美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

豊臣政権の崩壊の始まり

豊臣家の崩壊はここから始まった——秀長の死と豊臣政権の終わりの始まり

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  豊臣政権天下が絶頂に達した、天正19年(1591年)に、秀吉最重要人物の弟・豊臣秀長が同年1月22日に郡山城内で病のため静かにこの世を去った(享年52歳)

 

 

温厚で慎重だった秀長、そして誰よりも有能だった秀長だったが。

その秀長が、兄・秀吉の荒々しい性格を柔らかく包み込み、諸大名や朝廷との橋渡し役を担ってきた。

 

 

しかも、その秀長が亡くなった瞬間から、豊臣政権バランスを失い破滅への道を歩き始めたのです。

 

 

千利休の死・甥の秀次の死・朝鮮への出兵など。

本記事では、なぜ秀長が豊臣政権の要と呼ばれたのか?また、秀長の死後何が一気に変わったのか?さらに、秀長が生きていれば歴史は変わったのか?

 

 

 

兄・秀吉の暴走を止めらる唯一の人物

「秀長は具体的に何を止めたのか?」歴史書や一次史料の記憶から、代表的な3つをまとめます。

 

 

 

刀狩令の過度な取り締まりを和らげた

秀吉「農民から武器を全て取り上げろ!」と、天正16年(1588年)に発布した令です。

 

 

農民僧侶など武士以外の身分の者から刀・弓・鉄砲などの武器を没収する政策で兵農分離(武士と農民の身分を明確に分ける)を進めた。

 

 

一揆を防ぎ平和な世の中を作ることを目的とし、集められた武器は、京都・方広寺の大仏建立の釘などに使われました。

 

 

本当の目的は、一揆の防止・兵農分離の推進(武器を持つ者を武士と確定し、農民は農業に専念させる)・治安の回復(農村の治安を安定させ、年貢の徴収を確実にする)・民心安定(集めた武器を仏像の材料にすることで、功徳を説き民衆の支持を得たいと思った)という強硬な姿勢でした。

 

 

これに対して、大規模な全国規模な反乱は記憶されていないが、局地的な抵抗や不満は存在しました。

 

 

刀狩令は、農民の武装解除兵農分離を進め、一揆の芽を摘み、身分制度を固定化する強力な政策だったため、農民側は不満を抱えつつも、武力による大規模反発は困難でした。

 

 

一方で、武器の没収による生活防衛(狩猟・自衛)への影響や、寺社勢力の武装解除に対する抵抗はあり、武士や寺社からの不満も存在しましたが、秀吉の圧倒的な軍事力と徹底した取り締まりにより抑え込まれた形です。

 

 

 

反発が起きぬくくなかった理由

徹底的な武力制圧:秀吉は強力な軍事力で、一揆の兆候や抵抗を厳しく弾圧し、農民に恐怖心を与えた。

 

 

また、「おかしな理屈」による正当化として秀吉「武器を持つと年貢を滞納し、一揆を起こし、田畑が荒れる」という論理で、農民に武器を手放させるよう誘導した。

 

 

身分統制令との連携として、検地とセットで行われ、農民を土地に縛り付け、武士の下に置くことで、反抗する余力を奪った。

 

 

兵農分離が徹底したことで、農民「おとなしく年貢を納める道具」とされ、武士と明確に区別されたため、武力で対抗する手段が失われていった。

 

 

 

起きた反発の例(小規模・挑発的)

一揆の抑制効果、刀狩りの目的の一つは一揆抑制でしたが、武器を奪われた農民は、もはや大規模な一揆を起こす力を失った。

 

 

寺社勢力への影響は、武装解除された寺社側にも不満はありましたが、武家社会の秩序維持という名目で強行されしまった。

 

結論として、刀狩令は農民の抵抗力を奪い、近世社会の基礎を築いた政策であり、その徹底ぶりと秀吉の権力によって、全国的な反発は表面化しにくかったと言えます。

 

 

 

秀長の反発

豊臣秀長が秀吉の刀狩令について、直接的に反対意見を述べたという記録は確認されていませんが、 しかし、秀長豊臣政権内で「調整役」「ブレーキ役」として重要な役割を果たしており、秀吉の過激な行動を抑制することがあったとされています。 

 

 

刀狩令の背景では、農民からの武器を没収し、一揆を防止するとともに、武士と農民の身分を明確に分ける「兵農分離」を目的としていましたが・・・。

 

 

秀長は,紀州攻めや大和支配の際に、寺社勢力の武装解除や検地の実施など、兄に先駆けて同様の政策を行い、そのノウハウを秀吉の全国的な刀狩令の基礎にしたとも言われています。

 

 

秀長の役割は、秀吉の短気で感情的な面を補い、諸大名との間を取り持つなどして政権の安定に不可欠な存在でしたが、秀長が病死した。

天正19年(1591年)した後、秀吉の独裁的な行動(千利休の切腹や秀次事件、朝鮮出兵など)が目立つようになり、豊臣政権の屋台骨が揺らぎ始めたことから、「秀長が生きていれば豊臣家はもっと長く続いたかもしれない」と言われるほど、その調整能力は高く評価されています。

 

これらのことから、秀長は刀狩令の目的自体に反対したというよりは、むしろ政策の実行に関与しつつ、その過程で生じるであろう摩擦や諸大名の不満を和らげる役割を担っていたと考えられます。

 

 

 

聚楽第造営での無茶な要求を和らげた

豊臣秀吉が権力絶頂期に聚楽第を築く相談を諸大名に伝えた際、彼らは秀吉権威を認め、築城に必要な労働力や資材の提供を命じられるという形で応じました。

 

 

秀吉が聚楽第の建設を命じた主な背景と目的は、京都支配の拠点と象徴、天正13年(1585年)に関白に就任し、翌年には豊臣姓を賜り太政大臣※1となったこと。

※1.豊臣姓を賜わり太政大臣になった日とは、豊臣秀吉が、朝廷から「豊臣」の姓(かばね)を賜り(賜ったのは天正14年(1586年)です。、最高位の官職である太政大臣に任じられた(同年12月19日(新暦1587年1月28日)ことは、彼の人生における重要な節目です。経緯としては、当初、近衛家の猶子(ゆうしとは形式的な養子)となり、関白に就任した。
 

 

 
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秀吉は、政治の中心地である京都に自らの政庁兼邸宅を必要とした。

平安京大内裏の跡地である「内野」に築かれた聚楽第は、新しい時代の支配者の権威を象徴するものでした。

諸大名は、聚楽第の周囲に屋敷を構えることも義務付けられました。

 

 

 

諸大名の服従の可視化

諸大名に屋敷を構えさせることで、彼らを秀吉の膝元に集め、常に監視下に置くとともに、天下人としての秀吉への従属を明確にさせました。

 

 

天皇の行幸が、天正16年(1588年)には後陽成天皇を聚楽第に迎え、盛大な行幸を執り行いました。

 

 

この際、諸大名に天皇の前で秀吉への忠誠を誓う起請文を提出させ、自らの権威を朝廷の権威と結びつけて国内外に示しました。

 

 

都市改造の一環として、聚楽第の築城は、京都の都市改造計画(御土居の築造や寺町の整備など)とも連動しており、新たな政治体制の確立を目指すものでしたです。

 

 

 

諸大名の対応

諸大名は、秀吉の天下統一事業の中で、拒否できない形で築城普請(土木・建設工事)に動員されました。 普請への参加では『多聞院日記』には、天正14年(1586年)から諸大名に内野(聚楽第建設地)の城の普請が命じられたことが記録されています。

 

 

四国や東国から大量の材木が運ばれるなど、大規模な動員が行われました。
屋敷の造営などは、上杉景勝や黒田如水、千利休といった有力武将や側近たちは、聚楽第の周囲に広がる武家地に屋敷を構えました。これらの屋敷の跡地を示す地名(如水町、弾正町など)が現在も残っています。

 

 

費用負担は、築城や屋敷建設にかかる費用や労力は、諸大名にとって大きな負担となりました。

 

 

これは秀吉による財力の削減策の一面もあったと考えられます。

このように、聚楽第の築城は、豊臣政権下における諸大名の支配体制を確立し、秀吉の絶対的な権力を内外に誇示する重要な政治的イベントでした。

 

 

これに対して諸大名らは、人足の大量動員が難しい、建材の提供が困難、巨額の費用が生じるという意見をいいましが、秀長が「このまま諸大名に押し付けると反発でます」とやんわりと各諸大名に負担の限度を超えないよう調整しています。

 

 

秀吉の短気で過激な行動をいさめるブレーキ役を務めていたことで知られていますが、聚楽第の造営そのものに関する具体的な「無茶な要求を秀長が和らげた」という直接的な逸話は、信頼できる歴史資料には明確には残されていません。

 

 

しかし、秀長は政務や軍事面で常に兄を支え、諸大名との交渉や意見の調整役として機能していました。 

 

 

秀長は温厚な性格で、諸大名が秀吉の怒りに触れた際に、秀長にとりなしを依頼して事なきを得たケースが多くあったと伝えられています。

 

 

例えば、小牧・長久手の戦いで失態を犯した甥の豊臣秀次を、秀長が秀吉の怒りからかばったという逸話があります。

 

 

また、徳川家康が秀吉への臣従(上洛)を拒んだ際にも、秀長が仲介役となって実現に導くなど、対立の緩和に努めていました。 

 

 

これらの逸話から、秀長が豊臣政権の潤滑油として機能し、秀吉の行き過ぎた要求や判断を間接的、あるいは直接的に調整・緩和していた可能性は十分に考えられます。

 

 

秀長が1591年に病死した後、秀吉の政権運営は朝鮮出兵や秀次事件など、不安定な方向に進んだことから、その存在の大きさがうかがえます。

 

 

 

秀吉の共感力不足を補い敵を造らない政治にした

秀長は、兄・秀吉の政治における共感力不足を補い、敵を造らない政治を実現するための戦略は、以下のようなアプローチをしたと考えられます。

 

 

意思決定プロセスに「合議制」を導入し透明性を高める

五大老・五奉行制度の機能強化し秀吉が独断で重要な決定を下すのではなく、五大老(有力大名)や五奉行(実務担当者)との合議を徹底します。

 

 

これにより、主要な関係者の意見が反映され、決定に対する不満や反発を減らすことができます。

 

 

定期的な評定の開催: 定期的に評定(会議)を開き、政策の意図や背景を関係者に明確に説明し、これにより、政策の透明性が確保され、誤解や不信感を防ぎました。

 

 

恩賞と処罰の基準を明確化し公平性を期す:

統一的な評価基準の策定は、戦功や働きに対する恩賞の基準、および過ちに対する処罰の基準を明確な文書として定め、これにより、処遇のばらつきや不公平感をなくし、家臣や大名の納得感を高めていった。

 

 

功績に応じた公正な配分には、血縁や個人的な好悪ではなく、客観的な功績に基づいて恩賞を配分しました。

 

 

例えば、石高に応じた軍役の負担割合を明確にし、それに対する報酬体系を確立しました。

 

 

柔軟な外交政策と他国との融和:

明への侵攻計画の見直しとして、明への侵攻(文禄・慶長の役)のような大規模な対外戦争は、国内の大名に大きな負担を強いるだけでなく、国際的な孤立を招き敵を増やす原因となります。

 

 

これを撤回し、朝鮮や明との平和的な外交・通商関係の構築に注力し、朝廷・寺社との良好な関係維持をしたく権威を利用するだけでなく、朝廷や有力寺社への寄進や儀礼を丁寧に行い、彼らとの関係を円滑に保ちます。

彼らを通じて国内の精神的な安定を図り、政権への反感を和らげます。

 

 

 

家族や後継者による補佐体制の構築

豊臣秀次や石田三成の役割を見直し、甥である豊臣秀次や、有能な石田三成などの側近が、秀吉の意向をそのまま実行するだけでなく、大名や民衆の声を秀吉に伝えるパイプ役としても機能するよう役割を明確化した。

 

 

後継者教育の重視に、幼い秀頼の将来を見据え、単に世継ぎとしてだけでなく、家臣や民衆の心をつかむための教育(共感力を養う教育)も重視した。

 

 

これらの施策を通じて、秀吉個人による独裁的な「共感力不足」な政治運営を是正し、より多くの関係者の納得と協力を得られる「敵を作らない」体制を築くことが可能になります。

 

 

 

秀吉の共感力不足補った秀長

敵を作らない政治にしたいと思い、秀長は兄・秀吉の「共感不足」や「短気さ」を補い、諸大名との関係を取り持った「調整役」として高く評価されています

 

 

歴史家の間では、秀長が長生きしていれば、豊臣政権はより長く安定していた可能性が高いと皆口を揃えています。

 

 

 

秀長が果たした具体的な役割

諸大名とのパイプ役: 秀長は温厚で謙虚な人柄で知られ、秀吉に臣従した徳川家康や島津義久、長宗我部元親らとの交渉や接待を担当しました。

 

 

彼らの不満を和らげ、政権内の融和を図る重要な役割を担っています。

また、政権の「ブレーキ役」: 秀吉が怒りっぽい性格で独裁的になりがちな面があったのに対し、秀長は冷静沈着な意見を述べ、その暴走を抑える「ブレーキ役」として機能していました。

 

 

軍事・内政の両面での補佐: 軍事面では四国征伐の総大将を務めるなど功績を挙げ、内政面では大和国などの統治や太閤検地の基礎作りに関わるなど、政権運営の中枢を担いました。

 

 

 

公儀のことは宰相が存じ候

大友宗麟が秀吉に助けを求めた際、秀長は「公儀(豊臣政権)の事柄については、この宰相(秀長自身)が承知している」と述べており、諸大名統制の権限を委ねられていたことが分かります。

 

 

秀長死後の豊臣政権

秀長は、天下統一を見届けた直後の天正19年(1591年)に病死しました(享年52)。

 

 

彼の死後、秀吉の行動は歯止めがきかなくなり、千利休の切腹、甥・秀次の粛清、朝鮮出兵など、政権の不安定化を招く事件が続発しました。

 

 

これらの事態から、秀長がいかに豊臣政権にとって不可欠な存在であったかが証明されています。

 

 

 

-豊臣政権の崩壊の始まり

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。