茶々(淀殿)は豊臣秀吉の側室となって、秀吉亡き後出家せずに豊臣家の母となって徳川家康と戦い豊臣家を潰した女性です。
そこには茶々の深い想いがあったかもしれません。
義父・柴田勝家と母・お市が「賤ヶ岳の戦い」で秀吉に敗れ、残った3姉妹を引き取り面倒をみたのが始まりとなった。
茶々が側室になったのは、計算ずくではなかったかと思います?
というのは、義父・柴田勝家が秀吉に追い詰められて越前北ノ庄で親しき者を集めで最後の晩餐を催した際に、母・お市から茶々に何かしら言い含められていたんじゃあないかと考えます。
秀吉は、母・お市の方を救って側室にしたいと望んでいたが、勝家と共々自害したので思い遂げられず茶々に求めた?。
茶々にとっては、実父・浅井長政家の滅亡、義父・柴田勝家、母・お市の死、憎んでも憎みきれない男のはず、憎くないはずがないと思います。
また、織田家の血筋を求めた政治的思惑があったのか?
スポンサーリンク
何故、茶々だけに2人の子が授かったのか?
まず疑問が、茶々と秀吉の関係はうまく良好だったか?
いままで、正室と側室を数十名程作って子作りに挑戦したのに出来なかった。
ではなぜ茶々だけが2人の懐妊したのか?
調べて行くと秀吉は胤なしではなく、無類の女好きで放出しすぎではなかったのか?
秀吉が、初めて自分の城を持った長浜城で側室らしい者を持ったという史料があります。
その時、妻の寧々がやきもちを焼いて信長に不貞を訴えている。
男児と女児の2人であったが若くして亡くなってしまう。
これが本当の話なら胤なしではない、養子ということもありうる。
弟の秀長しかり甥の秀次しかり子供が沢山の家系です。
じゃあ何故秀吉には、子供が授かり難かったか?
●秀吉が若い頃に病気で出来にくくなったのか?
●秀吉が戦場で何らなの怪我をしていたのか?
●秀吉の精子の量が少なかったのか?
が挙げられます。
こうした要因により、子供ができにくくなってしまったのか?
「秀吉は不妊の身体ではなかったか?」「茶々との相性が良く、若く健康であったため子供が出来たのか?、それとも健康に優れていて妊娠したのか?」
という見方が最も自然ではないのか??
歴史上、秀頼は淀殿が産んだ子、父は秀吉の実子となっています。
スポンサーリンク
鶴松・秀頼は本当に秀吉の子だったか?
秀吉は、茶々を側室にしたとき50代後半で茶々が立て続け2人を出産、1人目は天正16年(1588年)に鶴松を出産するも2年後に死去、2人目は文禄元年(1593年)に後の秀頼を産む。
秀吉の死去は、慶長3年(1598年)(61歳)ということは、秀頼は5歳位でまだ幼く普通の体格だったに違いない。
これが青年だったら秀吉も「おやと思って疑ったのかもしれない」あまりに体格が違いすぎるから。?
秀吉の死後、豊臣秀頼は本当に豊臣秀吉の実の子なのか?と噂話が出始める。
この疑問は、実は秀吉の死後すぐにささやかれ始められました。
それは、秀吉には妻(寧々)や多くの側室がいたにもかかわらず、唯一、茶々(淀殿)との間にだけ子供が生まれたから。
妻(寧々)も側室も全員不妊症だったのか、秀吉の側室になる前、松の丸殿と加賀殿は以前子を授かっていることが記録に残っていて、秀吉との間に子供が出来ていませんでした。
これが事実なら秀吉が不妊であった可能性をさらに示唆していますが、当時では、秀吉が不妊だったという証拠は、明確に確認されていません。
しかし、記録を見る限り秀吉の子として生まれたのは茶々の子・秀頼だけです。
このことが事実で、「秀頼は本当に秀吉の子なのか?」という疑念を生むきっかけとなっています。
茶々が他の男性との間に出来た子を秀吉の子として育てのか?
もし、秀頼が秀吉の実子でなかれば、豊臣家の正当性が問われることになり、その後の豊臣家の運命にも大きな影響を与えかねません。
スポンサーリンク
母・お市と3姉妹
茶々の母・お市(継室として長政に嫁ぐ)と浅井長政との間に、茶々は、永禄12年(1569年)頃?、近江国の小谷城で長女として誕生した。
通説では、母・お市は、天文16年(1547年)頃?に尾張那古野城内で誕生、信長とは13歳離れて、父は織田信秀の五女として誕生したが、生母は不詳ですが、通説では土田御前とする説、土田御前だったら信行・信孝・お犬の方とお同じ母で兄姉になり、(美濃国岩村城の女城主・おつやの方は10歳ぐらい上の、お市共々絶世の美女で信長より年下の叔母)です
※.上記のおつやの方をクリックしていただくと女城主・おつやの方の記事があります。興味ある方は読んでください。
お市の婚姻した時期は諸説あるますが、古くは永禄7年(1564年)と言われていたが、同年8年12月に六角承禎の命を受け和田惟政が織田・浅井両家の縁組に奔走したが、浅井家の賛同が得られず頓挫した。
永禄10年(1567年)9月、または永禄11年(1568年)1月から3月頃、この時、永禄10年9月に浅井側から急ぎ美濃福束城主・市橋長利を介して織田信長に同盟を求めて来て縁談がまとまって、お市は浅井長政に輿入れをしたので茶々の誕生はその後であり、長政は主家である六角家臣・平井定武の娘との婚約がなされていたが、お市との婚姻により破談となった。
茶々の叔父・信長は、天下を手中に治める勢い、茶々の父・浅井長政とは同盟を組み幸せの生活でしたが、元亀元年(1570年)4月下旬に信長と家康(同盟を組んだ義弟・長政)が朝倉義景の越前一ノ倉城の攻略に乗り出し金ヶ崎城で戦っていたとき、茶々の父・浅井長政が突如裏切り朝倉方について信長軍に襲いかかり信長は命からがら京に逃た。
いわゆる「金ヶ崎の戦い」です。
※.上記の金ヶ崎の戦いをクリックしていただくと詳しい記事がありますので読んでください。
元亀元年(1570年)6月28日に近江国浅井郡姉川河原(現・長浜市野村町及び三田町一帯)で、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との間で戦い、長政は、妻のお市と3人の娘たちを信長に引き渡した後、天正元年(1573年)9月1日に家臣の屋敷で自害した。
(天正元年は、1573年の7月28日に始まりました)
お市の方と三姉妹は、叔父である守山城主・織田信次に引き取られ養育されましたが、天正2年9月29に戦死した後は信長の岐阜城へ転居した。
天正10年(1582年)、信長が本能寺で死去した後は、母が柴田勝家と本能寺の変の4ヶ月後8月20日に、信長亡き後城主となった信孝居城・岐阜城で再婚し婚儀が行われた。
天正11年(1583年)、柴田勝家と羽柴秀吉が対立し4月の「賤ヶ岳の戦い」で敗れたため、勝家は敗走して越前北ノ庄に帰城、市と共に4月24日に自害、3人に姉妹は秀吉の元に行った。
お市の方享年37歳。
スポンサーリンク
秀吉の正室と側室たち
正室・ねね(寧々)
天文18年(1549年)頃の生まれ、正確な生年は定かでない。
尾張国(現・愛知県西部)の武家の出、杉原定利の次女として誕生、兄は木下家定※1、姉に長慶院、妹に杉原くまがいます。
※1.木下家定(いえさだ)とは、寧々の兄。父は杉原定利、母は朝日殿※2(杉原定利を婿養子)で結婚し、木下家定・寧々(秀吉の正室)・くま(三折全友の正室)・やや(浅野長政の正室)をもうけた。
※2.朝日殿という名の由来は、尾張国朝日村(現・清洲市)から来ている。
また、家定は秀吉の死後には、妹・寧々(北政所)の世話をし江戸時代まで生き延びている。関ヶ原の戦いで東軍に寝返った小早川秀秋は実子です。
正室・ねねを始め、何人もの側室を迎えていますが、最初の長浜城で側室にした南殿が男児・女児を妊娠していますが、いずれも早死にしています。
秀吉は男性不妊ではないが、極めて妊娠させることが難しい状態だったのか?
秀吉の兄妹姉妹は子沢山である以上子供ができなかったというのは不思議です。
スポンサーリンク
側室・南殿
南殿とは、長浜城のとき男児を出産・名は石松丸(羽柴秀勝:数年後に天折してる、その後、女児を出産したが早死にしてる)正室・ねねからは夫(藤吉郎)の不貞と不満を織田信長に訴え、信長は、秀吉を「剥げ鼠」といって叱責する書状を出している。
側室・南の局/南局
鳥取城主・山名豊国(禅高)の娘で名はあかね。
秀吉に攻められ鳥取城を追われる。
あかねは秀吉の側室となり、父・山名豊国は秀吉に従うことになり、「天正9年(1581年)の第ニ次鳥取城攻めに加わっている。
側室・摩阿姫
元亀3年(1572年)生まれ、前田利家の三女、母は芳春院(側室)、名は麻阿、阿茶ともいわれている。
天正10年(1572年)、11歳で柴田勝家の家臣・佐久間十蔵と婚約し、北ノ庄城に入るも翌年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は秀吉に敗れ婚約者の十蔵は自害。
天正13年(1585年)越中の佐々成政を成敗し、凱旋して金沢城により利家の歓待を受けた、14歳であった麻阿は秀吉に伴われて大阪におもむき秀吉の側室になる。
のちに聚楽第に住み、聚楽天主と呼ばれ、秀吉の死後、万里小路充房の側室となる。
側室・姫路殿
信長の弟で父・織田信秀の4男・織田信包と長野藤定※3の娘との間に誕生した姫路殿は、天正5年(1577年)の中国征伐の頃に豊臣秀吉に差し出されて側室となる。
※3.長野藤定とは、伊勢国の戦国大名。長野工藤氏15代当主。
生母・長野氏は秀吉が娘(姫路殿)を側室にした際、身分の低い秀吉を嫌い、信包の屋敷へ引き取り一時期返さなかった。
姫路殿の称は、秀吉が築城し、姫路殿の住まう播磨国姫路城に由来する、秀吉の寵愛は深かったものの子女に恵まれることはなかった。
側室・三の丸殿
三の丸殿は主・信長の娘を側室にした。
母は、信長の嫡男・織田信忠の乳母であった慈徳院、大雲院の開山で長興院の開祖、妙心寺56世・九天宗瑞は母方の伯父にあたる。
側室となった経緯は不明だが、伏見城三の丸に住居を与えられて三の丸殿と称されえた。
慶長3年(1598年)3月の醍醐寺の花見の記述がありますが、三の丸殿は4番目の輿にて花見に参加した。
供養としてのは、随時したのは平塚為広と片桐且元で、側室の序列としては3番目でした。
スポンサーリンク
側室・香の前
香の前は通称で、名は種。豊臣秀吉・伊達政宗の愛妾で、後に茂庭綱元の側室となった。
天正5年(1577年)、慶長3年(1598年)3月の醍醐寺の花見の記述であり、三の丸殿は4番目の輿にて花見に参加した。
御供として随従したのは平塚為広と片桐且元で、側室の序列としては3位だった。の長女として生まれる。
父の次郎右衛門については不詳、牢人となって伏見に居住していたという。
種は、その美貌を見初めた太閤・豊臣秀吉の愛妾となり、香の前(香姫)もしくは、お種殿と名付けられた。
後に秀吉から陸奥国の大名・伊達政宗に下賜され、政宗との間に、慶長3年(1598年)に津多(女子)、慶長5年(1600年)に文次郎(男子)を産んだが、慶長7年(1602年)に政宗の重臣・茂庭網元に下げ渡されて側室となり、2人の子と共に網元の屋敷に移った。
側室・月桂院
後水尾天皇の第9皇女「月桂院宮」とは異なります。
月桂院は、子弓公方・足利頼純の娘。名は嶋(しま)、嶋子或いは嶋姫、嶋女、お嶋。
古河姫君と呼ばれた。初めは倉ヶ崎城主・塩谷惟久の正室でした。
後に豊臣秀吉の側室。足利国朝、喜連川頼氏の姉である。
側室・京極竜子
父は京極高吉、母は浅井久政の娘(京極マリア)。
兄(弟かも)に京極高次、弟に京極高知。浅井長政は伯父、浅井三姉妹(茶々・初・江)は従妹、二番目の初は京極高次に嫁いでいるので義理の姉妹、浅井長政の娘(茶々・初・江の異母姉)であり従姉となるくすを乳母とし、長じて侍女としたとも伝えられる。
初めは武田元明※4の正室となって、2男1女を生むが寡婦※5となった後に豊臣秀吉の側室になる。
※4.武田元明とは、若狭国の守護大名。武田義統の子で若狭武田氏の第9代当主。後瀬山城(旧・若狭小浜城主)。
※5.寡婦(かふ)とは、夫と死別か、または離婚した後に再婚していない女性を指す言葉。
呼称は、大阪城の西の丸に屋敷を与えられたことから西の丸殿(西丸殿)、次に伏見城に移ったことから末の丸殿(松丸殿)、或いは京極殿(京極様)などと呼ばれ、秀吉の死後は出家して寿芳院と号した。
スポンサーリンク
側室・甲斐姫
忍城城主・成田氏長と最初の正室で、上野国金山城主・由良成繁の娘との間に生まれる。
天正元年(1573年)、成田氏と由良氏の関係悪化に伴い、母とは2歳の時に離別、その後は成田氏長の継室となった太田資正の娘の下で育てられたが、継母や巻姫や敦姫といった腹違いの妹たちとの仲は良好だったという。
19歳となった甲斐姫はその容姿から「東国無双の美人」と評されたが、武芸や軍事に明るかったことから「男子であれば、成田家を中興させて天下に名を成す人物になっていた」とも評された。
甲斐姫が秀吉の側室となった経緯について『関八州古戦録』は「蒲生氏郷は奥州仕置きにより会津に移封された後、成田氏長に一万石の采地を与えた。
秀吉が下野国小山の百々塚に立ち寄った際、那須の岡本清五郎という者が氏長の娘が無雙の容姿と志操堅固の持ち主であり、忍城の戦いにおいて母(太田資正の娘)と共に甲斐甲斐しく振る舞った」と噂ををしてることを聞き密に面会した。
その後、上方に戻った秀吉は使者を送り、氏長の娘を側室とするために上京するように伝えた。
さらに大谷吉継からの奉書が届くと氏郷は侍女を多数、成田志家臣の吉田和泉守を介添えとして騎馬武者10人、足軽270余人を帯同させ、12月29日に大阪へ送った。
この後、この娘の訴えにより秀吉は氏長に烏山の領地を与えた。
側室・広沢局
肥前垣添城主・名護屋経勝の娘で名は広子。
広沢局は20歳だったが、独身で朝鮮出兵のため名護屋城に来た秀吉の側室に、文禄2年(1593年)の夏頃になったとされる。
なお、松の丸殿(京極竜子)と広沢局を同一指摘もあります。