美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

赤母衣衆・黒母衣衆

織田信長の精鋭部隊「黒母衣衆・赤母衣衆」とは?その成り立ち・役割・代表的武将を解説

投稿日:2026年1月8日 更新日:

   織田信長といえば、革新的な戦術大胆な人事で知られる戦国武将です。

その信長の軍団の中でも、ひときわ異彩を放っていたのがエリート集団の「黒母衣衆」・「赤母衣衆」と呼ばれる精鋭部隊で、一言でいえば、戦場で信長の周りに付き従い、その指摘で直接動く総大将の直轄部隊です。

 

 

旗本の中でも、さらに選抜された選り優ぐれた「エリート部隊」といえます。

派手な装束(母衣)を選び抜かれた騎馬武者がつけ、そして主君・信長のすぐそばで戦う役目を担っていた。

 

 

本記事では、黒母衣衆・赤母衣衆成立背景、役割、違い、代表的な武将をわかりやすく解説します。

 

 

 

精鋭部隊=黒母衣衆・赤母衣衆とは何か

黒母衣衆・赤母衣衆とは、織田信長に直属した若武者中心の精鋭部隊です。

「母衣(ほろ)」とは、背中に背負う大きな布で、矢を防ぐ実用的な装備であると同時に、戦場で目立つ威圧と象徴性を兼ね備えていた。

▲母衣のイメージ(室町時代以降は布を広げるために骨組みを作らせた)

    ▲熊谷直美/wikipediaより引用

 

信長は、この母衣の色を黒・赤に分け、それぞれの部隊を編成した。

 

 

黒母衣衆の役割と特徴

黒母衣衆は、信長の側近中の側近とも言える存在であると言えます。

特徴は:信長の身辺警護、伝令・使番(命令の即時伝達)、戦場での指揮補佐。

戦場では信長のすぐ近くで動き、まさに「信長の目となり耳となって」働くことを機能した。

 

 

赤母衣衆の役割と特徴

赤母衣衆は、諸説によると「十人までの選抜メンバー部隊」攻撃的・象徴的な性格を持つ者信長「小姓」の中から特に優秀なメンバーを選抜して編成するという仕組みになっていました。

 

かの森蘭丸に見られるように、信長の小姓たちとよいうのはかなり濃密な結束力を持った若者達でした。

 

突撃・先陣役、武勇を示すための精鋭集団、信長の威光を誇示する存在。

赤は戦場で最も目立つ色であり、赤母衣衆の存在そのものが敵への心理的圧迫となったと思います。

 

 

赤母衣衆の代表的武将

前田利家(加賀百万石の基礎を築いた)・山口飛騨守・毛利長秀(秀頼)・木下雅楽助(織田薩摩守)・織田越前守・岩室長門守・伊東長久・飯尾尚清・福富秀勝・壇直政(原田直政)・渥美刑部丞・金森長近・猪子一時・黒田次右衛門・加藤弥三郎・浅井正澄

武勇に優れた若者が多く、「戦って名を上げる」部隊だったと言えます。

 

 

突撃・先陣役、武勇を示すための精鋭集団、信長の威光を誇示する存在。

赤は戦場で最も目立つ色であり、赤母衣衆の存在そのものが敵への心理的圧迫となったと思います。

 

 

黒母衣衆と赤母衣衆の違い何だったのか?

 

 

黒母衣衆の代表的武将

佐々成政(豊臣秀吉に敗れ切腹へと追い込まれた)・河尻秀隆(美濃国岩村城主)・中川重政・津田盛月・毛利良勝(紳助・新介)・生駒勝介・水野帯刀左衛門・松岡九郎次郎・平井久右衛門・蜂屋頼隆・野々村正就・伊藤武兵衛門・中島主水正。

 

いずれも後に、一国一城の主、あるいは重臣へと成長していく人物ばかりです。

 

 

そもそも母衣とは何か?

馬に乗って背中でたなびいている赤い布が分かりますか?

背中に大きな母衣(布)を背負って馬を走らせると見方だけではなく敵からも一目瞭然の存在となり目立ち、目立つがゆえに背後から弓で狙われても、その母衣が矢を防いでくれる効果があります。

 

 

いずれにせよ戦場では目立ちつ存在、ゆえに武勇がなければ務まらず、味方を鼓舞する名誉ある役目でもあったのです。

 

 

織田軍では、信長の直属の部下として「馬廻衆」「小姓衆」などがいて、その内選り優れた10名(計20名)のメンバーが黒母衣衆赤母衣衆に選出されるのです。

桶狭間の戦いを始め、稲生の戦い、天王寺砦の戦い、朝倉軍の追撃など‥‥活躍。

 

 

信長は、緊急事態に自ら戦場へ駆け出して行く事で知られるが、そうした時に、最初から付き従うのが小姓や馬廻の役目であり、その筆頭が黒母衣衆と赤母衣衆だったのです。

※.母衣衆はメンバーの入れ替わりがありがあります。

 

 

 

なぜ信長は母衣衆を重視したのか

信長が母衣衆を編成した背景には

①.若手をを立派な武将に育てたい狙いがあったので競わせた。

②.戦場での命令伝達を迅速化

③.視覚的演出による軍の統制

 

※.これは、後の藤吉郎(秀吉)らに馬廻衆・近習制度にも影響を与えたいと考えた演出したと考えられる。

 

 

 

黒・赤の母衣衆を掲載

黒母衣衆

河尻秀隆

信長の父・信秀の代から仕え桶狭間の戦いにも参戦、後の信長の嫡男・信忠を補佐し武田の奪った岩村城を奪還し、そのまま岩村城主になったが、甲州征伐後は甲斐一国を任されるが、本能寺の変後武田の残党に打たれ死亡してしまう。

       ▲河尻秀隆(慎吉)wikiperdaより引用

 

※.上記の河尻秀隆をクリックして貰うと岩村城の記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

中川重政

織田一門の武将、織田形部大輔(または形部少輔)の子とされ『織田系図』では織田信次の孫となってますが、『寛永系図伝』の段階では「織田氏出身」という以外、詳しい系譜はない。

 

 

『武家事記』によれば、始めは織田駿河守を称し、織田氏の門葉として信長に近侍し、黒母衣衆の一員として度々戦功を挙げる。

 

 

信長の上洛後は京都の内政を任されるなど、秀吉や明智光秀と並んで重用されていた。

 

 

しかし、実弟の津田隼人正が柴田勝家の代官を斬殺してしまい兄弟揃って改易された。

後に呼び戻されるも、その後の活躍は伝わっていない。

 

 

 

津田盛月

中川重政の弟で、初名は織田左馬充で兄・中川重政が安土に置かれると補佐として同郷してたが改易にあって失職したが、信長が本能寺の変で死去すると秀吉に仕え外交などで活躍する。

 

 

佐々成政

佐々氏の出自は起源は諸説ありますが、一般的には、宇多源氏の佐々木の一族とされます。

また六角氏の庶流とも言われ、他に菅原氏とする説もありますが、これは成政の父・盛政が一時母方の菅原姓を名乗っていたことに寄ります。

 

 

有力な説は、佐々氏の祖は鎌倉時代後期の六角泰綱の未子・佐々権僧京都頼起(良輝)に始まりますが、諸説あるため、はっきりとしてません。

 

 

主な根拠地は尾張国春日井郡伊関、春日井郡比良となっています。
成政は、10代の頃から織田信長に仕え、持ち前の武勇を発揮して、信長の黒母衣衆に配属され頭角を現し筆頭なり活躍します。

 

 

数々の戦場で戦功を挙げ、特に鉄砲への造詣※1が深く、織田家鉄砲部隊は佐々成政によって鍛えられた

※1.造詣(ぞうけい)とは、学問や芸術(のある分野)知識が広く理解が深く優れていること。「ーが深い」。

    ▲佐々成政 wikipedaより引用

 

やがて織田家の重臣・柴田勝家の与力(侍大将や足軽大将に付属した騎馬の武士)となり越中国(現・富山県の大名になる)が信長が本能寺で急死した後、秀吉と対立して、柴田勝家や徳川家康らと組んで対抗するが、天正13年(1585年)に本拠地富山城を秀吉の大軍に攻められ降伏した。

 

 

天正15年(1587年)に肥後国を与えられるが、検地に失敗し国人の一揆を招いてしまう。

その為、天正16年(1588年)佐々成政は豊臣秀吉に切腹を命じられる。

 

毛利良勝(新助・新介)

毛利新左衛門良勝ですが、毛利新介と呼ばれた名の方が有名か、新介は、桶狭間の戦いで、今川義元の首を討ち取った武将として名を馳せ、後に黒母衣衆に抜擢されます。

▲毛利新助と服部小平太が義元に襲い掛かる。(作・歌川豊宣部)wikipedaより引用

黒母衣衆に抜擢さるぐらいだから、まぐれで義元を討ち取ったとは考えられない、信長から馬廻りとして生涯を過ごしますが、本能寺の変の際、嫡男・信忠と二条城に詰めていて討死してしまいます。

 

 

毛利元就と、どのような関係があるか? 同族なのか?まったく解らないです。

 

 

また、毛利十郎、九郎兵衛の名も文献に見られますが(毛利十郎は毛利良勝と同一人物か親子か兄弟だと思われるが定かではないです)。

 

 

 

生駒勝介

生駒勝正の従兄弟とされます。
当初は、犬山城の織田信清(信長の父・織田信秀の従兄弟)に従っていたが、後の信長の家臣になる。

  ▲生駒親正/wikipediaより引用▲

 

 

水野帯刀左衛門

刈谷の水野氏一族の者と推定されrます。
桶狭間の戦いでは丹下砦の守備につき、その後名前が消えてしまう。

 

 

松岡九郎次郎

茶に通じていて、本能寺の変後は豊臣秀吉に仕える。

平井久右衛門

弓が得意な武将で、有岡城攻めでは弓宗を率いて町に火矢を打ち込んだ。
京都馬揃えで弓隊を率いるほど。

 

 

 

松岡九郎次郎

茶に通じていて、本能寺の変後は豊臣秀吉に仕える。

 

平井久右衛門

弓が得意な武将で、有岡城攻めでは弓衆を率いて、町に火矢を射ち込んだ。

 

 

京都馬揃えで弓隊を率いるほど。

京都御馬揃え※2:信長の家臣たちが勢揃いしたパレードは衣装もド派手だった。

※2.京都御馬揃えとは、天正9年2月28日(1581年4月1日)、織田信長が京都で行った大規模な観兵式・軍事パレードが、丹波秀長や芝田勝家をはじめ、織田軍団の各軍を総動員する大規模なものだった。

正親町天皇が招待され、近衛前久ら馬術に通じた公家にもパレードへの参加が許された。3月5日に信長は再度、名馬500余騎をもって馬揃えを挙行した。

 

 

 

蜂屋頼隆

▲蜂屋頼隆/wikipediaより引用▲
美濃出身の武将。
早くから馬廻衆として活躍し、上洛後は畿内での政務に携わり、その後も信長の主な合戦で活躍。
一時は和泉国も任されるも、豊臣政権の下では不遇であり、越前敦賀5万石へ。
蜂屋頼隆の生涯|信長の親衛隊・黒母衣衆から大名へ 地味なれど秀吉にも重用され、続きを見る。

野々村正成

当初は美濃の斎藤家に仕え、後に黒母衣衆へ。
長篠の戦いでは、鉄砲衆を指揮したことでも知られる。
本能寺の変では、二条御所に駆け込み、討死となる。

伊藤武兵衛

早い段階で信長に仕えていたが、後に、同僚を斬って出奔、今川家に仕えた。

中島主水正

織田信清の家臣で、犬山城では家老の一族だったと推測される。
その後、信長の下で黒母衣衆へ。

赤母衣衆

次は赤母衣衆を確認しよう。

前田利家

▲前田利家/wikipediaより引用▲
言わずとしれた加賀百万石の藩祖。
若い頃は織田家を追い出されたこともあるが、その後は北陸方面で柴田勝家らと共に武功を挙げる。
勝家と秀吉により賤ケ岳の戦いでは、秀吉勝利のキッカケを呼び込み、豊臣政権で五大老へと大出世。

山口飛騨守

信長の小姓で赤母衣衆に選抜。
信長の近臣・坂井道盛を殺害して出奔すると、徳川家康を頼り、三方ヶ原の戦いで討死となる。

毛利長秀(秀頼)

信長の馬廻で赤母衣衆に選抜。
一説によると尾張守護・斯波義統の子とのこと。
甲州征伐で武田家が滅亡すると、信濃伊那郡を与えられて飯田城主となる。

木下雅楽助(織田薩摩守)

読み方は「きのした うたのすけ」で、中川重政や津田盛月の弟。
兄二人と同様に赤母衣衆へ。
兄の改易に連座して、その後は消息不明も、豊臣秀次に仕え、長久手の戦いで討死したとも伝わる。

織田越前守

信長の馬廻から赤母衣衆へ名を連ねるも、その他の事績は全くの不明。

岩室長門守

信長の小姓から赤母衣衆へ。
桶狭間の戦いで活躍するも、翌年、小口の戦いで討死。
当時、信長最愛の家臣だったとも目されている。

伊東長久

武力を誇る赤母衣衆。
尾張三本木村での戦いで編笠をかぶって戦い「編笠清蔵」と呼ばれる。
天正元年(1573年)、浅井長政の本拠地へ攻め込んだ小谷城の戦いでは、刀と脇差しを紛失しながら敵3人を討ち取ったと伝わる。
豊臣政権では、腰母衣衆・旗奉行を務めたとのこと。

飯尾尚清

桶狭間の戦いでは、今川軍に鷲津砦を落とされるも生還。
その後、馬廻りとなり赤母衣衆となるも、役人としての活躍のほうが目立つ。

福富秀勝

信長の馬廻で赤母衣衆に選抜。
黒母衣衆の野々村正成と同様、長篠の戦いでは鉄砲衆を指揮した。
▲長篠合戦図屏風より/wikipediaより引用▲
本能寺の変では、二条御所で討死するが、それまで平時は小姓や馬廻の指揮官を務めていたと思われる。

塙直政(原田直政)

信長の馬廻で赤母衣衆に選抜。
上洛後は畿内の行政に携わり、信長と義昭の間では使者役も務める。
荒木村重や明智光秀らと共に石山本願寺と戦い、討死。

渥美刑部丞

>
『高木文書』の中にだけ見られる名前。他の史料では確認できない。

金森長近

▲金森長近/wikipediaより引用▲
元は美濃出身だが、織田信秀の時代から仕官して信長の家臣へ。
美濃攻略の功を認められて赤母衣衆となり、その後も活躍。長篠の戦いでは酒井忠次の別働隊と共に織田軍5000を率いて、勝頼背後の砦を陥落させている。
その後も信長、秀吉、家康の下で活躍し、関ヶ原後は飛騨を中心に約6万石の領主となる。

猪子一時

織田信清(犬山城)から信長に仕えて赤母衣衆へ。
本能寺の変後は秀吉に仕えている。

黒田次右衛門

三河出身ながら、信長に見出されて馬廻から赤母衣衆へ。

加藤弥三郎

尾張熱田の豪族・加藤順盛の次男。
桶狭間の戦いで活躍するも、山口飛騨守と共に信長の近臣・坂井道盛を殺害して出奔。
徳川家康を頼った後、三方ヶ原の戦いで討死する。

浅井政澄

信長の馬廻から赤母衣衆へ。
嫡男の織田信忠に従うも、程なくして活躍の記録は見られなくなる。

-赤母衣衆・黒母衣衆

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。