日本三大仇討ちはご存じでしょうか?
一つは、鎌倉時代の「曽我兄弟の敵討ち」内容は富士の鷹狩りで工藤祐経討った事件です。
もう一つは、寛永11年(1634年)の「鍵屋の辻の決闘」の渡辺数馬・荒木又右衛門らによる河合又五郎への仇討ち。
もう一つは、ご存じ「赤穂浪士の吉良邸への討ち」入り、元禄15年(1703年)、大石内蔵助ら47士の仇討ちが、日本三大仇討ちとされています。
今回の石井兄弟の仇討ちが三大仇討ちに入らないのはなぜか?
江戸時代、幕府が「公認の仇討ち制度」を定めていて、この仇討ちに、人々の心を強く打った、寛文12年(1672年)に本所で起きた「石井兄弟の仇討ち」です。
父と兄を無惨に殺された幼い兄弟が、成長してからも誓いを忘れず、ついに父の仇・赤堀源五右衛門を討ち果たした事件です。
歌舞伎や浄瑠璃にも数多く描かれ「第二の曽我兄弟」とも称され、江戸庶民の間では「忠孝の鏡」と賞賛された石井兄弟の仇討ちです。
父・宇右衛門殺される
ことの成り行きは、石井源蔵・半蔵の父・石井宇右衛門が殺害された話です。
その石井宇衛門は信濃国小諸城主・青山因幡守宗俊※1の家臣でした。
※1.青山因幡守宗俊とは、徳川家譜代の家臣、元和7年(1621年)、従五位下・因幡守に叙位・任官する(のちに従四位下となる)青山家宗家11代。信濃国小諸藩主。
大阪城代、遠江国浜松藩初代藩主。
石井宇右衛門の主(青山因幡守宗俊)が大坂城代※2となったおり、共に従って大阪へ行ったとき、美濃の大垣以来の友人である赤堀幽閑が訪ねて来て、養子の源五右衛門の将来を頼みましたので、石井宇右衛門は快く引き受けました。
※2.大阪城代とは、江戸幕府の役職の一つ。将軍直属で有力な譜代大名が任じられ、大阪城代である将軍に代わり大阪城を預かる。
しばらくして、源五右衛門が家中の者に槍を教えていると聞き、石井宇右衛門は、ある時、武術に対する考え方を説くと、源五右衛門は立腹し宇右衛門に勝負をしたいというので、仕方なく応じ源五右衛門を負かしてしまった。
このことを恨みに思った源五右衛門は、延宝元年(1673年)11月18日に外出中の石井宅に入り込み待ち伏せをし、帰宅した宇右衛門を槍で殺してして逃げてしまった。
長男・三之丞と次男・彦七仇討ちに出る
石井宇右衛門には、小諸藩の近習役の長男・三之丞(18歳)と次男・彦七(16歳)、残るは三男・源蔵(5歳)と四男・半蔵(2歳)の息子がいた。
長男の三之丞は父の仇討ちを決意し、同年のうちに次男・彦七と共に源五右衛門を追う旅に出る。
逃走した源五右衛門の足取り追う過程で同年12月8日の夜に養父・赤堀幽閑の所在を知った兄弟(三之丞・彦七)は、大津で養父・幽閑を討ち取ることに成功したが、肝心の源五右衛門の所在を掴むことは叶わなかった。
8年後の天和元年(1681年)正月、美濃で三之丞は源五右衛門の返り討ちに遭い、さらに次男・彦七は、伊予へ渡るとき嵐のため溺死してしまいます。
三男・源蔵、四男・半蔵
父が殺された時、源蔵は5歳、弟・半蔵は2歳で、縁者の安芸国浅野藩士に預けられていましたが、二人の兄が死んだので源蔵が14歳になった年に仇討ちに旅にでます。
その頃、赤堀源五右衛門は名を赤堀水之助と改めていて、亀山藩に仕えていましたが、亀山藩は源五右衛門をかくまい、他国者には、一夜の宿も禁止し見知らぬ者は一切場内に入らせないという厳重さで、容易に近づごとができませんでした。
そこで源蔵・半蔵兄弟は行商人になったり、近江のお茶売りとなったりして、仇の赤堀源五右衛門(水之助)の身辺を探りましたが、機会を得ることできなく、虚しく歳月が流れます。
が
ようやくにして、兄弟は亀山藩士の家に奉公することができ、ついに、その機会が訪れ、元禄14年(1701年)5月9日の朝、宿直であった赤堀源五右衛門が出てくるのを亀山城内で待ち受け仇討ちができた。
父の死から29年目、兄達の死から20年目に赤堀源五右衛門を討ち取り亡き父・兄に報告しました。
▲兄・源蔵
▲弟・半蔵 ※上記の浮世絵希望の方は連絡ください
また、この仇討は、赤穂浪士の討ち入りにも影響を与えたと言われています。浅野内匠頭長矩の切腹がこの3月、討ち入りは翌年12月でした。