・武田信繁と力を合わせ追放した。
ただし、甲斐国志によれば両者が合意の上で、父・信虎が隠居してといわれる。
これにより晴信=(信玄)の家督相続が決まる。
弟・武田信繁は娘婿の穴山信友と共に御一門衆の中数少ない成人であり、武田晴信=(信玄)の補佐役として信濃経路に従事してます。
武田晴信=(信玄)が父を追放した理由は他にもいくつか説がありますが、度重なる戦で家臣らが疲弊していたことや、政策や政治面に難があった事などが挙げられます。
父・武田信虎が武田家を統率していく事に限界が来ていた。
武田晴信=(信玄)は、父・弟も殺さず無血で家督相続を行い、父には毎年生活費を送金し、弟・信繁は最強の武田軍団の副将として兄・武田晴信=(信玄)を補佐して仲がよかったと言われています。
父・信虎を追い出した武田家を継いだ晴信=(信玄)が、まず侵攻先としたのが信濃でした。
諏訪には武田晴信=(信玄)の父・武田信虎が同盟関係結んでいた諏訪家、その諏訪家に妹を嫁に出した。
父とこだわる外交方針をとっており諏訪家が邪魔な存在だったので、武田晴信=(信玄)とは敵対していたので信濃へ侵攻するためには諏訪家が留守の間に甲斐へ侵攻さ来たら困るから一気に攻め込ん滅ぼしてしまった。
天文11年(1542年)に兵を挙げた武田軍は、諏訪を治める諏訪氏の居城・上原城(落城後に桑原城)を包囲して、和睦と見せかけて当主・諏訪頼重をお引き出し自害に追い込んでしまいました。
その後、後継者に諏訪頼重の子・虎王をたて諏訪を平定、以後、諏訪は信濃の伊那、佐久の侵攻の拠点となっていったが、しかし、信濃侵攻は武田晴信=(武田信玄)の思うようには進まなかった。
何故かというと、天文14年(1545年)に晴信=武田信玄は高遠頼継・藤沢頼親の討伐を行うため伊那郡へ出兵し、高遠城を陥落さらに小笠原長時の娘婿でもある福与城の藤沢頼親を攻めると、小笠原長時は北方の龍ヶ崎城で戦うも敗退する。
決着がつかず、そこで「戦わずして勝つ」を実現するため心理戦を実行する。
城攻めでは敵の城では、外に敵の将兵の首を並べ士気を削ぐ戦法を採ったり、敵の女性や子供を下男や下女に落としたりなど、武田晴信=(信玄)は凄惨※4な事をやって退けました。
※4.凄惨(せいさん)とは、目をそむけたいよな、酷たらしい様子。「ーな光景」を言います。
これは、できるだけ自軍の戦力を削ぐ事を避けるため、周囲の有力者に恐怖感を抱かせ戦わず勝つための布石だった。
しかし、この修羅のような戦略が裏目に、北信濃を中心に勢力を拡大していた村上義清が出る杭は打たねばと奮い立たせてしまった。
天文17年(1548年)、上田原の戦いで村上軍と衝突した武田軍は多くの優れた武将を失い負けてしまいます、その後も村上氏との衝突は続き、ようやく決着ついたのは、天文22年(1553年)、武田晴信=(信玄軍)は、村上氏の居城葛尾城(現・長野県埴科郡)まで迫り、戦意喪失した村上氏は戦わずして越後に亡命した。
三国同盟で力を増す武田信玄
武田晴信=(信玄)は、攻める事は相手からも攻められるということ、信濃侵略で2回も村上氏に敗北し実戦の難しさが身に染みついた。
そんな中、天文23年(1554年)、同盟の今川氏が三河に侵攻中に相模(現・神奈川県)の北条氏が今川領に侵攻してきた、これを受け、武田晴信=(信玄)はすぐ今川氏の援護して北条氏を撃退します。
駿河の今川氏は西側、相模の北条氏は東側、武田氏北側に位置し被らないため三国で協力して方がいいと決まって、今川氏真の元には北条氏康の娘、北条氏康の息子に武田晴信=信玄の娘ということで甲相駿三国同盟が成立した。
2国の大名の後盾を得た晴信=(信玄)は勢いを増していった。