
信長にとっての「美濃攻略」がいかに執念のプロジェクトだったか、そして犬山城が、なぜ「数奇な運命」※1と言われるのか?
※1.ここで言われる数奇の運命とは、下記の※1をご覧になってくださ。
永禄7年(1564年)、織田信長は天下への扉をこじ開けるべく、身内が守る「犬山城」へと牙を向いた。
立ちはだかるのは信長の従兄弟の織田信清、そして城内に囚われた信長の姉(妹の可能性がある)・犬山殿※2がいる。
※2.犬山殿の救出とは、織田信清の妻となった姉「犬山殿」の苦悩は、信長の姉(一説には妹とも)である犬山殿は、政略結婚で犬山城主・織田信清に嫁ぎました。
弟(信長)と夫(信清)が激しく対立する中、彼女は犬山城の中で「織田家の人」として、そして「信清の妻」として、非常に苦しい立場に置かれ、板挟み状態です。
信長は敵対する身内には容赦ない男でしたが、この姉に対してだけは、攻め落とす直前まで「戻ってこい」というメッセージを送り続けていたと言われています。
秀吉・秀長による「救出劇」として、犬山城が落城する際、織田信清は美濃へ逃亡しますが、犬山殿は城に取り残されます(あるいは信長に引き渡されます)。
ここで動いたのが秀吉・秀長兄弟です。
秀吉の気遣いは、乱軍の中で姉が傷つかないよう、秀吉は細心の注意を払って彼女を保護しました。
姉(妹かも)に対し信長の意外な優しさを見せた、城を枕に討ち死にさせることもできたはずですが、信長は彼女を自分の本拠地へ迎え入れ、非常に手厚く保護しました。
その後の人生は、彼女は織田一族として大切にされ、信長の死後も生き抜きました。
彼女が産んだ娘(信長の姪)は、後に徳川家康の重臣に嫁ぐなど、織田の血筋を後世に繋ぐ重要な役割を果たします。
美濃攻略の「布石」として落城を余儀なくされた、この犬山城には、今も解き放たれない数奇な運命が刻まれている。
のちに天下を分かつ豊臣秀吉・秀長兄弟は、この「身内同士の泥沼劇」をいかにして勝利へと導いたのか?
美濃攻略の喉元だった犬山城
織田信長が天下への第一歩として掲げた「美濃」(岐阜)攻略です。
その最大の障壁は、斎藤龍興が守る稲葉山城(現・岐阜城)でした。
何故かと言うと、地理的価値から見ると、犬山城は木曽川のほとりに位置し、尾張国と美濃国の国境に聳える天然の要塞だからです。
ここを制することは、美濃への補給路や侵攻ルートを確保することを意味しました。
犬山城は、信長の叔父の織田信康(信長の父・信秀と兄弟)が天文6年(1537年)に築城したと伝えられています(天守の創建は後世に改築)。
天文16年(1547年)に信長の父・織田信秀が美濃の斉藤道三を攻め(稲葉山城攻め)に出陣した織田信康が死去し、その子織田信清が跡を継ぎ城主となった。
その従兄弟である犬山城主・織田信清と組んで永禄2年(1559年)に織田信賢の岩倉城を攻めたときには信長に協力したが、戦後の所領配分で対立した。
そのため織田信清は美濃の斎藤龍興と結び、信長の背後を脅かす存在となり、犬山城は木曽川の断崖に建つ要塞で軍事・物流の要めで、織田信清は犬山城を本拠とした。
支城の小口城(現・愛知館大口町)や黒田城(現・一宮市)が木曽川一帯を掌握し、信長はこの犬山城を攻略しない限り美濃への進軍は不可能となったが、信長にとっては身内で、ましては姉(妹か)の嫁ぎ先の夫が敵の最前線を守っているという極めて厄介な状況でした。
犬山城攻略の支城の切り崩し
信長が力で圧倒しようとする一方で、木下藤吉郎と小一郎が支城の切り崩しでした。
⚫︎犬山城を守っている四つの支城
本城である犬山城を孤立させるために狙った4城の城主たち。
◇伊木山城の城主は、伊木忠次 / 木曽川の対岸に位置。秀吉の説得により降伏し、後に秀吉の家臣と知りました。
◇小口城の城主は、中島豊後守 / 犬山の南の守りで、ここが落ちたことで犬山城は完全に孤立しました。
◇黒田城の城主は、和田定利 / 山内一豊の父も関わった城。調略により信長側へ寝返りました。
◇新川城の城主は岡田重文 / 織田信清(信長の従兄弟、犬山城主)の有力な家臣でしたが離反。
秀吉・秀長兄弟の役割分担
具体的にどのように「人たらし」と「足場固め」が行われたのか?
◇兄・秀吉の「人たらし」秀吉は、敵の城主たちに対して「いま信長様に味方すれば、領地を安堵(保証)し、出世の道も開ける」と熱っぽく未来を語りました。
特に、伊木山城の伊木忠次などは、秀吉の器量に惚れ込み、そのまま秀吉の直属の部下(後の家老クラス)になるほどの鮮やかなヘッドハンティングを見せました。
◇弟・秀長は「緻密な足場固め」をした。
秀吉が調略に走っている間、秀長は以下の実務を完璧にこなしました。
情報の精査として、どの城主が織田信清(犬山城主)に不満を持っているか、事前に徹底調査した。
補給路の遮断:調略が不成立だった場合に備え、城を干上がらせるための兵糧ルートを封鎖。
寝返り後のケア:信長に寝返った城主たちが、後で信長から「裏切り者」として罰せられないよう、法的な取り成しや人質交換の調整を担当。
この結果、何が起きたか?
周辺の支城が次々と織田信長側に寝返ったことで、本城である犬山城主・織田信清は「朝起きたら、味方が一人もいなくなっていた」という絶望的な状況に追い込まれてしまった。
※1.これが、タイトルにも入れた「数奇な運命」の始まりです。
力攻めであれば名誉の戦死もあり得ましたが、身内に外堀を埋められ、戦う前に負けた織田信清は、城を捨てて逃亡するしかなかったのです。
秀吉が前線で派手に城主を説得し、その裏で秀長が「兄貴、あの城主は金に困っています」「こっちは子供を人質に取れば落ちます」と冷静にアドバイスするような、静と動のコンビネーションが見られるはずです。
この攻略後に秀吉の配下となった「伊木忠次」が、のちに豊臣政権でどう活躍したかをお話ししましょうか?
秀吉が見出した最高の実務家「伊木忠次」
伊木山城を明け渡し、秀吉の配下となった伊木忠次は、単なる「降将」では終わりませんでした。
秀吉・秀長とのトリオとなり、伊木忠次は、秀吉の「情熱」と秀長の「調整力」に伊木忠次の「事務・法務のプロ」としての能力を加えました。
伊木忠次は、秀吉の甥である豊臣秀次の家老となり、豊臣秀次が統治した近江八幡(滋賀県)の町づくりや、複雑な検地(土地調査)の実務を取り仕切ったのは彼だと言われています。
秀長との共通点は、伊木忠次も豊臣秀長と同じく、決して前に出すぎず、組織が円滑に回るように裏方に徹するタイプでした。
秀長の良き理解者、あるいはライバル的な相棒として描かれるかもしれませんね。
信長が突きつけた難題「美濃を孤立させよ」
犬山城を落とした信長は、秀吉兄弟に休む暇も与えず、更なる「無理難題」を命じ、それが「墨俣への砦築城」の難題です。
織田信長は木曽川を渡り、敵地のど真ん中である墨俣に砦を築くよう命じます。
多くの重臣が失敗する中、名乗りを上げたのが秀吉です。
秀長の実務力として、秀吉が現場で指揮を執る間、秀長は上流から材木を流す段取りや、職人の手配を完璧に行い、「一晩で城を完成させた」と言われています。
それには「美濃三人衆」の調略
「美濃三人衆の切り崩し」です。
秀吉・秀長は、斎藤氏を支えていた最強の三武将(稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全)に「信長様についた方が得ですよ」と調略を仕掛けます。
これが決定打となり、難攻不落だった稲葉山城はついに陥落しました。
墨俣一夜城の「絶望的ミッション」
犬山を制したことで木曽川のコントロールを得ましたが、対岸は依然として敵地。
難題は敵軍が押し寄せる川べりに、攻撃を防ぐ拠点を築けるか、秀吉・秀長の策は、秀長が上流で木材を加工し、川を使って一気に流し込む「プレハブ方式」を採用します。
これが伝説の「一夜城」へと繋がります。
美濃の心臓部をえぐる「美濃三人衆」への工作
信長は武力で美濃を潰すのではなく「斎藤龍興を見捨てさせる」という最も残酷で確実な方法を選び、斉藤龍興に仕えていた有力国人、稲葉良通(一鉄)、安藤守就、氏家直元(卜全)の3人です。
その家族構成や主君・斉藤龍興の不満度を徹底調べ、武力で脅すのではなく「信長様の下につけば、貴殿の家は安泰だ」と相手の家名を守る論理で説得を続け調略した。
美濃侵攻に関して、永禄10年(1567年)に揃って内応して織田氏の美濃平定に貢献し、その後は織田家の武将として各地を転戦した。
美濃三人衆の概要
稲葉良通(一鉄)、安藤守就、氏家直元(卜全)は、美濃国の西部を支配していた国人領主で、斎藤氏の重臣として「西美濃三人衆」とも呼ばれました。
永禄10年(1567年)、斎藤龍興を見限って織田信長へ寝返り、信長の稲葉山城攻めの勝利を決定づけました。
その後の展開: 信長の下で活躍し、三人衆の協力が信長の美濃支配を確実なものにしました。
しかし、天正8年(1580年)に安藤守就は信長への寝返り画策した一人、最終的に信長が叛意※3ありとして追放・殺害された。
※3.叛意(はんい)とは、主君、国家、組織、あるいはルールや命令に対して「背こうとする意思」や「謀叛」の心」を意味する言葉です。反抗、裏切り、謀反を起こそうする心構えや意図を挿し、類語には叛心や叛逆があります。
氏家直元(卜全)は、3人の中で最も早く、元亀2年(1571年)伊勢長島の一向一揆の戦いで討死、信長からは早期から高く評価されていました。
あとの二人、稲葉一鉄(良通): 3人の中で最も長生きし、機転の利く策士として知られました。
彼らの寝返りは、美濃における織田政権の確立における重要な歴史的転換点でした。
「犬山城」が残した教訓
犬山城の戦いは、秀吉・秀長兄弟にとって「戦わずして勝つ仕組み」を学んだ最高の教科書でした。
教訓として、強い敵でも、周囲の「支城」を切り崩せば、本丸は自ずと崩壊する。
その後の応用としては、この時に学んだ手法は、後の「小田原征伐」や「四国・九州平定」でも、秀吉と秀長の黄金コンビによって遺憾なく発揮されることになります。
まとめ
犬山城を落とし、信長の姉を救い、そして伊木忠次のような優秀な人材を得たことで、秀吉軍団は単なる「信長の一部隊」から、「天下を狙えるプロフェッショナル集団」へと脱皮していきます。
この犬山城を巡る攻防戦は、地味ながらも「のちの豊臣政権の原型」が作られた瞬間だと言えます。