美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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織田家筆頭・佐久間信盛の追放劇のリストラが招いた本能寺の変

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 織田家の筆頭家老・佐久間信盛追放劇が、当時の織田家臣団にどれほどの衝撃を与えたか?
『織田家の筆頭家老が突然のクビ?信長が突きつけた「19ヶ条の折檻状」が現代のブラック企業よりエグい件で「昨日までの功労者が路頭に迷う」信長の聖域なきリストラ劇。

佐久間信盛を襲った絶望の正体、次は、俺か?と震えさせた。

天正8年(1580年)、織田家の屋台骨を支えてきた筆頭家老・佐久間信盛が、わずか一通の「折檻状」で全てを失いました。
信長が進めたこの苛烈なリストラは、単なる人事異動ではありません、明日から出社しなくてもいいでした。

それは、出世頭羽柴秀吉明智光秀に「成果を出さねば死」という究極の恐怖を植え付け、本能寺の変へと続くカウントダウンの引き金となったのでは?。

まず、佐久間信盛とは

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、織田氏の宿老で鳴海城主。

織田氏の家臣団の筆頭家老として家中を率いた武将です。

       ▲佐久間信盛

尾張国愛知郡山崎(現・名古屋市南区)に生まれ、信長の父・織田信秀に仕え後の織田信長に重臣として仕える。

 

 

信秀の死後の家督相続問題でも、一貫して信長に与し、信長の弟・信時を守山城に置くように進言し、城主だった信長の叔父・織田信次の家臣・角田新五らを寝返らせ、また、信長の弟・織田信行の謀反の際「稲生の戦い」で信長の武将として戦った、

 

 

その武功により、以後家臣団の筆頭格として扱われ、「退き佐久間」と言われたが、平手政秀※1の自害から主君の織田信長による折檻状で織田氏を離れるまでの約30年間、織田氏家臣団の筆頭家老として家中を率いた人物です。

※1.平手政秀とは、織田信秀・信長の二代に使え、尾張国の春日井郡にあった志賀城の城主でした。

信長が幼少の時期、信秀から吉法師の傅役(もりやく)を仰せつけられる。

『信長公記』の首巻によると、信長と次第に不仲になり自刃したとされています。

 

 

織田家筆頭家老の落日

佐久間信盛、その栄と孤独な再期は、天正10年(1582年)1月16日、かつて織田信長の快進撃を支え「退き佐久間」と称されるほどの名将・佐久間信盛が紀伊国(現・和歌山県)で、その生涯を閉じました。

 

絶頂から奈落へ、悪夢の「十九ヶ条の折檻状」

天正8年(1580年)、長年続いた「石山本願寺との戦い」が終結した直後、事件は起きた。

 

 

信長から届けられた手紙は、信盛の、これまでの怠慢や無能を痛烈に批判する「十九ヶ条の折檻状」だった。

 

 

その文は戦功の不足の件で「5年間も囲んでいて、大した成果を上げていないではないか」というお叱りのことと。

 

 

「明智光秀や羽柴秀吉の働きを見習え、息子・信栄と共に、保身ばかり考えている」と不満をぶっつけいる。

 

 

この苛烈な叱責に対し、佐久間信盛は弁明の機会も与えられず、嫡男・信栄とともに高野山へと追放されました。

 

 

 

「筆頭家老」という名の重圧

信盛は、信長が家督を継ぐ前からの宿老であり、家中では別格の存在でしたが、信長が進める「実力主義」への組織改革の中で、古参ゆえの慢心や、慎重すぎる戦い方が「停滞」とみなされたのです。

 

 

昨日までの功労者が、今日には路頭に迷う——、戦国乱世の厳しさを象徴する出来事でした。

 

 

 

熊野に消えた巨星

追放から約1年半、佐久間信盛は高野山からさらに南の熊野へと落ち延び、再起を果たすことなく病に倒れました。
享年55歳でした。

 

 

絶頂から奈落へ文が佐久間信盛の所に届いた、悪夢の「十九ヶ条の折檻状」が、 天正8年(1580年)、長年続いた石山本願寺との戦いが終結した直後、事件は起きました。

 

 

信長から届けられたのは、信盛のこれまでの怠慢や無能を痛烈に批判する19ヶ条もの折檻状でした。

 

 

おまへは「5年間も囲んでいて、大した成果を上げていないではないか」一体絶対どうなっだ「明智光秀や羽柴秀吉の働きを見習え」頑張って働いているんじゃないか。

 

 

それに「息子・信栄と共に、保身ばかり考えている」んじゃないか。

この苛烈な叱責に対し、信盛は弁明の機会も与えられず、嫡男・信栄とともに高野山へと追放されました。

 

 

「筆頭家老」という名の重圧 信盛は、信長が家督を継ぐ前からの宿老であり、家中では別格の存在でしたが、信長が進める「実力主義」への組織改革の中で、古参ゆえの慢心や、慎重すぎる戦い方が「停滞」とみなされたのです。

 

 

昨日までの功労者が、今日には路頭に迷う——。

戦国乱世の厳しさを象徴する出来事でした。

 

 

熊野に消えた巨星 追放から約1年半、佐久間信盛は高野山からさらに南の熊野へと落ち延び、再起を果たすことなく病に倒れ享年55歳で生涯を終えました。

 

 

皮肉なことに、彼が亡くなったわずか数ヶ月後、主君・信長もまた「本能寺の変」でこの世を去ることになります。

 

 

 

信長をキレさせた「折檻状」の裏側と、崩壊の予兆

信長が書いた、この手紙は単なる叱責ではなく、「これまでの人生全否定」と言えるほど容赦のないものでした。

 

 

特にキツいが全てが強烈ですが、特に信盛を絶望させたのは。

◇「お前、5年間も何してた?」石山本願寺との戦いにおいて、信盛は包囲軍の総大将なのに「知略を巡らせるわけでもなく、調略(引き抜き)をするわけでもなく、ただダラダラ過ごしただけじゃないか」

 

「明智光秀や藤吉郎(秀吉)ならとっくに終わらせている」と、「ライバルとの比較」で徹底的に貶めました。

 

それに「良い家臣を抱えようとせず、自分の金ばかり貯め込んで、古いしきたりに固執している」んじゃないかと指摘。
組織の近代化を目指す信長にとって、信盛の

な姿勢は我慢ならなかったようです。

 

 

◇「言い訳が一番ムカつく」佐久間信盛が「私は古参ですから」という態度(あるいはそう見える態度)をとったことに対し、「功績があるというなら、具体的にどこで誰を討ったのか書き出してみろ」と詰め寄っています。

 

 

織田家を襲った「信盛ショック」

筆頭家老である佐久間信盛の追放は、他の重臣たちにとって「明日は我が身」という恐怖を植え付けました。

◇とくに明智光秀の焦燥は、「あれほどの大物でも、成果が出せなければ捨てられる」という恐怖は、光秀を猛烈なワーカホリックにさせました。

 

本能寺の変の動機の一つに「将来への不安」が挙げられますが、信盛の追放はその大きな引き金になったと言われています。

 

 

◇実力至上主義への完全移行で、信盛がいなくなったことで、織田家は「血筋や古参」よりも「今の成果」を重視する軍隊に変貌しました。

 

秀吉のような新参者がスピード出世する道が開かれた一方、組織の「重石」や「ブレーキ役」がいなくなるという危うさも抱えることになります

 

 

歴史の皮肉で信長の「後悔」?

実は、信盛が亡くなった際、信長は彼の死を悼み、息子の信栄を呼び戻して罪を許してる。

 

 

信長としても、信盛という「大きな盾」を失ったことは、自身の権力構造に歪みを生じさせる結果になったのかもしれません。

 

 

もし信盛が追放されず、本能寺の変の際に大阪方面の軍権を握り続けていたら、歴史は全く違う方向に動いていたはずです。

 

 

 

こぼれ話

折檻状の最後には「どこかで手柄を立ててから戻ってこい、さもなくばどこかで討ち死にしろ」とまで書かれていました。

 

 

冷徹な信長らしいですが、同時に「背水の陣でやり直せ」という最後通牒だったとも取れます。

 

 

信盛が追放された後、その広大な領地を任されたのは、後に信長を討つことになる明智光秀や丹羽長秀たちでした。
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もしよろしければ、**「信盛に代わって出世したライバルたちの明暗」や、「信長に同じく追放された他の不運な家臣たち(林秀貞など)」**についてもご紹介しましょうか?

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織田家の聖域なきリストラ

筆頭家老・佐久間信盛の追放と、震え上がったライバルたちの明暗を見てみよう。

 

 

「次は、俺か?」天正8年、織田家の屋台骨を支えてきた筆頭家老・佐久間信盛が、わずか1通の「折檻状」で全てを失いました。

 

 

信長が進めたこの苛烈なリストラは、単なる人事異動ではありませんでした。

 

 

それは、出世頭の羽柴秀吉や明智光秀に「成果を出さねば死」という究極の恐怖を植え付け、本能寺の変へと続くカウントダウンの引き金となったのです。

 

 

佐久間信盛の「椅子」を奪った男たち:ライバルたちの明暗

信盛が統治していた広大な畿内の権益は、信長の期待に応える「動ける重臣」たちへと即座に分配されました。

 

羽柴秀吉:ライバル失脚を追い風にした「人たらし」

佐久間信盛が石山本願寺攻めで足踏みしている間、中国地方で着実に成果を上げていた秀吉。信長の折檻状には「秀吉を見習え」とまで書かれており、信盛の失脚は秀吉にとって「目の上のたんこぶ」が消えた瞬間でした。

彼はこれを機に、信長内での発言力をさらに強めていきます。

 

 

明智光秀:恐怖に支配された「過労の天才」

佐久間信盛亡き後の近畿方面の差配を任された光秀ですが、心境は複雑でした。

 

「筆頭家老ですらこうなるなら、自分もいつかは…」という強迫観念に駆られます。

 

 

実際、信盛追放の2年後、光秀は本能寺の変直前に信長から領地替え(実質的な左遷)を言い渡され、信盛と同じ絶望の淵に立たされることになります。

 

 

「古参切り」の連鎖:信盛の陰に隠れた不運な家臣たち

信長がメスを入れたのは、信盛だけではありませんでした。

同時期に、織田家の「生ける伝説」級の老臣たちが次々と追放されています。

 

 

林秀貞は織田家の最高齢・筆頭家老格。なんと「24年前に一度謀反を企てたこと」を理由に、突然追放されました。

 

 

信盛同様、実績不足と「昔の貯金で食っている」姿勢が信長の逆鱗に触れた形で、安藤守就(美濃三人衆の一人)本願寺との内通疑惑をかけられ、一族もろとも追放。有能であっても「疑わしきは罰する」という信長の冷徹さが際立ちました。

 

 

「退き佐久間」が残した、組織崩壊の教訓

組織に「ブレーキ」がいなくなった日、佐久間信盛や林秀貞といった古参は、信長に対して意見を言える数少ない存在でもありました。

 

彼らを排除したことで、織田家は「信長のイエスマン」か「成果に飢えた野心家」だけの集団に変貌します。

 

 

歯車が狂った「本能寺」への道

重臣たちの相次ぐ追放は、組織の風通しを悪くし、疑心暗鬼を生み、もし信盛が穏便に隠居し、光秀や秀吉の相談役として残っていれば、光秀が「将来の不安」から謀反を起こすことはなかったかもしれません。

 

佐久間信盛の嫡男・信栄の「第2の人生」

どん底からの逆転劇から這い上がった、息子・佐久間信栄が選んだ「第2の人生」 父・信盛が紀伊の露と消えた時、嫡男・佐久間信栄(正勝)もまた、すべてを失った放浪の身でした。

しかし、彼は父と同じ轍を踏みませんでした。

 

 

佐久間信栄にとっては、宿敵・信長の死は「奇跡のカムバック」となった。

 

 

天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が急逝。この大事件が信栄にチャンスをもたらします。

 

 

信長の次男・織田信雄が、混乱する織田家をまとめるために「旧臣の力」を必要としたのです。

 

 

信栄は呼び戻され、再び織田家の家臣として復帰を果たします。

父を追い出した組織に、父の死からわずか数ヶ月で返り咲くという、凄まじい切り替えの早さを見せました。

武力ではなく「教養」を武器にする

信栄が賢かったのは、父が信長に「無風流(センスがない)」と批判されたことを反省し、茶の湯や和歌に没頭したことです。

 

 

茶人「不干としての名声を取得した佐久間信栄は、千利休らと交流し、一流の文化人としての地位を確立しました。

 

 

これにより、時の権力者・豊臣秀吉からも一目置かれる存在になります。
秀吉の御伽衆(話し相手・アドバイザー)として仕え、かつての「追放者」というレッテルを「文化の指導者」というブランドに塗り替えました。

 

 

徳川幕府で「勝ち組」へ:80年の生涯を全う

豊臣政権が揺らぐと、今度は徳川家康に接近します。

江戸幕府が開かれると、信栄は旗本として召し抱えられ、佐久間家を幕府の直臣として存続させることに成功しました。

 

 

戦国乱世を生き抜き、寛永8年(1631年)に約80歳という、当時としては驚異的な長寿で大往生を遂げました。

 

 

佐久間親子が残した「教訓」は、父・佐久間信盛は過去の成功体験(古参のプライド)に固執し、変化する組織(信長)に対応できず脱落した。

 

 

息子・信栄は、組織が壊れた瞬間に執着を捨て、新しいスキル(茶の湯・教養)を身につけて別の土俵で生き残った。

 

 

佐久間信盛の追放は悲劇でしたが、その血筋は「変化に対応する力」を持って江戸時代へと繋がりました。

筆頭家老という肩書きを捨ててでも生き残る。

これこそが本当の「強さ」なのかもしれません。

 

 

 

まとめ

歴史の教訓としては、佐久間信盛の最期は、現代のビジネスマンにとっても他人事ではありません。

 

 

「過去の栄光」が通用しなくなったとき、組織のリーダーはどう振る舞うべきか。信長のやり方は効率的でしたが、同時に「忠誠心」という目に見えない絆を断ち切ってしまったのです。

 

 

信盛の追放が、単なる一人の没落ではなく、織田家全体の「終わりの始まり」だったという側面が見えてきます。

 

 

佐久間親子が残した「教訓」として、父・佐久間信盛は、過去の成功体験(古参のプライド)に固執し、変化する組織(信長)に対応できず脱落しましたが、息子・佐久間信栄は、組織が壊れた瞬間に執着を捨て、新しいスキル(茶の湯・教養)を身につけて別の土俵で生き残った。

 

 

 

-リストラ

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。