美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

仏の茂助・鬼の茂助

牢人だった堀尾吉晴と藤吉郎( 豊臣秀吉)の出会いから 松江城24万石の城主

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   堀尾吉晴とは、どのような武将だったか?あまり知られていない人物です。

「仏の茂助・鬼の茂助」と呼ばれます。

 

 

その温厚な人柄から「仏の茂助」と呼ばれ、敵対する大名の城の降伏を促す交渉(調略)で、戦わずして勝利に導く「鬼」のような強さをみせ、数々の解決を実現してきました。

 

 

特に小田原征伐後の勢力拡大時や、松江城築城時など、彼の「仏のような優しさ」「鬼のような決断力」を使い分け、相手の心を開かせ、戦下を避けるための交渉をおこなっていたことが広く知られています。

 

 

「虫も殺さぬ優しさ」で知られ、相手の心情を理解し情に訴えかけることで、頑な相手も心を許し投稿や和睦に応じるように仕向けました。

 

 

一般的に戦国武将で堀尾吉晴を知ってる人はあまりいないと思います。

特に、島根県松江市に住む人は,松江城の文化と歴史で有名です。

 

 

 

堀尾吉晴という武将

        ▲堀尾吉晴

成功の秘訣は、豊臣秀吉と共に戦場を駆け抜けた実績と、それでも決して奢らず誠実で謙虚な姿勢を貫いた人柄にありました。

 

 

戦国の世にあった珍しく仏と称された、心優しき勇者・吉晴の生涯に迫りたいと思います。

 

 

 

堀尾吉晴親子は主君を失い、牢人生活からの再出発

堀尾吉晴は、尾張の国人領主・堀尾吉久の息子として生まれ、幼名は仁王丸です。

 

 

評判はというと、おっとりとした温厚な性格で、まるで姫君のような美貌の持ち主だったため、武士としては頼りない印象を持たれました。

 

 

16歳の初陣で一番首を挙げてきても、「どうせ拾い首だろう」と疑われ、卑怯者扱いされる戦場デビューとなりましたが、翌日味方が敗れて撤退する中、吉晴は戻って来ない若党を心配し、馬を降りて敵の中へ探しにいって驚く周囲をよそに若党と共に無事帰還を果たし、その姿に、人々の評価は一変します。

 

 

「昨日の一番首も真の武功だ」と、たった1日で名誉を取り戻したのです。

 

 

しかし、評価が上がった矢先、吉晴の人生は一転します。

この浮野合戦※1(永禄元年:1558年)で堀尾家が従っていた岩倉織田氏織田信長に敗北した。

※1.浮野合戦(浮野の戦い)とは、戦国時代、尾張国浮野(現・一宮市千秋町浮野)で起きた合戦です。

織田弾正忠家※2織田信長は尾張の支配を固めつつあった、尾張下四郎を支配する清洲織田氏(織田大和守家)の守護代織田信友を萱津の戦いで破り自刃させ、さらに弟・信勝との内訌(稲生の戦い)に勝利し、尾張国守護の斯波義銀をも追放した。

しかし、尾張上四郎を支配していた嫡流岩倉氏(織田伊勢守家)の守護代・織田信安はいまだ健在であった。

信康は信長の父・信秀の妹を妻とし、若年の頃は信長とも私的に交流があった人物であるが、長良川の戦いの際には、隣国美濃・斎藤義龍と手を組み信長を攻撃するなど、この当時は敵対関係にあった。

ところが、信安は長子の信賢を遠ざけ、次子の信家を後継ぎとしようと画策したことにより信賢と対立し、信賢により追放されていた。

岩倉織田氏の内紛を見た信長は信賢との戦いに備え、父の信秀死後は独立勢力化していた犬山城主織田信清に、自身の姉の犬山殿を嫁がせ、信清を味方に組み入れた。永禄元年(1558年、信長は2,000の軍勢を率い、浮野の地において信賢軍3,000と交戦した。

激戦が続いたが、信長の元へ信清の援軍1,000が到着すると形勢は一気に傾き、信賢軍は壊滅した。1,200を超える死者を出した信賢軍は、本拠の岩倉城へ敗走した。

※2.織田弾正忠家とは、ここに詳しい記事がありますから興味ある方はクリックして読んでください。

※.上記の織田弾正忠家をクリックして頂くと詳しい記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

戦に敗れ堀尾吉晴は父と共に牢人に

堀尾吉晴は父と共に牢人の身となってしまいます。

その後の5年間、伊勢や尾張を放浪しながら、美濃では猟師として生計を立てていた、そんな放浪の中、運命的な出会いが訪れました。

 

 

猟をしていた吉晴に声をかけたのが、まだ一介の家臣だった木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が美濃の稲葉山攻めで道に迷って間道の案内をして藤吉郎に気に入られ家臣として召し抱えます

▲(『新撰太閤記』歌川豊宣)稲葉山城の間道で藤吉郎を案内する堀尾吉晴

 

まだ、この当時は、藤吉郎(秀吉)は城持ちでもない時代のことだったので、この出会いを機に、吉晴の人生は大きく動きだします。

 

 

 

仏のような吉晴が戦場では鬼に変貌

別名、吉晴のことを通称・茂助と呼ばれていました。

穏やかな性格と牢人時代の苦労が相待って、周囲がらは「仏の茂助」と呼ばれるようになります。

 

 

後年、吉晴は自らの武功を息子に語ることもせず、むしろ息子が無理に聞き出したという話もあります。

 

 

また、かつての牢人達にも心を配り、自ら雇ったり仕官先を紹介するなど、情の厚い人柄でもありました。

 

 

しかし、そんな温厚な男が、戦場でみせる顔はまったく別でした。

仏の皮を被った鬼、その実態はまさに規格外武勇の持ち主だった、例えば、元亀元年(1570年)の姉川の合戦で、吉晴は敵方の物見に出くわして首を挙げ、織田信長から評価されます。

 

 

それ以降も武功を重ねた結果、信長からは「堀尾吉晴は首を挙げるのが常だから、いちいち持って来なくてよい」とまで言われ。

 

 

藤吉郎(秀吉)からもその活躍は認められ、丹波の一揆で36もの首を挙げた際には、こう言われたとか?「仏の茂助なんて名前はもう似合わん、仏は人を助けるが、お前は首を取るばかりじゃないか」今日からは“鬼の茂助”と呼んでやる。

 

 

穏やかなあだ名が一転、鬼の称号に!荒っぽい命名ですが、戦国武将にとっては、これ以上ない賛辞だったことでしょう。

 

 

 

吉晴、お前の命を三度ももらったな〜

鬼とまでいわれた吉晴の活躍は、ただの武功にとどまりませんでした、藤吉郎(秀吉)からは「お前には三度も命をくれた」とまで言わしめる程の忠義を尽くしてくれたと、感動で涙したという逸話が残っています。

 

一度目の命

賤ヶ丘の戦いで、信長の死後、天下取りを狙う秀吉は柴田勝家と激突、この時、秀吉は大垣城に陣を張っていましたが、賤ヶ岳への移動を決断したとき、大垣城主の氏家行広が柴田方に寝返りそうな動きを見せた、そこで秀吉は吉晴に、「万が一、行広が裏切れば後を任せた」と城を託しました。

         ▲大垣城

 

任せたということは、任された方は死を覚悟して返事をしなくてはならない、もし氏家行家が裏切られば命はない状況。

 

 

それでも吉晴は、「もとより命を差し出す覚悟」とキッパリと返答した。
秀吉との間に、言葉を超えた信頼関係があったのです。

 

 

幸いにも行広は裏切らず、吉晴は無事に賤ヶ岳に出陣して武功を立て、若狭の高浜城主として1万7000石を得るまでになった。

まさに大名への第一歩でした。

 

 

 

二度目の命

小牧・長久手の戦いでの退却戦で、秀吉が家康との戦いから一時退却を決めた歳、追撃を防ぐためには、殿(しんがり)を務める者が不可欠。

その重責を託されたのが吉晴でした。

「ご安心を。私が最後まで守ります」と吉晴は即答をし、敵の大軍に囲まれながらも冷静に指摘し、無事に秀吉の退却を成功させました。

ここでも死を覚悟しての行動に、秀吉は深く感動したといいます。

 

 

 

三度目の命

文禄2年(1593年)秀吉は既に天下人となり、吉晴も遠江浜松に12万石を領する重臣になっていました。

 

 

そんな中、関白を退いた秀次の不行跡が問題となり、秀吉は吉晴に秀次が出頭するよう連れてくるように命じます。

        ▲豊臣秀次

 

「もし拒めばどうするのか」と秀吉が問うと、吉晴は「よきに計らいます」とだけ答えています。

かつてと同じ、阿吽の呼吸です。

 

 

もしも抵抗されれば命を賭してでも秀次を連れて帰るという覚悟を、言葉なくして伝え、秀吉は、その忠義に心打たれ、「お前は命を三度、くれたな」と目を潤ませたと伝わります。

 

 

 

吉晴の優しき鬼の調整力、政務でも発揮

激戦をくくり抜けた鬼茂助ですが、その仏のような人柄も秀吉から重んじられ、やがて内政面でも重要な役割を担うようになります。

 

 

30代の頃には、因幡の鳥取城・吉川経家や備中高松城・清水宗治など、開戦時に自害を選んだ敵将たちの検死役という任務を任されています。

 

 

これらは、一つ間違えれば敵に討たれる危険もある緊張な場面ですが、そんな大役を任されたのは、吉晴が秀吉の絶大なる信頼を置かれていた証拠です。

 

 

さらに晩年には、吉晴は豊臣政権を支える中老に任命され、これは、五大老と五奉行の中間で調整役を担う立場です。

 

 

中村一氏、生駒親正と共に、政権のバランスを保つ役目を果たしていきます。

 

 

 

家康が仕掛ける

秀吉の死後、徳川家康が他の大名と独断で婚姻関係を結ぶ※3など、独走の兆しを見せるなど、五奉行・四大老が反発しきりだが。

※3.独断で婚姻関係を結ぶとは、徳川家康が豊臣秀吉の死後に他の大名と独断で婚姻関係を結んだ相手は、伊達政宗(秀忠の娘・千姫の妹と政宗の嫡男・忠宗を結婚)や福島正則(正則の養女を家康の養子・松平義直と結婚)ら複数います。家康は五大老としての合議制を無視した行動は五奉行の石田三成らとの対立を深める主要な原因となり、関ヶ原の戦いへと繋がる権力闘争へと激化していきます。

 

 

そんな緊張が高まる中、吉晴は「五大老・五奉行は協調すべし」という秀吉の遺言を根拠に家康に誓詞を提出させ、他の九人からも同様の誓詞を集めて争いを回避しました。

 

 

さらに、石田三成失脚後には、家康が伏見城に入れるようにしたいと相談を受けた際、吉晴は五奉行を説得し、奉行の総意として大老を動かし、政治的調整力でも非凡な才能を発揮したのです。

 

 

 

時に「鬼をぶっこむ!吉晴の豪快エピソード

鬼のような温厚な人格が称えられる一方、吉晴には時折“鬼茂助”が顔を出す瞬間もあり、むしろ、そのギャップこそが彼の魅力だったのかもしれません。

 

 

例えば、小田原攻めの後、陸奥南部家の内乱において、吉晴は目代(軍艦)として現地の指摘を監督する立場に任命さ、ところが、「自分も戦場で暴れたい!」と軍議をすっぽかして勝手に出陣してしまいます。

 

 

先陣を切って戦に参加し、ついに九戸城を落とすという大戦果を挙げてしまい、軍令違反ではあるもものの、その活躍ゆえに秀吉からは大いに称賛されたというのだから、“鬼”ぶりが見事に報われ。

 

 

また、関ヶ原の戦いの前にも、仰天の事件に巻き込まれ、東軍に味方することを決めて帰る途中、三河の池鯉鮒で水野忠重や加賀井茂望らと酒席を囲んでいたところ、加賀井が突如水野忠重を斬殺してしまった。

 

 

加賀井は石田三成からの家康暗殺せよ命を受けていたが失敗したため、せめて家康の縁者を‥‥という動機とされています。

 

 

この時、吉晴は即座に加賀井を押さえつけて刺殺した、ところが、そこに水野の家臣たちが駆けつけ、加賀井の首を取った吉晴を犯人と誤解され、「なんで俺!?」という状況で、吉晴は襲撃を受けて十か所以上も傷を負いながら、なんとかその場を脱出し助かった。

まるでドタバタ劇のような出来事も、鬼茂助らしい肝の据わった対応でした。

 

 

吉晴の松江城築城と晩年と苦悩

関ヶ原の戦いで吉晴自身の軍功は目立たなかったものの、息子・堀尾忠氏が活躍したことで、堀尾家は出雲・隠岐二四万石を与えられる大出世を果たし、その地で吉晴が築いたのが、現存十二天守の一つ「松江城」です。

 

 

黒塗りの下見板で覆われた天守は重厚かつ風格に満ち、鳥が羽を広げたような姿から別名・千鳥城とも呼ばれ、城を見上げれば、戦場を駆け抜けた吉晴の人生が、そのまま建物に宿っているように感じられることでしょう。

 

 

しかし、吉晴の晩年は決して穏やかではありませんでした。

家督を継いだ忠氏が父に先立って急逝、その死は、神域の池を無理に見た祟りだとも、毒蛇に噛まれたとも言われ、不可解としか思えませんでした。

 

 

その後、吉晴は復帰して、孫・忠晴(忠氏の子)の後見役として政務に当たったが、身内の不幸はさらに続いた、というのは筆頭家老の夫妻(妻は吉晴の長女)が、自分達の子を後継にしようと企て、幼い忠晴を暗殺しようと計画するも、発覚して家老とその子は死罪、加えて次女も病を苦に若くして自害してしまいます。

 

 

戦国の修羅場をくくり抜けた吉晴も、私生活では多くの試練に見舞われ、仏の茂助の心は静かに病んでいた。

 

 

-仏の茂助・鬼の茂助

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。