美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

田沼意知

蔦重の浮世絵が花開いた“自由の時代”田沼時代ー反田沼勢力の意知暗殺に走る

投稿日:

戸の華やかな浮世絵文化

その陰には、時代の空気を読み取り吉原を舞台に才能を開花させた出版人・蔦屋重三郎、彼の活躍を支えたのが、時の老中・田沼意次・息子・意知の時代です。

 

 

蔦屋重三郎の出版活動が活発になるのは田沼政権下の明和4年〜天明6年(1767年〜1786年)「田沼時代」、田沼父子が幕政の実権を握っていた。

 

 

この時期は比較的出版や文化活動に対して緩やかな時代でした。

蔦屋重三郎と田沼意次との直接的な繋がりは史料上あるわけありませんが、同時代に生きた意次の後押しがあり、間接的に関係し得る背景があったと思います。

 

 

田沼意次の時代町人文化が栄えた時代、そんな時代に浮世絵・洒落本などを出版出来る背景に、蔦屋重三郎が育てた喜多川歌麿や山東京伝や葛飾北斎他といった才能は、田沼政権下の寛容な政策がなければ世に出なかったかもしれません。

        ▲イメージ

だが意外な反田沼が嫡男・意知暗殺で幕引き計る?。

 

 

 

田沼時代を築く

「田沼時代」とは、田沼父子が幕政の実権を握っていた明和4年〜天明6年(1767年〜1786年)の頃を指します。

 

 

田沼家は名家ではなく、祖父紀州藩の足軽の家の出身だったが、徳川吉宗八代将軍となった時、付き従って江戸へきた。

        ▲イメージ

 

寛延2年(1749年)小姓組※1番頭で奥勤兼務のときに、継室・黒沢定紀の娘との間に嫡男・意知が誕生

※1.小姓組の仕事とは、将軍の身辺警護です。

 

 

享保19年(1734年)に、後の九代将軍・徳川家重の小姓となり、元文2年(1737年)に従五位下・主殿頭※2を叙任した。

※2.主殿頭(とのものまみ)を叙任するとは、江戸時代において、将軍や大名などの家臣に与えられた役職の一つ。主殿頭に任命されたことを意味します。

これは主に、将軍や大名の側近として、主に御殿の管理や儀式などを担当する役職でした。

主殿頭の役割とは、将軍や大名の身辺な側近:将軍や大名の日常的な生活や行動を支える役割を担いました。

 


宝暦元年(1751年)に家重が将軍に就任すると、意次御側御用取次へと昇進し中でも意次は第九代将軍・徳川家重から信頼された出世頭でした。

 

 

父・田沼意次に転機が訪れたのは、郡上一揆石徹白騒動※3は、共に目安箱に投函された事により発覚、ときの将軍・徳川家重が幕府中枢の関与の疑いを抱いた事により、老中の指摘の下、寺社奉行を筆頭としる5名の幕府評定所で裁判が行わられ黒となった。

※3.石徹白騒動とは、江戸時代中期の宝暦m年間に美濃郡上藩(現・郡上市)が管轄していた越前国大野郡石徹白村で発生した騒動です。

※この目安箱は恵那市岩村町資料館においてあります。

 

 

農民の一揆の首謀者には厳罰が下され、領主・金森頼錦は改易、幕府の高官の老中・若年寄・大目付・勘定奉行らが免職となった。

意次は、将軍・家重の意を受けて郡上宝暦騒動の解決に活躍した。

※.上記の郡上一揆をクリックして頂くと詳しい文章があります。興味ある方は読んでください。

 

 

父・田沼意次は、宝暦8年(1758年)に評定所に出座して10,000石の大名となり、第十代将軍・徳川家治の信任も得て、明和4年(1767年)に御用人に出世し、相良城(現・静岡県牧之原市)の城主となった。

この時、意知は、18歳で、従五位下・大和守を叙任。

 

 

安永元年(1772年)に、父・田沼意次が老中に就任して57,000石を賜ると、息子・田沼意知も天明元年(1781年)には奏者番※4、天明2年(1782年)には山城守となり、天明3年(1783年)に若年寄※5に昇進しました。

※4.奏者番とは、将軍からの下賜品の伝達を司る職務です。

※5.若年寄とは、老中の次位。

これで、父子共に権勢をふるい田沼時代を築きあげました。

 

 

 

反田沼勢力に田沼意知暗殺される

田沼時代があれば嫌う勢力も出てくる、いわゆる反田沼勢力の譜代門閥層の声が高くなり、田沼意次の権勢が衰え、のちに失脚するきっかけとなった嫡男・田沼意知殺害事件です。

 

 

この暗殺は殿中で刃傷事件、犯人は新番士の佐野善左衛門でした。

事件は、天明4年(1784年)3月24日の夕刻に起きました。

 

 

執務時間が終わり、執務を行って御用部屋から下城しようと城内の廊下を歩いていた若年寄・田沼意知は中ノ間から桔梗の間へ向かう廊下で突如斬りつけられた。

 

 

意知は脇差を抜き防ごうとするが防ぎきれず、肩など斬られ近くの桔梗の間に逃げ込んだ、後で、この事件で処罰された者が21名であるため、多くの人数がこの事件現場周辺にいたと考えらます。

なぜ、暗殺か?

 

 

最初に意知が刺された時点で周りの者が佐野を取り押さえ、医師に診せて適切な治療を受けていれば亡くなる事はなかったのに、しかし、桔梗の間で意知は倒れてしまい股を刺された。

 

 

刺し傷は三寸五分から六分で骨に達し、この傷による出血多量が死因に、大目付の松平対馬守忠郷が佐野を取り押さえ、目付の柳生主繕正が佐野の手から脇差をとりあげた。

 

 

天明4年(1784年)4月2日に田沼意知が享年36歳で亡くなり、翌日の4月3日に佐野が切腹させられ幕引き、民衆は意知の葬列には石が投げ罵声を浴びせた、一方、佐野が切腹後に高騰していた米価が偶然下がり民衆は佐野善左衛門「世直し大明神」と叫んだ。

今の時代と同じ米価が値上がってる。

 

 

佐野は「時の人」となり、佐野が葬られた徳本寺には参拝者が押しかけ、幕府が門を閉じ参拝をやめさせようとしたが夜中に参拝する者がいたほどであった。

そんなうまい具合に米価が下がる事事態おかしい。何か仕掛けがあったのかもしれない。

 

 

なお、幕府の公式記録『徳川実記』では「意知が脇差で防いだ」と記載されています。

 

 

意知が逃げ回る一方的に刺され殺されたのでは「武士としてあるまじき行為=不覚をとる」ことであるので防いだとしたのでしょうか?。

 

 

意知は事件の被害者であって相手から逃亡し、背後から斬られることは「不覚」であり、事件被害者であっても御家断絶か御役御免など厳しい処分が下されることもある。

 

 

幕府は田沼意知殺害事件を「犯人である新番士の佐野善左衛門政言の狂信による行為」として処理をして幕引きしたが、事件直後に佐野が誰かの命を受けて行ったと考える落首※6が詠まれたように政治テロの可能性が濃厚である。

▲※6.落首(らくしゅ)とは、落書きを詩歌の形式で書いたもの、または風刺や批判を込めた匿名の戯れ歌を指します。

 

 

大目付目付「佐野が狂信して犯行に及んだ」とし「同僚におかしな様子なら注意して観察し場合により自宅で治療させるよう」にという趣旨の触れを関係各所に出し「佐野の狂信」とし巷で流れる政治テロ説を改めて否定した。

 

 

もっとも、佐野善左衛門が「ある幕府高官もしくは大名の指図で実行した」と自白したとしても、公にすれば黒幕である人物を処罰する必要が生じてくる。

 

 

これだけの事件なら黒幕は切腹、黒幕が武家の当主であるなら、その武家は改易という厳しい処分を下すことになり、改易になった武家に仕える者は浪人になり、黒幕の武家の親戚も連座という形で何らかの処分を下すことになってしまう。

 

 

公にすれば影響を受ける人物の数が多く、事件の影響を最小限に留めるため公にせずに「佐野の発狂」という個人の犯行して幕引きを図った可能性もあります。

 

 

そのため、早急に切腹を命じ、意外にも佐野が切腹したのは意知が亡くなった翌日の4月3日である。

意知が亡くならなければ佐野は切腹ではなく改易だけで済んだのかもしれない。

 

 

切腹は厳密には死刑ではなく「自分の罪を自分で裁く」という自裁で、武士としての面目を保った形での処分である。

 

 

『徳川実記』によると4月7日に15名の人物が処罰を下され、事件当日に佐野と共に勤務中だった同僚の新番士4名は佐野が白刃を持って部屋から出たのを引き止めなかったことを理由に解任され小普請に入れられ、「出仕とどめらる」とある。

 

 

「出仕とどめらる」の意味は正確にはわからないが役職を解任された上に出勤停止というのは文脈としておかしく、一ヶ月後に許されているとあるから登城禁止だろうと思います。

 

 

目付2名は事件現場にいながら佐野を押しとめようとしなかったことが咎められ解任される。

 

 

他の目付2名には1ヶ月間、大目付2名には十日間の差控の処分が下され、中ノ間にいた町奉行と勘定奉行らには注意が与えられ、この件で唯一褒美が与えられたのは最初に佐野を取り押さえた松平対馬守で200石加増され、取り押さえに協力した目付の柳生主繕正は御咎めなしである。

 

 

しかし、「意知を見殺しにした」形になった若年寄3名については何も記述がないことから特に処分がなかったようだ。

 

我が子嫡男・意知を殺された、田沼意次は我が子が被害者とはいえ私情に流されず、「改易絶家による大量の浪人を発生させることは治安悪化を招き幕政にとって好ましくない」という老中としての立場を優先したのだろう。

若年寄が殺害された事件の割には意外なほど処分が軽い。

 

スポンサーリンク

 

 

田沼意知は

田沼意知は天明元年(1781年)に大名の嫡子でありながら、通常は大名の当主しか就任できない奏者番に就任し、天明3年(1783年)には若年寄に就任するなど異例の出世を果たした。

 

 

翌年の天明4年(1784年)に城内で新番士佐野善左衛門政言に刺され、約一週間後に亡くなる。

 

 

政策としてはわかるものは明和5年(1769年)に亡くなった若年寄の松平忠恒が抱いていた貿易船の建造と外国人誘致構想を引継ぎ、長崎奉行を通じて和蘭商館長チチングにバタビヤの船大工を招きたいと申し入れていたが、意知が亡くなったことで計画は白紙になってしまった。

 

 

 

犯行説の疑問

犯人の佐野の口上書では私憤が原因となっている。

田沼家が佐野家から借りた家系図を帰さなかったこと、田沼家は佐野家の家来筋にあたり同じ祖先を持つよしみで出世を目論んで総額620両相当の金品を贈ったが出世は適わず何度も来る佐野を煙たがったことに怒ったという説と佐野の領地にある「佐野大明神」が田沼家の家臣により「田沼大明神」に名称が変更され横領された説があり、また、佐野家の旗が田沼家の定紋である七曜紋のため取り上げられたなどがあるなど。

 

 

ただ、佐野の先祖は田原(俵)藤太秀郷の流れを汲む名家の佐野家で、先祖にゆかりのある下野国都賀郡(つがごおり)は田沼家の先祖である下野国安蘇郡田沼村に近く、田沼家は名家の佐野の流れを汲むと自称してたが、佐野家は支流の支流の家であり田沼家が政言から家系図を借りなくてもいくらでも家系図を立派なものに書き換える(家系図を書き換えるのはよくある話で徳川宗家も行ったことは知られている)方法があったはずである。

 

 

『剣客商売』15巻二十番斬りでは佐野は田沼意次の政治に不満を持ち意次を批判する内容の「田沼罪状」という斬奸状を所持していたため政治的な理由で犯行に及んだとされる。

 

 

これは佐野が記したのでなく後世の偽造と考えられ、佐野が書いた確証はないと作中でも紹介してある。

 

 

単独犯と仮定してた場合、譜代門閥層がこの事件を政治的に利用するために捏造した可能性も考えられる。

 

 

 発狂している人物が政治テロとして最も効果がある田沼意知を選んで執拗に斬りつけるのは納得できない。本当に発狂しているなら佐野の同僚か事件現場を通る他の人物に斬りかかっているはずである。

 

スポンサーリンク

 

 

真の黒幕は誰?

この事件でもっとも得をしたのが反田沼勢力の譜代門閥層である。

この事件発生当時は田沼政権の最大の後ろ盾である将軍・家治が2年後の天明6年(1786年)に亡くなるとは誰も想像できず、家治の信頼が厚い意次を家治が将軍在任中に解任することは難しい。

 

 

事件後に意次が寿命で亡くなろうと、家治が存命なら政権交代ができるとは限らない。

 

 

ただ、将軍・徳川家治が亡くなると同時に田沼意次を失脚させることに成功したのは、この一件で磐石に見えた田沼政権への不満が一気に沸き起こり、反対勢力を勢いづかせ結束したことがあるだろう。

 

 

後に政権交代を呼んだきっかけになった一件だけに政治テロとしてはこれほど効果的なものはなく、佐野の独断で行ったとは思えない。

 

 

譜代門閥層の彼らから見れば多くの者が出世の機会がない中、浪人の子の田沼意次が老中まで出世し政権を握っているだけでも疎ましいだろう。

 

 

能力主義の田沼政権が続けば「名門」以外の取り得がない者が多い譜代門閥層からの登用や出世の機会は著しく減少する。

 

 

重商主義の田沼の改革は商業が発達した当時の現状に即した政策だが、重農主義を基盤とする伝統的な武士の価値観では全く理解できない政策で「幕府の制度をひっくり返す」ぐらいの悪政で「武士が商人のようなことをしている」とすら感じ批判していた。

彼らの憤りと不安が事件を起こしたと考えられる。

 

 

殿中で直接手を下せば切腹、家は御取潰しになり、家臣は失業し縁戚関係にある家に連座が適用され処罰が下されるなど多大な迷惑をかける。

 

 

佐野に行わせ黒幕である自身について話させなければ我が身には影響はないと考え佐野を使ったとも想像できる。

 

 

真っ先に思いつきそうなのは松平定信で将軍家に養子に行くはずが、田沼意次の謀略で白河松平家に養子に出されたと逆恨みし「殿中で田沼を刺し殺すための短刀を拵えたが大人気ないのでやめた」と告白しているほどである。

他にも田沼意次幕政改革に批判的な大名はいくらでもいただろう。

 

 

 

-田沼意知

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。