皆さん、こんにちは隆太郎です。
豊臣 秀長 または羽柴 秀長は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
豊臣秀吉の弟で豊臣政権において内外の政務および軍事面で活躍を見せ、天下統一に貢献した。
最終的には大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大名となる。
▲豊臣秀長
羽柴秀長(小一郎)は、律儀・真面目・温厚、後年天下人になる兄・藤吉郎に意見が言える人物と言われています。
小一郎と藤吉郎は異父兄弟だという人もいますが、隆太郎は藤吉郎と小一郎は同父の兄弟だと思います。
3歳違いの兄・日吉丸が家を出て行って、死んでいるのか 生きているか分からないまゝ尾張中村の貧しい農家で田畑を耕し土と共に生きる暮らをしながら、平穏な日々を過ごしていました。
突然ある日、音信不通の兄が意気揚々と姿をみせたから、家族皆がビックリ、その上、若き武将・織田信長様に仕官して大出世を目指していてる旨の話、またまたビックリ仰天した。
その上、弟・小一郎に儂の家来にならないか?なって欲しいといって、強引に兄の誘いに巻き込まれる形で武士への転身を余儀なくされた小一郎は、母・仲、や姉妹を残し生まれ故郷の中村を後にした。
そして、城下町の清洲にでてきた小一郎は主君・信長様と運命的な出会いを果たします。
その他、信長のもとで野心を燃やす若き家来たちなど、木下兄弟の運命を左右する人物との刺激的の出会いの数々‥‥
ついに「桶狭間の戦い」に突入する。
補佐役・豊臣秀長
秀吉は、飛ぶ鳥を落とす勢いがあり、弟・秀長を自身の隣に配して重用し豊臣政権の中核を担わしていた。
その一方で小一郎(秀長)は秀吉の家臣でありながら、信頼のおける弟ということで、秀吉に異を唱え、その暴走を制御できる人物でもありました。
徳川家康や伊達政宗など外様大名を抱える豊臣政権において秀吉は天下取りで忙しい秀吉に代わって調整役として活躍し、政権の安定に欠かせない人物だったのです。
実際に秀長は九州の大名・大友宗麟をもてなした際に、次のようなことをいってます。
内緒話は千利休に、公の政治についての話は、この儂に相談して欲しいと‥‥。
そのような事を自分で言えるほど、秀長は豊臣政権の維持に必要不可欠な人物だったといえます。
実際、秀長の死後、豊臣政権はその存在の大きさを嫌というほど思いしることになります。
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秀吉の家来、弟・小一郎の活躍
小一郎は戦場に着いて無我夢中で戦い。
小一郎は、読み書きや兵法なども侍になってから学び、かなり努力したと思います。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦い後、永禄9年(1566年)、美濃侵攻にあたって長良川西岸に、美濃の斎藤龍興を攻略するため、重臣らに交通の要衛である墨俣に出城を築くよう命じた。
まだ新参者の木下藤吉郎が名乗りを上げると、美濃の勢力を翻弄しながら約束通りわずか一夜で城を築いたという。
藤吉郎は、この功によって信長から金・銀などの褒美を授けられた。
※この話。墨俣城は一夜には出来ないが、記載ものがなくわかりませんが、弟・木下小一郎・蜂須賀正勝・前野長康らといった武将の協力で作り上げた。その時、小一郎は各武将に対し「私たち兄弟が手柄を挙げられたのは、全てあなた方が居てくれたから築城出来ました。」と低姿勢で接して協力のお礼をいいました。
その時に小一郎の名前は、信長様から一字頂いて「長」兄の秀吉の「秀」から長秀と名乗っていましたが、本能寺の変後に秀長に改名しました。
天下一の補佐役・豊臣秀長がいたから豊臣秀吉は天下人になれたといっても過言ではないと思っています。
秀長の死去以後の秀吉の暴走ぶりをみていただければ分かると思います。
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木下小一郎
秀吉の弟・小一郎は天文9年に誕生(1540年4月8日〜1591年2月15日)、網突進の秀吉の行動を止めることができる存在でしたが、悲しいかな51歳の若さで天正19年に病により死去したため『豊臣家の天下安泰』はできなかった』。
兄・秀吉とは3歳の差、秀吉は天文6年(1537年3月17日)に愛知県愛知郡中村で生まれ、慶長3年(1598年9月18日)京都の伏見城で亡くなっています。
豊臣一家は、秀吉の妻「ねね」とは、永禄4年(1561年)8月浅野長勝の養女で杉原定利の娘、実母・朝日は結婚に反対でしたが、ねねは反対を押し切って嫁いだ。
浅野長勝は、織田信秀・信長に仕えていた、弓衆となり300石扶持の侍で、木下藤吉郎の与力であったため、浅野家の入り婿の形でねねと婚姻したのではないかとされている。
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秀吉が心許した二人
秀吉が心許した家臣は、「参謀」の黒田季髙(またの名を、官兵衛・剃髪して如水)と弟・秀長の「補佐役」の2人と言われています。
秀吉が記している手紙に黒田官兵衛に宛てたものに「おまえは、弟の小一郎と同じように心許せる存在だ。」と記しています。
これは臣下をくすぐる「お世辞」だとしても、小一郎のように心許せるという表現は裏を返せば、小一郎は秀吉にとって「こころ許せる存在」であった証でもあったわけです。
だから小一郎(秀長)が秀吉の暴走を食い止めていた。