
藤堂高虎とは、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。
伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となる。
津藩藤堂家(藤堂家宗家)初代です。
藤堂高虎は秀長に雇われて人生変わった、
徳川家康に重用され江戸城の改築を始め数多くの城の設計・建設(縄張り)を行い層塔式天守を考案したり高石垣の技術をはじめ、石垣上には多聞櫓を巡らす築城が巧みであったと言われ近代城郭の基礎を築きました。
黒田(官兵衛)孝高や加藤清正と並び、「築城の名手で3名人」の一人て知られている武将ですが、足軽から身を起こし、7度も主君を変えながら最終的に32万石の大名にまで出世した「転職王」としても有名で、城下町の整備や内政・外交にも優れた手腕を発揮し、伊賀津藩(津藩)の初代藩主となりました。
また、外様大名でありながら徳川家康の側近として幕閣にも匹敵する立場にあった人物です。
主君を次々と変え、「世渡り上手」と揶揄されることもあった藤堂高虎。
しかし、彼がその生涯で唯一、魂を捧げるほど心服した人物がいました。
それが豊臣秀吉の弟であり、豊臣政権の屋台骨を支えた豊臣秀長です。
なぜ、藤堂高虎は豊臣秀長を仰ぎ、秀長はなぜ高虎にすべてを託したのか。
戦国史上、最も理知的で温かい「師弟の絆」の真実に迫ります。
高虎が出会い秀長が与えた「300石」の信頼
外様大名にもかかわらず譜代重視の徳川家康から絶大の信頼を得た藤堂高虎は、21歳までの高虎の行状や素行を見ると、武勇こそ優れていましたが、誰も付き合いたくない面倒で自惚れ屋の若者にすぎませんでした。
高虎は近江国の出身、当時、北近江の戦国大名・浅井長政の元で15歳で初陣(姉川の戦い)を飾り武功を挙げています。
※.上記の姉川の戦いをクリックして頂くと詳しい記事があります。興味ある方は読んでください。
小谷城の浅井長政から感謝状と脇差まで受けたが、それを妬んだ同僚と喧嘩して斬り捨ててしまい、浅井家から逃亡した高虎は、浅井家の重臣ヵら織田信長へ乗り換えた阿閉貞征※1に仕えます。
※1.阿閉貞征(あつじさだゆき)とは、代々北近江伊香郡の国人であったが、浅井氏が京極氏に代わって勢力を拡大すると従った。
その後、信長に従って朝倉攻めに加わった人物です。
ここでも高虎は同僚2人に自らの意見に従わなかったため殺害、これらの悪評で北近江に居られなく尾張国・美濃国・三河国を放浪し再仕官を試しますがプライドが高く謙虚さが欠けていて全く相手にされずダメでした。
仕方なく生まれ故郷の近江へ帰ったが、高虎は母親に叱られ旧浅井の重臣で織田信長に仕えていた磯野員昌に仕えるチャンスを得ました。
主、磯野員昌は80石で雇ってくれて高虎は仕事に励み加増もされますが、信長が磯野員昌の養子の甥の津田信澄を強引に家督相続させたため、失望した磯野員昌は出奔してしまったため、高虎の加増も反古にされましたが、甥の津田信澄は高虎の能力を高く評価していました。
プライドの高い藤堂高虎は性急な性格なため、せっかく慣れていた磯野家をあっさりと去ってしまいます。
藤堂高虎と羽柴小一郎の出会い
藤堂高虎の噂(悪評)をたまたま聞いて耳にした羽柴小一郎(秀長)、北近江3郡12万石の長浜城主だった、織田信長の家臣だった羽柴秀吉の弟・羽柴小一郎(秀長)でした。
▲藤堂高虎
秀長は、早速藤堂高虎を長浜に呼びつけ、天正4年(1576年)頃、まだ、無名に近かった者にあって、たった一度の面会で300石以上の異例の優遇条件で家臣した。
背景には、高虎の「武勇」だけではなく、「将来性」と「特異な能力」を秀長が瞬時に見抜いたというエピソードがあります。
具体的にどのような話をしたか、およびその背景は以下の通りです。
面会の核心は武勇と「知」の融合 当時、高虎は浅井家滅亡後、仕官先を転々とした話とかをしました。
秀長は高虎の若さや身体の大きさ(大柄で槍の名手)からくる「武勇」を高く評価しましたが、それ以上に「ただ戦うだけの武士」ではない「戦況を見極める冷静さ」を重要視しました。
具体的な会話の内容(伝承)としては、秀長は「戦(いくさ)」においては、ただ勇猛に突っ込むだけでは犬死だ。
どうすれば味方の犠牲を減らし、かつ「最短で敵を倒せるか、その策を考えられるか?」と問いかけたとされています。
そうすると、高虎はただ武勇を誇るのではなく、「敵の陣の弱点」「地形を利用した奇襲」「敵の動揺を誘う戦術」など、実戦で培った合理的な戦術(後の築城技術にも繋がる知的な面)を語り、秀長を納得させました。
それで将来を見込んで300石の厚遇の理由で家臣に、当時の無名・浪人に対し300石はかなりの厚遇です。
秀長は以下の点を評価しました。
若さと行動力と将来、軍の中核になる資質を見込んだ。
藤堂高虎は「戦功」の確実性あり、合理的に戦うため、確実な結果(敵の首や陣の奪取)を挙げてくる。
また「温厚篤実」な人柄とみた、秀長は高虎の義理堅さや、一度仕えたら主君に尽くす性格(後の秀長への死後、菩提を弔い続けた行動に現れる)を見抜いていた。
この面会が、その後の高虎に与えた影響が多かった。
この面会以降、高虎は秀長のもとで、和歌山城や郡山城の「普請(築城・土木)」奉行として能力を発揮し、築城の名手へと成長しました。
秀長は高虎を単なる「槍の家臣」としてではなく、「戦略・経営のパートナー」として扱い、高虎もそれに応えようとしました。
秀長のこの「たった一度の面会で見抜く「眼力」が、後に藤堂高虎という大名(30万石超)を生み出したと言えます。
喜んだ母親は、鮒寿司を作って仕官を祝い、以来藤堂家では祝い事がある時は必ず鮒寿司を振る舞ったそうです。
秀長と藤堂高虎の主人と家臣
秀長は臣従早々高虎に、羽柴家が信長から命令されていた安土築城の手伝い(人夫の監督)を任せます。
きっと武勇自慢の高虎は戸惑ったはずですが、築城は互いの信頼の上に協調性をもって当たらなければできない作業ですから、それまでのような我儘や短気は通用しませんでした。
もちろん人はそう簡単に変わる事はできませんから、秀長から激しく叱責されたり諭される場面もあったことでしょう。
次に高虎は秀長が採掘を始めた但馬国生野銀山の庶務を任され、さらに堺の有力商人でもあった茶人千利休に銀の財務運用を学びます。
世界が広がった高虎は人付き合いが良くなり、それまでになかった精神的な余裕が生まれたのです。
そして主君・秀長から命じられた一つ一つの仕事の意図や意味を知り、最終的な秀長の目標を理解するようになっていきます。
秀長の人徳の影響
後年の高虎が家康に期待した『武家政権による永続的で安定した平和』です。
高虎に限らず、秀長の人々への影響力は計り知れないものがあります。
まずリスクの高い墨俣砦構築に乗り気でなかった蜂須賀小六が、なぜ秀長の一言で秀吉に積極的に協力したのか?
また前野長康はなぜ『我ら川並衆は藤吉郎殿はともかく、小一郎殿にひかれて武辺に励んだのだ』と武功夜話に記したのか?
さらに茶頭商人に過ぎなかった千利休が、なぜ寿命を縮めてまで秀長がこだわった朝鮮出兵反対運動に賛同したのか?
そして高虎は、なぜ豊臣恩顧の大名たちから嫌われ、徳川譜代の大名たちから後ろ指さされてまで愚直に家康を支えたのか?
信長家臣時代の秀吉の重臣たちは、信長のそれや家康のそれと比べても不思議と好人物が多かったように私は感じています。
切れ者とされる竹中半兵衛は、重病をおしてまで秀吉がいる播磨三木攻めの陣に駆けつけて若死にしていますし、黒田官兵衛だって荒木村重に幽閉されて体が不自由になるまで秀吉に尽くしています。
蜂須賀小六も死ぬ直前まで秀吉の妹・朝日姫と家康の結婚に心を尽くしました。
つまりこのままの気持ちが続いていれば、後の豊臣政権も安泰だったわけです。
ただ彼らの心の支えだった秀長が死去し、秀吉が彼の志をないがしろにしたため、高虎を初めほとんどが家康に天下を託さざるを得なかったのです。
徳川秀忠が2代将軍になったばかりの頃、彼は父・家康が信頼する高虎に為政者としての心得を聞きます。
すると高虎は『家臣の器量を見抜いて適材適所で働かせることも大切ですが、何よりも人を信じて疑わないことです。
主従が互いに疑うようになれば心が離れてしまうかららです。
天下人であっても下の者が心服しなければ、肝心な時に事を謀ることもできません・・・』と語ります。
これを秀忠から聞いた家康は大いに感動したといいます。
高虎が75歳で死去した時、徳川三代に仕えた高僧天海は彼の戒名を寒松院と名付けました。
生前の高虎の生き様が、真冬の寒さにさらされる松の木のようだったからだそうです。