信長は氏郷の「猛将」としての器量を高く評価し、初陣以降、自身の名で元服させ主要な合戦に従事させてます。
※1.非凡(ひぼん)とは、一般の人より、ずっと優れていること。
「魔王」と恐れられた織田信長が、なぜ弱冠13歳の少年、鶴千代(後の氏郷)に目を留め、自らの「愛弟子」として英才教育を施したのでしょうか。
そこには、単なる主従を超えた深い信頼関係と、戦国時代のパワーバランスを揺るがす壮大な期待があったと思われます。
信長亡き後、秀吉をも戦慄させた蒲生氏郷の知略と、40歳という若さで散った悲劇の最期。
▲蒲生氏郷
「信長との関係」を軸に、稀代のキリシタン大名が駆け抜けた熱き生涯の謎に迫ります。
蒲生氏郷という人物
生誕は弘治2年(1556年)・没は文禄4年2月7日(1595年3月17日)、幼名は鶴千代→賦秀または教秀(初名)。
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将です。
父は蒲生賢秀の三男で嫡男・蒲生氏郷、初名は賦秀(やすひで)または教秀(のりひで)で後にキリシタン大名で、洗礼名はレオン(レオ、またはレアン)。
永禄11年(1568年)、蒲生賢秀は六角義賢と共に織田信長軍と戦い(観音寺城の戦い)では、父・蒲生賢秀は柴田勝家と蜂屋頼隆等に攻められるが日野城に籠城して抵抗していたが、父の妹が織田家の武将・神戸友盛の妻になっていたので日野城に乗り込んできて説得されて降伏した。
その結果、嫡男・鶴千代13歳(後の蒲生氏郷)を人質として差し出し柴田勝家の与力となった六角家は没落。
信長に可愛がられた蒲生氏郷
人質ながらも信長に寵愛され、若くして才能を見出され13歳で父・賢秀と共に信長に臣従し岐阜城で人質となった。
また、翌年には、信長は自ら蒲生氏郷(当時は忠三郎)の元服の烏帽子親を務め、氏郷を信頼し、信長の次女・冬姫を嫁がせ将来嫡男・信忠の相談相手にしたかったのか。
信長は、氏郷を猛将として育成し姉川の戦いや長篠の戦いなど、織田軍の主要な合戦に従軍させ武功を挙げさせた。
信長が明智光秀に討たれた本能寺の変後、氏郷は信長の妻子をいち早く自身の居城・日野城に隠蔽・保護しその忠誠を示したと言われます。
各地で功績を挙げ秀吉からも重要視され、最終的には会津藩92万石なり黒川城を与えられ、改築して若松城と名を改め会津藩の基礎を築いた。
また、千利休の弟子であり、利休七哲※2にも数えられる一流の茶人でもありました。
※2.利休七哲とは、呼称としては「利休七人衆」というのが古い。
「七人衆」として前田利長(加賀の肥前)・蒲生氏郷・細川忠興(三斎)・古田重然(織部)・牧村兵部・高山南坊(右近)・芝山監物の7人です。
これは千宗旦(利休の孫)が話したもの。
宗旦の子、江岑宗左(逢源斎、表千家四世)が寛文3年(1663年)「夏に執筆した『江岑夏書』に「利休弟子衆七人衆」として、この七人のうち前田利長を外し、瀬田掃部に入れ替えられている。
蒲生氏郷公の生まれた町日野
蒲生氏郷(幼名鶴千代)は、蒲生賢秀の長男として、弘治2年(1556年)に中野城で生まれたと伝えられます。
やがて織田信長の上洛が始まると、蒲生家も信長に臣従し、鶴千代は人質として岐阜に送られました。
永禄12年(1569年)、元服して名を「忠三郎賦秀」と改めた氏郷は、翌年の初陣で功績を挙げ、冬に信長の娘と結婚し日野へ帰国を許されたとされます。
それ以後、父・賢秀とともに織田家の家臣として功績を重ねる中、天正10年(1582年)、本能寺の変が起こりました。
この際、二の丸御番衆として安土城を守っていた賢秀は、明智光秀の誘いに応じず氏郷を呼び寄せて信長の妻子を日野へ保護しました。
こののち、賢秀に替わり氏郷が日野を治めたと考えられます。
豊臣秀吉との関係
氏郷は、義理の父・信長の死後は羽柴秀吉に属して、「賤ヶ岳の合戦」や「小牧長久手の合戦」で功績を挙げた結果、伊勢松ヶ島12万石へ転封となりました。
秀吉は、天正13年(1585年)に、藤原氏(近衛前久の養子となった形)を称して関白に就任した。
蒲生氏郷は同年天正13年に高山右近の勧めなどによりキリシタンに洗礼受けています。
羽柴秀吉が豊臣秀吉の姓を正親町天皇から本姓を賜ったのは、天正14年(1586年)12月19日(旧暦)、同日に太政大臣に就任したことで、名実共に天下人としての地位を確立した。
姓の変更は天正14年(1586年)に、羽柴から豊臣へと改姓。
その後、氏郷は松坂城の築城や城下の整備を進めると共に、天正15年(1587年)の九州攻め、天正18年(1590年)の小田原攻めなど大きな合戦で功績を重ねた会津42万石へと加増されました。
奥州に移った氏郷は、領国の経営だけではなく、奥羽における秀吉の名代としての役割も果たし、九戸の乱の際には、豊臣軍総勢6万余の総大将として出陣しました。
戦後、その功績により、天正19年(1591年)には73万4千石、文禄3年(1,594年)には91万9320石を領することとなり、徳川家康、毛利輝元に次ぐ大大名になりました。
また、文禄元年から黒川城の大改修を行い、名前を故郷日野の「若松の森」日なんで「会津若松」と改めろとともに城下の整備を行った。
秀吉が最も恐れた蒲生氏郷
豊臣秀吉は氏郷の才能を高く評価していましたが、同時に、その野心(天下人の器)を誰よりも警戒していました。
そのため、会津への左遷に近い加増をし小田原征伐の後、伊勢松坂から会津へと移封、これは実質「徳川家康の監視」と「中央政治からの隔離」を意味していました。
こんな逸話話、秀吉は、ある時氏郷に「家康の次に天下を取る者は誰か?」と問うたとき、「それは蒲生氏郷だ」と答えたという。
氏郷が会津へ発つ際、秀吉は氏郷の後ろ姿を見送りながら「恐ろしい男を遠くへやったものだ」と漏らしたとも伝えられています。
氏郷の兜・銀鯰尾と先陣の美学
氏郷は「知将」のイメージが強いですが、戦場では狂気を感じさせる程の猛将でした。
家臣の心をつかむ術を身につけていて、新しい家臣を召し抱える際、「わしの軍には、銀の鯰尾の兜を被って先頭を走る者がいる。
その後ろをついてくれば手柄が立てられるぞ」と教えました。
いざ戦場へ出ると、その兜を被っていたのは主君・氏郷本人だったというエピソードは有名です。
また、誠悦部隊の育成にも力をいれ、彼の家臣団「蒲生二十四将」は氏郷の背中を見て育った猛者揃いでした。
若すぎた蒲生氏郷の死
隆盛を極めると思われた氏郷でしたが、朝鮮出兵のために駐屯していた肥前名護屋において発病した。
文禄元年(1592年)に文禄の役が勃発すると、氏郷は肥前名護屋(現・佐賀県唐津市)に出陣したが、急に体調が悪くなり、翌年11月には会津へ帰国した。
文禄3年(1594年)、氏郷は京都で医師の曲直瀬玄朔による治療を受けたが、治ることはなかった。
※.上記の曲直瀬玄朔をクイリックして頂くと詳しい記事があります。興味ある方は読んでください、</strong
翌年2月7日、氏郷は京都伏見(京都市伏見区)の自邸で亡くなったのである。
諸記録を見ると、氏郷が病気で亡くなったのは明確だが、かねて秀吉あるいは三成が毒殺したとの説がまことしやかに伝わった。
氏郷の一代記、『氏郷記』には、文禄4年(1595年)に三成が秀吉と共謀し、氏郷に毒を盛って死に至らしめたと書かれている。
しかし、後世に成った『氏郷記』は内容に脚色が多く、史料の質としては劣るといわれている。
また、当時の三成は朝鮮に在陣していたので、氏郷に毒を盛るのが不可能だったので、現在では否定された説である。
三成が氏郷を毒殺したという説は、『石田軍記』、『蒲生盛衰記』などにも書かれており、中には三成が直江兼続(上杉景勝の家臣)と共謀して行ったと記されているものもある。
『石田軍記』、『蒲生盛衰記』も『氏郷記』と同じく後世に成ったもので、内容に不審な点が多く信用することができない。
氏郷が病気になった際、秀吉は医師を手配して治療を行わせた。
治療をしたのは曲直瀬玄朔のほか、施薬院全宗や一鷗軒宗虎などの名医が交代で行ったという。
曲直瀬玄朔の残した『医学天正記』によると、氏郷の死因は直腸癌、肝臓癌あるいは肝硬変ではないかとされている。
ただし、当時の医療技術で病名を特定するのは難しく、あくまで推測の域を出ないことに注意すべきだろう。
氏郷の死因は病死とするのが妥当であり、それは複数の良質の史料で裏付けられるので、特段疑うべき理由はないと考えられる。
逆に、秀吉や三成による毒殺は信頼度の低い史料に書かれたものなので、現時点では信が置けず否定されている。
辞世の句は「限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風」で、遺体は京都大徳寺に埋葬され、後日、昌林院という塔頭が建立されました。
また遺髪は、会津興徳寺のほか日野の信楽院にも送られ供養されることとなりました。
文禄4年2月7日に享年40歳の若さで死去しました。