
豊臣秀吉と弟・秀長は、戦国史における理想の兄弟関係として知られています。
また、同じように「兄を支え、家を支柱から支えた弟」がいたことをご存じでしょうか?
それが、甲斐の名将・武田信玄とその実弟・武田信繁です。
二人の関係は極めて良好で、家中からの信頼も厚かった。
しかし、信繁は若くして謙信との「川中島の第4次で戦死」し、武田家は大きな転機を迎えることになる。
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本記事では、豊臣兄弟と武田兄弟を比較しながら、戦国時代における「弟の役割」とその喪失がもたらした影響について考えて見たいと思います。
▲豊臣兄弟と武田兄弟の比較
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豊臣秀吉と秀長!!天下人を支えた理想の兄弟
豊臣秀長は天下統一を成し遂げた秀吉の実の弟、事情がはっきりしていることもあり豊臣家の中でも非常に重要、また貴重な人物であった。
秀長の生年月日は諸説ありますが、最近ではほぼ確定されつつあります。
天文11年(1542年)頃ではないかと言われています。
上杉謙信などと比べると10歳あまりの開きがあります。
没年がハッキリしていているには、天正19年(1591年)正月、時期でいうと天正18年(1590年)の小田原征伐・奥州仕置が完了した直後の非常に重要な時期であり、豊臣政権の「ナンバー2」であった弟・秀長の死去である。
豊臣秀吉の天下統一という輝かしい時期を見ないで、人生を終えたことになります。
兄・秀吉の日本統一という史上類を見ない大仕事を一番近くで見つめていたのが弟・秀長である。
そういう意味では戦乱の世を日本国内から戦争を終わらせたという輝かしい時代を秀長の視点から検証していけば、また違ったストーリーが浮かび上がってくるかもしれません。
秀長は織田信長時代どういう人物だったのか、ある時期から資料がしっかり残っていて、ある程度のことはみえてくるが、やはり断片的であります。
そこから分かるのは信長の家臣として秀長自身が何か大きな役割を果たしたかというと、そこまでの実績はないです。
あくまで織田の家臣で豊臣一族の一人という範囲を出ていません。
ひょっとしたら秀吉より出世していたかもしれないという指摘者も「いるが秀長の実像はまだハッキリしないところが多いです。
信長に仕えていた頃、秀長は秀吉の一族という立場であり独立した行動を取ってようではない。
通説で言われる様に秀吉が最も頼りにしてた男だったのではないか。
そのことを裏付ける史料としてある所が残っている。
信長の死後、秀吉が黒田官兵に宛てた手紙があるが、その中に「あなたの事は秀長と同じ様に思っております」と書かれている。
これは秀吉が秀長を誰よりも信用しているという関係性を周囲も理解しているという前提があるからこそ意味を持つ一説である。
もし二人の関係が険悪であれば手紙を受け取った相手に好印象を与える事はない。
秀吉と秀長は誰が見ても仲のいい兄弟に見えたという事が推測できます。
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秀吉の暴走を抑えた「調整役」秀長
秀吉は天下統一の過程で成功体験を重ね、勢いと自身に満ち溢れていた時期(特に、天正13年(1585年)の関白就任から天正18年(1590年)の小田原征伐後)に、急激かつ一方的な国替えや命令を多用した。
これは秀吉の強烈な統治手法。

具体的な例え
「惣無事令」による裁定とは、大名間の私闘を禁止し、違反した場合は所領没収や転封(国替え)を行うという原則(惣無事令)を適用し一方的に裁定を下したり、
小田原征伐後の関東・奥州仕置(天正18年:1590年)、北条氏を滅ぼした後、関東・東北の大名に対し、大幅な領地替え、没収、加増を一方的に通告しました。
最大の事例は、徳川家康を関東へ移転させ、従来の領地(東海5ケ国)を没収したケースです。
また、九州平定後の国替えの例:天正15年(1587年)島津氏を降伏させた後、九州の大名たちに対して大幅な配置換を実施し、秀吉の意向に沿った支配体制を構築したり、太閤検地の一方的な実施したりした。
秀長の役割
そこで、秀長は、実行可能かどうかを検討し、家臣・大名側の負担をを計算したり、必要なら段階的な実施を提案したり、つまり、「やるか・やらないか」ではなく「どうやれば破綻しないか」に落とし込む役。
秀吉の理想を現実の制度に翻訳する存在だったのです。
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大名・公家との交渉役
秀吉は、強引な物言いで相手を圧倒する一方秀長は低姿勢かつ理論的などで、不満を最後まで聞く、できないことは「どきない」と正直に伝えると同時に大替えを必ず提示する。
特に、西国大名・朝廷・公家衆との調整では秀長が前面に立つことが多く、「秀長が相手なら、こちらの話も聞いてもらえる」と認識されていた。
家中の不満の吸収
豊臣家は急成長した政権ですから、当然、出世に不満を持つ者や古参と新参の対立があったり、恩賞への不満が絶えませんでした。
秀長は、表立っては争わない愚痴を言える“逃げ場”になるし、秀吉には角が立たない形で伝えてもらえるという鰀衛材※1の役目を果たします。
※1.緩衝材(かんしょうざい)とは、衝撃や摩擦を和らげるために間に入るもの。
例えば、荷物を守るプチプチ、あれが典型的な緩衝材です。
歴史記事で使う場合の意味は、人や組織の話で「緩衝材」というと、対立する双方の間に立ち、衝突が起きないよう調整する存在という比喩表現※2になります。
※2.比喩表現(ひゆひょうげん)とは、ある事柄を別の似たものに例えて、より分かりやすく、鮮やかに表現する技法です。
「〜のようだ」「〜みたい」を使う直喩(ちょくゆ)、「人生は旅だ」のように直接的な言葉を使わない隠喩(いんゆ・メタファー)、「風が唸る」のような擬人法(ぎじんじんほう)が主な種類で、読者に強い印象を与えたり、イメージを共有したりする効果があります。
秀長いれば話が通じると言われた理由
物事を冷静で現実的
秀長は、戦場でも政務でも感情に流されない心の持主、勝っても慢心しないし、負けを想定して動くタイプでした。
秀吉が「今は攻め時だ〜」と勢に乗る時ほど、秀長は「では、失敗した場合はどうしますか?」とブレーキをかける。
大名たちは「極端な決断にならない」と安心できたのです。
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約束を守る人物像
秀長は、条件交渉を曖昧にしない、口約束をしない、決めた事は必ず履行する。
この姿勢を一貫していました。
そのため、「秀長の言った事なら信用できる」という評価が定着します。
戦国時代において“約束を守る”=最大の信用だったのは大きいですね。
日本の政治家の皆さん皆洗ってください。
秀長は豊臣政権の潤滑油
秀長は、秀吉の代弁者であり、大名の代弁者でもある。
という両者の言語を話せる人物でした。
秀吉には「大名の本音」を伝え、大名には「秀吉の真意」を噛み砕いて説明します。
この往復があったからこそ、急造政権だった豊臣政権は大きな内乱を起こさずに済んだのです。
秀吉が「突き進む力」だったとすれば、秀長は「崩れないための力」だったと思います。
兄の理想を現実に落とし込み、家中と諸大名の不満を吸収し続けた存在。
それが、「秀長がいれば話が通じる」と言われた本当の理由である様に思います。
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武田信玄と弟・信繁の関係はどうだったのか?
信玄の兄弟姉妹:定慶院(今川義元の正室、信玄の同母姉)・武田信繁(信玄の同母弟)・武田信廉(信玄の同母弟)・その他異母兄弟妹を含めて10名以上。
武田家は兄弟争いが起きやすい家柄でしたが、晴信と信繁は権力争いをしなかく、お互いの役割を理解していて信繁はあくまで「支える側」に徹していた。
この点が非常に珍しい、つまり主従であり、兄弟であり補佐役にでしたので、信玄(晴信)には複数の兄弟がいたが、特に信繁は兄弟の中でも信頼が非常に厚かった。

武田信繁は信玄の右腕
家臣からは「信繁がいれば武田家は安泰」とまで言われた人物でした。
内政・軍事・外交の調整役で活躍し、また、信玄の暴走を和らげるブレーキ役でした。
武田家中をまとめる役でもありましたが、武田信玄を助けるために第4次川中島の戦いで信玄の身代わりとなって死んでいく。
信繁さえ生きていれば、武田信玄が亡くなった後も武田家が存続できた可能性があった人物と評価されています。
信玄・信繁の父・信虎がいかに信繁に期待した人物であったか。
ということは、元々父・信虎は信繁に跡を継いでもらいたかった。
嫡男・晴信(信玄)には期待してなかったにもかかわらず晴信(信玄)がなってしまった事実。
信繁は能力があり、合戦をさせれば強いのに兄の晴信(信玄)の危機の時しか立ち上がらない、いつも兄を立てていた。
真田昌幸が武田信繁は凄いということで、我が次男に信繁という名前をもらって、兄・信幸(信之)の補佐役として活躍してもらいたいと期待して付けた。