美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

岩倉城の戦い

岩倉城攻めとは何だったのか?苛烈さの裏にあった織田信長の慎重な戦い方

投稿日:2026年1月14日 更新日:

 大河ドラマの豊臣兄弟!信長が岩倉城主・織田信賢を攻めて岩倉城を落とした。

 

どうして同じ同族「織田」同士で敵対して戦うのか、信長が生まれたところは勝幡城(現・愛知県西部)で幼き頃、岩倉城の信安親子と遊んだ記録が残っています。

そんな仲だったのに敵対関係になった「織田弾正忠家」「岩倉織田家」

 

 

織田信長はどうして織田信賢を攻めたのか?

岩倉城攻めは、永禄2年(1559年)に、織田信長による尾張統一の総仕上げになった戦いです。

 

 

そもそも、岩倉城は、尾張北部を支配する有力な守護代家である織田伊勢守家の本境地でした。

 

 

信長は、尾張国内での主導権争いの最終局面として、敵対する当主・織田信賢の居城である岩倉城を攻めた。

 

 

この戦いは苛烈※1兵糧攻め徹底的な包囲網を特徴としましたが、その裏には敵の援軍を遮断し、退路を断つという信長の周到で慎重な戦略がありました。

※1.苛烈(かれつ)とは、(酷いほど)厳しく激しいさま)。

 

 

当時、尾張国足利一門斯波氏が守護として治めていたが、戦国時代に権威が失態し実権は、守護代の「織田大和守家」(清洲織田氏)「織田伊勢守家」(岩倉織田家)がおり、さらにその家臣である「織田弾正忠家」など複数の勢力に分裂して争っていた。

 

 

織田信長(弾正忠家の父である織田信秀は、もともと下四郡守護代・清洲織田家(大和守家)の家老という立場でしたが、次第に勢力を拡大していきました。

※上記の弾正忠家をクリックして貰うと詳しい文章があります。興味ある方はご覧になってください。

 

 

信長家督相続後、弘治元年(1555年)叔父である守山城主・織田信光と共に尾張守護代・織田大和守家(清洲織田氏)居城である清洲城を攻略しました。

 

 

これにより、信長は守護代の地位と尾張下四郡の実質的な支配権を手中に収めました。

 

この後、信長は永禄元年(1558年)、岩倉城主・織田信安(織田伊勢守家)浮野の戦い※2で破り、岩倉城を攻略した。

これにより、下四郡を完全支配下起きました。

 

 

 

※2 浮野の戦いは織田信長と岩倉城主・織田信安

織田弾正忠家織田信長は、織田大和守家(織田清洲織田氏)を倒し守護代・織田信友萱津の戦いで破り自刃させ、さらに弟・織田信勝との内訌(稲生の戦い)に勝利し、尾張国の守護の斯波義銀をも追い出した。

 

 

尾張上四郡を支配していた嫡流岩倉織田氏(織田伊勢守家)の守護代・織田信安はいまだ健在、信安は信長の父・信秀の妹を妻とし、若い頃の信長との交流があった人物であるが、義父・斎藤道三との長良川の戦いの際に、美濃国の斎藤義龍と手を組んで信長に攻撃するなど敵対関係にあった。

 

 

ところが、長子の信賢を遠ざけ、双子の織田信家を後継としようと画作したことに怒った織田信賢と対立し父・信安を追放した。

 

 

 

織田家のルーツ

織田氏のルーツは尾張国だと思っていたら違った!

戦国時代の織田氏は尾張国の有力武士で、多くの一族がいたが、古くから尾張に根をはった一族というわけではなかった。

 

 

実は、織田氏はもともと越前国(現・福井県)の武士で『織田家請』などによると、源平合戦の時、平資盛※3 が壇ノ浦で自害すると、その妻は幼児だった親真を抱いて近江国蒲生郡津田荘(現・近江八幡)に逃げた。

 

後に、この親真が越前国敦賀郡織田(現・福井県に丹生郡越前町織田)の劔神社の神官の養子となって織田氏を称したのがとなった説と。

※3 .平資盛(たいらすけもり)とは、平安時代末期の平家一門の武将で、平清盛の嫡男・平重盛の次男、母は藤原親盛(或いは藤原親方)の娘。

位階は従三位まで昇叙、新三位中将と称された。和歌に優れ『新勅撰和歌集』『風雅和歌集』に名を残しています。

 

 

この系図が詐称※4であることは明白で、現在では忌部氏※5の一族と言われています。

※4.詐称(さしょう)とは、住所・氏名・職業などを偽っていうこと。

※5.忌部氏(いんべうじ)とは、「織田氏が現在では忌部氏の一族といわれている」という説は存在しますが、これは複数の説の内の一つで、織田氏の系譜については諸説あります。

平氏説(通説): 織田氏は、一般的に桓武平氏の流れを汲むとされています。

平貞盛の子孫が越前国織田庄(現在の福井県越前町織田)に土着し、後に「織田」を名乗ったのが始まりとされています。越前町の劔神社には、平重盛と織田信長が祀られており、関連を示す古文書が残されています。

忌部氏説: 近年の研究や越前町教育委員会の見解として、織田氏の真のルーツは越前町ゆかりの忌部氏(いんべし)ではないかという説が提唱されています。

忌部氏は古代の祭祀氏族で、この説では織田氏の始祖とされる「親真」の名が刻まれた五輪塔の調査結果などが根拠とされています。

古文書の中にも、母が平氏の娘であるというだけで平氏の流れを否定し、あくまで忌部氏の直系だと強調する記述があることが指摘されています。

 

 

中世、織田荘の荘官を務めていた在地武士※6の織田氏が、やがて守護の斯波氏の家臣となり次第に勢力を蓄えていったものと見られます。

※6.在地武士とは、中世・近世の日本で、特定の地域(在地)に根を下ろし、農民を支配しながら領主的な立場をとった武士層のことです。

もともとは有力な農民(名主など)や地頭・荘官などが土着して武士身分を得た存在で、地侍(じざむらい)とも呼ばれ、国人(こくじん)領主層を形成し、守護大名の下で地域支配を担いました。

 

 

織田氏尾張へ移住

室町時代、斯波義将とその子・斯波義重が越前守護に加え尾張守護も兼任するようになりました。

 

 

この際、斯波氏は自らの領国を支配するために重臣を派遣し、筆頭家老であった甲斐氏が越前守護代を、織田氏が尾張守護代を世襲することにした。

 

 

この守護代の役職に伴い、織田一族の一部が本拠地である越前から尾張へと移住し、現地の支配にあたったと考えられ、故郷の地名である「織田」を名字として名乗るようになったとされています。

 

 

 

尾張での発展

尾張国に移住した織田氏は、守護代として尾張の中心地である清洲城(現・愛知県清須市)などを拠点に勢力を拡大していき、戦国時代に入り主家の斯波氏の権威が失墜すると、守護代であった織田氏が尾張の実権を握るようになりなった。

 

 

織田信長の家系である「織田弾正忠家」は、この尾張守護代家の分家の一つでしたが、信長の父・織田信秀の代に商業で財を成すなどして力をつけ、最終的に信長が他の織田一族を倒して尾張一国を統一してしまった。

 

 

このように、織田氏が越前から尾張へ来たのは、権力構造の変化の中で斯波氏の家臣として重要な役職を与えられ、そこからさらに独自の勢力へと成長していった歴史的経緯があったためです。

 

 

 

尾張織田氏の活躍

越前守護斯波氏の家臣となった織田氏は次第に出世し、斯波義重尾張守護を兼ねると、常昌が守護代に抜擢されて尾張国に転じていき、これが尾張織田氏の始まりである

 

 

やがて織田氏は、岩倉城に拠って丹羽・羽栗・中島・春日井尾張上4郡を支配する嫡流の岩倉織田家(伊勢守家)と、清洲城に拠って斯波氏を奉じ、海東・海西・愛知・知多尾張下4郡を支配する清洲織田家(大和守家)に分裂して争った。

 

 

両織田家の系譜については諸説あり、はっきりしない。

このうち、清洲織田家は永正10年(1513年)に織田達定が守護・斯波義達と対立して討死し、以後、因幡守家・藤左衛門尉家・弾正忠家3庶子家が家老として事実上支配した。

 

 

この清洲織田家3家老のうち、実権を握ったのが信長の弾正忠家であった。

勝幡城(現・愛知県愛西市勝幡町)に拠っていたことから、勝幡織田家とも呼ばれ、当時伊勢湾水運の拠点であった津島(現・愛知県津島市)を支配下に置くことで経済力を蓄え頭角を著わしていった。

 

 

信長の立ち位置

信長が生まれたのはこの勝幡織田家である
▲ここに勝幡城のURLを入れる▲

 

 

従って、織田氏全体からみれば「分家を支える家老の1つ」という立ち位置にすぎない。

 

 

しかし、信長の父・織田信秀は那古野城(現・名古屋市中区)に転じて勢力を広げ、斎藤道三の娘を嫡男・信長の嫁に迎えて斎藤氏と結ぶなど、主家である清洲織田家を凌ぐ力を持ってい木、そして、天文20年(1551年)に家督を継いだ信長は、主家である清洲城主・織田信友や、弟・信行、異母兄・信広を討って清洲織田家を統一した。

 

 

さらに岩倉織田家で信賢が父・信安を追放するという内紛が生じると、浮野の戦い※4▲で信賢も討って、ついに織田氏全体を統一した。

 

 

こうして、大名家の生まれとはいいながら、分家の分家から一族全体を掌握した信長にとっては、出自よりも実力こそが最大のよりどころで、そこに秀吉の出世の糸口があったといえる。

 

岩倉織田家のその後

子・織田信賢によって岩倉から追放されたが、父の織田信安は、斎藤義龍に仕えたのちに京で僧侶となったとも、かつての家臣であった山内一豊の招きで土佐に転じたともいう。

江戸時代の土佐藩士の織田家は信安の末裔であると伝えている。

 

 

岩倉織田氏の内紛

内紛をみた信長は信賢との戦いに備え、父の信秀死後対立勢力化していた犬山城主・織田信清に自身の姉の犬山殿を嫁がせ、信清を味方に組み入れた。

 

 

永禄元年(1558年)信長は2,000の軍勢を率い、浮野の地において信賢軍3,000と交戦した。

 

 

激戦が続いたが、信長のもとへ犬山城主・織田信清援軍1,000人が到着すると形成は一気に傾き信賢は壊滅し、1,200人を超える死者出し、本拠地の岩倉城へ敗走した。

 

 

翌年の永禄2年(1559年)信長は軍勢を率いて信賢の本拠・岩倉城を包囲した。

数ヶ月の籠城戦ののち、信賢は降伏した。

 

 

戦後、犬山城主・織田信清に約束していた岩倉城主・織田信賢の旧領地の分与を実行しなかったか、または、分与を巡って意見の食い違いの対立が生じたことで両者の関係は険悪になった。

 

 

のちに信長は犬山城主・織田信清をも追放し、この不満から、信清は永禄5年(1562年)頃に信長に「対して反旗を翻し、楽殿城を奪うなどの敵対行動をとったため、信長は犬山城周辺に小牧山城を築城して圧力をかけ、最終的に永禄7年(1564年)5月の犬山城の戦いで信清を攻め犬山城は落城しました。

 

 

敗れた織田信清は城を放棄して甲斐国へ逃亡し、武田信玄のもとで「犬山鉄斎」と称しましたが、織田信賢のその後は不明ですが、先に追放された岩倉城主・織田信安は、その後、信長に赦免され(滋賀県近江八幡市安土町豊浦)にある摠見寺の住職になった。
尾張統一を完成させた。

 

 

この浮野の戦いにおいて岩倉勢として活躍した林弥七郎は、先年の稲生の戦いで戦死した林美作守の縁者と云われる。

 

 

弥七郎は弓の名手、信長方の鉄砲の名手・橋本一巴と一騎打ちを演じたとされています。

 

 

勝敗や生死には諸説ありっますが、両者傷み分けとなり林弥七郎は負傷した。

撤退の際に追い討ちをかけてきた佐脇良之(前田利家の弟)の右肘を林が斬って負傷させたものの、最後は佐脇に討ち取られたと伝わる。

 

 

その他、岩倉勢には後に織田・豊臣政権下で活躍する山内一豊の父の山内盛豊や堀尾吉晴(仏の茂助・鬼の茂助)の父の堀尾泰晴も参戦しています。

※.浮野の戦いは、弘治3年(1557年)、岩倉城落城は永禄元年(1558年)とする説があります。

 

 

-岩倉城の戦い

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。