こんにちは管理人の隆太郎です。
上杉謙信の跡目を継いだのは初代・上杉景勝・2代目が上杉定勝・3代目が上杉綱勝の順に家督を継いできた。
ところが3代目・綱勝の急死。
嗣子が決まっていないから大慌てして、吉良上野介の嫡男を養子にした。
どうして養子にしたかというと上野介の妻が亡くなった綱勝の姉・三姫だったからその長男を養子にした。
普通ならお家断絶ですが助け舟が入り辛うじて取り潰しは免れた。>
そして、吉良上野介の子が4代上杉綱憲・その子が5代が上杉吉憲、またその子が6代・上杉宗憲、7・8代は兄弟が継いで放漫経営だったため借財が膨れた。
8代・重定の養子になっていた鷹山が、17歳で家督を相続、相続をした時莫大な借財を抱えて身動きが取れない状態でした。
鷹山の実家は、米沢新田藩の春姫が嫁いだ先が、主君:徳川吉宗、徳川家重、徳川家治の主をもつ家臣の日向国高鍋藩主・秋月種美の間に次男として生まれ、宝暦10年(1760年)10歳の時、米沢藩8代・上杉重定の娘・幸姫の婿養子となり、14歳の頃から細井洲に師事し、君主としての知識を磨きました。
藩主になった、上杉鷹山の諱※1は初めの名は上杉勝興だったが、上杉治憲に改名(一般的に知られている上杉鷹山は藩主隠居後の号)であった。
※1.諱(いみな)とは、人の死後尊敬しておくる称号。死んだ人の生前の名前。
「ウコギの生垣」など直江兼続※2の施策を手本とし、米沢藩政改革を行ったとされた。
※2.直江兼続(なおえかねつぐ)とは、米沢藩(主君は上杉景勝)の時代の家老。
この困窮をした藩を立て直すには相当な決意をして、誓詞を春日神社、白子神社に奉納しています。
江戸時代前半の急速な商工業経済の伸張によって幕府や全国諸藩に共通した問題でしたから、単に「財政再建」というのであれば、全国に他例は沢山ありました。
なぜ上杉鷹山が、藩政改革で今なお高い評価を受けるのか?
にもかかわらず、上杉鷹山の財政再建や藩政改革が有名なのには、それだけの理由があります。
そのうち、主要なものを3つ挙げてみよう。江戸時代の名君として知られる。
綱憲・宗憲・宗房・重定の藩主の放漫財政
上記の藩主は、あの赤穂浪士で有名な吉良上野介の子・孫・曾孫の放漫経営です。
しかし諸藩は全国的な財政難でしたが、特に米沢藩が最も酷い状態だったからです。
それには、上杉家ならではの歴史的背景がありました。
何かというと、上杉家は、そもそも豊臣秀吉の時代に会津120万石と佐渡金山を与えられていました。
何故かというと、それは、関東に配した徳川家康の背後を押さえ、岩出山に移した伊達政宗を封じるために秀吉が必要と判断した財力でした。
そして秀吉の死後、上杉家は石田三成と連携して徳川家康と正面から対立します。
結果、関ヶ原の戦いは家康が勝利。
家康は上杉家を潰すことなく120万石が30万石に減封されました。
にもかかわらず、徳川家と続く対立構造の中で軍事力を維持しなければならない上杉家は、120万石だった家臣団をそのまま雇い続け、財務担当の直江兼続は徹底した支出削減によって上杉家を50万石の見通しを立て、積極的に新田開発や青芋(高級麻織物の原料)販売などによって52万石の実収入を実現させた。
ところが、
第3代藩主・上杉綱勝には嗣子※3なく25歳の若死にしてしまう。
※3.嗣子(しし)とは、親の跡を継ぐ子。跡取り。
すると跡継ぎを巡る混乱、普通ならお家断絶のところ、米沢藩を救ったのは保科正之の奔走で取りつぶしは避けられたものの30万石から15万石となりました。
※4.保科正之とは、父に徳川秀忠、母にお静(志津)(浄光院)の間に生まれた。会津松平家の祖。信濃国高遠藩藩主、出羽国山形藩藩主を経て、陸奥国会津藩初代藩主となった。
上杉綱勝の死後養子として迎えたのが上杉綱憲で(吉良上野介の子)です。
ご存じのとおり,吉良上野介は忠臣蔵の悪役として世間に知られています。
なお、吉良上野介の妻の三姫(富子)は、亡くなった第3代藩主・上杉綱勝の姉です。
綱勝の急死で養子に入った吉良上野介義央の子,第4代藩主・綱憲の子が第5代藩主・上杉吉憲(上野介の孫)の子が第6代藩主・上杉宗憲(上野介の曾孫)第7代藩主・上杉宗房(上野介の曾孫で宗憲の兄弟)第8代藩主・上杉重定(上野介の曾孫で宗憲の兄弟)が放漫な経営を行い,さらには吉良家の財政負担の多くを肩代わりしたために,米沢藩の財政は急激に悪化しました。
全国的に見て,これだけの悪条件が重なった藩は他例がありません。
危機感を抱いた一部の藩士たちは,養子に迎えられ元服したばかり(数え年15歳)の上杉鷹山に,藩再建のすべてを託したのです。
鷹山は最悪な状態からのスタート、No1
一つ目は,全国的な財政難の中でも,米沢藩が最もひどい状態だったからです。
それには,上杉家ならではの歴史的背景がありました。
そもそも上杉家は,豊臣秀吉によって会津120万石と佐渡金山を与えられていました。
それは,関東に配した徳川家康の背後を押さえ,岩出山に移した伊達政宗(のち仙台に移る)を封じるために秀吉が必要と判断した財力でした。
そして秀吉の没後,上杉家は石田三成と連携して,徳川家康と正面から対立します。
しかし関が原の戦は家康が勝利。
家康は上杉家を潰すことなく米沢30万石に減封します。
なおも続く対立構造の中で軍事力を維持しなければならない上杉家は,120万石規模の家臣団をそのまま抱え続けました。
財政担当の直江兼続は,徹底した支出削減によって上杉家を50万石で経営する見通しを立て,積極的な新田開発や青苧(高級麻織物の原料)販売などによって52万石の実収入を実現させたのです。
ところが,第3代藩主上杉綱勝が急死すると,跡継ぎをめぐる混乱から米沢藩は15万石に減封されてしまいます。
加えて,養子に入った吉良上野介義央の子の第4代藩主・綱憲の子が第5代藩主・上杉吉憲(上野介の孫)の子が第6代藩主・上杉宗憲(上野介の曾孫)第7代藩主・上杉宗房(上野介の曾孫で宗憲の兄弟)第8代藩主・上杉重定(上野介の曾孫で宗憲の兄弟)が放漫な経営を行い,さらには吉良家の財政負担の多くを肩代わりしたために,米沢藩の財政は急激に悪化しました。
全国的に見て,これだけの悪条件が重なった藩は他例がありません。
危機感を抱いた一部の藩士たちは,養子に迎えられ元服したばかり(数え年15歳)の鷹山に,藩再建のすべてを託したのです。
鷹山の誠実さ、堅実、No2
二つ目に藩主になった上杉鷹山のやり方が非常に誠実かつ堅実だったからです。
他藩の中には,武士の権力を用いた強引さや傲慢さが目につく債務処理や改革もありましたが,鷹山は自ら田に入り,山に登って雨請いをし,商人に学び,借金の返済を続け,地道な工夫や改革を積み重ねていきました。
もちろん,鷹山の成功の背景には,彼を支える沢山の人々がいました。
鷹山や藩士たちを導いた,細井平洲をはじめとする学者たち,藩再建に知恵を絞った幹部たち,同じ目的に向かって自分の持ち場で尽力した中級家臣たち,半士半農の生活を誇りに感じ藩政・藩社会の土台を守った下級藩士たち,米沢藩を見捨てず指導し続けた商人たち…。
それでも,彼らの力が引き出され,一つ方向に束ねられ生かされていくためには,やはり優れたリーダーが必要でした。
上杉鷹山の人柄,あらゆる人や物事に対する姿勢,学問に励む姿…に導かれてこそ,改革は実を結んだと言えるでしょう。
良質な社会の実現、No3
上杉鷹山によって改革が進められて以降,米沢藩の地域社会が他の見本とされるほどに良質になったからです。
良質な社会の実現にとって必要なのは,経済(産業・財政など)と倫理(学問・教育・文化など)のバランスです。
かつては上杉謙信や直江兼続が体現し,その後の幕府政治の不安定さが証明してきたバランスの大切さに,鷹山は当初から気づいていました。
そこで鷹山は,米沢藩の再建を,大倹令(財政策)と藩校設立(学問教育)に同時に取り組むところからスタートさせたのです。
そして鷹山自身,生涯を通じて倹約と学問に励みました。
鷹山の確固たる政治思想・社会思想は学問に導かれたものです。
鷹山を導いた学者は何人かいますが,とくに大きな影響を与えた細井平洲の学問は,日々の現実を重視したものでした。
そのため鷹山は,理論理屈に従うだけでなく現実から学ぶ姿勢を持ち,自ら判断し行動する力に長けていたのです。
経済(現実)と倫理(学問)のバランス感覚に優れた鷹山は,新規と伝統,権力と人情,組織と個人,対外と内政などのバランスを保つ力がありました。
臨機な選択,優先順位の判断,偏りのない手配などなど,単純な正義や常識では説明できない鷹山の優れた行動には,現実主義の学問に基づく確かな裏づけがあったのです。
学問の大切さをよく知る鷹山は,身内や藩士,そして領民に対してとても教育熱心でした。
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」という言葉は,通常の政務についてではなく,教育についての指示に添えられた言葉です。
鷹山の改革は,存命中より儒学者たちによって高く評価され,全国に紹介されています。
そして,鷹山自身が老中・松平定信より,第11代藩主上杉斉定(なりさだ)が第11代将軍徳川家斉によって鷹山以来の善政を表彰されています。
「鷹山」の雅号
上杉鷹山は,10歳(数え年)で上杉家の養子となる以前,兄(鷹山の生家である高鍋藩秋月家を継ぐ)が自分の雅号(文書家・学者・書家などが本名以外につける別名)を「鶴山」としたのを真似て,「鷹山」の雅号を考案しました。
まだ詩歌が何たるかもわからない年齢です。
ただ大好きなお兄ちゃんのあとを追いかける,素直で無邪気な少年鷹山の姿がそこにあります。
家族や家臣たちに大事に育てられて形成されたまっすぐな人格は,鷹山の生涯を通じて変わることはありませんでした。