美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

最初に仕えた松下之綱

豊臣兄弟の恩人・松下之綱とは?猿と呼ばれた秀吉を救った主君の正体

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大河ドラマ『豊臣兄弟』で、藤吉郎がいきなり尾張の中村の実家へ帰って来て小一郎を連れて織田信長の館に連れて行った?

ドラマが始まりますが、そんなバカなことはないですよね。


物語は順を追って説明してほしいものです。


藤吉郎は母・仲が再婚したが藤吉郎とは竹阿弥と折り合いが悪く家出して諸国を巡り歩いていたとき、藤吉郎は何の縁があってか、松下之綱と出会ったか分かりませんが、松下之綱は、若い頃の豊臣秀吉が15歳の時、最初に仕えた遠江国頭陀寺城(現・浜松市)の城主で、松下加兵衛の名でも知られます。


大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、まだ無名だった秀吉の才覚を見抜き、恩人として描写される重要な人物です。

 

松下之綱藤吉郎の関わりは、信長に仕える前「人かと思えば猿、猿かと思えば人なり」と言った人物とされています。

 

 

当時は、今川家に属していた頭陀寺城主(遠江)だった松下加兵衛之綱、秀吉の尾張中村からは遠江は随分と距離がある。

そんな二人がどうして知り合ったのか?

 

 

『名将言行録』では、中村を家出した藤吉郎が針売りをしながら旅をしていた際、天文6年(1537年)生まれの同じ年の松下之綱と出会い、その機知※1に富んだ受け答えが気に入られて仕えたとされます。

※1.機知(きち)とは、その場その場の状況に応じて、とっさに働く鋭い才知や機転のことです。

会話や対応における「機知に富む」の表現は、相手を感心させたり、場を和ませたりする知的なセンスを指します。

そんな衝撃的な出会いから始まった二人の関係は、単なる主従を超えた「師弟の絆」で結ばれていました。

 

 

 

秀吉を見出した「最初の主君」松下之綱

松下之綱は、天文6年(1537年)松下長則の子として三河国碧海郡松下郷(現・豊田市)で生まれました。

        ▲松下之綱

幼名は佐助、元服して通称を加兵衛、また官途名(私称の官職)を兵部としています。

 

 

父・長則兵法家で槍の名手だったことから、その薫陶※2を受けたことでしょう。

※2.薫陶(くんとう)とは、優れた人格で感化し、立派な人間つくること。

弟には松下則綱・継綱がいた。

 

 

松下家今川家臣の飯尾氏寄子※3として仕え、やがて遠江国頭陀寺城(現・浜松市)を与えられ城主務めましたが、正確な時期は不明ですが藤吉郎は松下之綱が城主時代に仕えたようです。

※3.寄子(よりこ)とは、中世日本(特に戦国時代)において、有力武士(寄親※4:よりおや)の指揮下に入り、擬制的な親子関係を結んで軍事行動や統治の単位となった被保護者のこと。

戦国大名が家臣団を組織・統率するために用いた「寄親・寄子制」における「子」の側であり、与力や同心とも呼ばれた。

※4.寄親(よりおや)とは、戦国位時代に大名が家臣団を統制するために設けた擬制的な親子関係(寄親・寄子制)において、指摘・保護する側の有力武将の事です。

土地の土豪や下級武士(寄子)を組織化して軍事・行政の基本単位として機能させました。

 

 

若き日の豊臣秀吉(木下藤吉郎)足軽として召し抱え、その才能を最初に見出した遠江国頭陀寺城(現・浜松市)の城主だった松下之綱か父・松下長則です。

 

 

別説では之綱の父・長則だったかもしれません。

或いは長則から藤吉郎「之綱に仕えるよう」命じられたのか?

 

 

ともあれ、松下家に奉公した藤吉郎は、家中で才覚を発揮していきます。

 

 

利発で熱心な藤吉郎を之綱は可愛がり、また兵法と槍術を指導したそうです。

 

 

しかし、「出る杭は打たれる」という通り、周囲の嫉妬が集まって、松下之綱藤吉郎に暇を出し主従は別れることになった。

 

 

のちに天下人となった秀吉から格別の信頼を受け、恩返しとして大名(遠江久野藩1万6000石)に引き立てられたことで知られる人物です。

 

 

遠江での衝撃な出会い「人か猿か」

小瀬甫庵の『太閤記』などに描かれたエピソードですが、歴史的な真実かと言われると疑問が残る物語の可能性が高いです。

 

 

当時の秀吉が猿のような風貌だったという描写は複数の伝記に見られますが、この具体的な「人か猿か」というセリフは物語としての演出である可能性が高いです。

 

 

伝記『太閤記』によると、出会った際、松下之綱「人かと思うと猿、猿かと見ると人である」と感じた、と記述されています。

 

 

このエピソードは、後の天下人となる秀吉の若き日の放浪と、その後の劇的な出世を描くための魅力的なエピソードとして定着したものです。

 

 

武士のイロハを教えた師匠

『太閤記』では、若き日の藤吉郎に武芸・学問・兵法を教えたのは松下之綱だとされています。

 

 

正直、薩摩守※6はこれに懐疑的なのだが、秀吉(藤吉郎)の之綱への「量より質」※5的な報い方をみると若き藤吉郎に貴重な経験を積ませた。

と云う設定が生まれたこと自体は納得が出来るのである。

※5.量より質的な報いと言ったのは、藤吉郎が之綱(おそらく細川之綱などの歴史的背景)に対し、一時的な利益や物量ではなく、長期的・本質的な価値(人脈・教訓・信頼など)を重視して報いたこと。

※6.薩摩守とは、おそらく島津氏関連の人物の視点を述べたものと推測されます。

 

晩年、秀吉は諸大名が自分に従うのは「利」で、「忠義」ではないとしていた。

 

元は敵対関係にあり、武力で屈服させられた外様大名はそうだったことになるだろう。

 

 

だが、子飼い(加藤清正・福島正規など)、近江派(石田三成・大谷吉継など)の様に若き日の絆から損得度外視で秀吉に忠義を尽くした者は少なくなかっただろうし、松下之綱の様な旧恩から生まれた絆もちゃんと存在している事はしっかりと注注目したい次第です。

 

 

 

天下人・秀吉からの恩返し!異例すぎる「格別の扱い」

豊臣秀吉が織田信長に仕える前、遠江国浜松の頭陀寺城主・松下之綱(加兵衛)に仕えていた頃の恩を忘れず、天下統一後に異例の厚遇を与えた話は有名である。

 

 

浪人同然だった秀吉を召し抱え、兵法を教えた恩人に対し、天下統一を果たした秀吉は、松下之綱に対して「自分が仕えていた時の恩に報いるため」に16,000石の領地を与え、遠江久野城主としました。

 

 

そもそも藤吉郎は松下家に仕えていたのか?

秀吉の伝記として有名なのは、江戸時代に書かれた小瀬甫庵の『太閤記』です。

 

 

秀吉が確実な史料に登場するのは、永禄7年(1564年)の28歳の時であり、それ以前の若き日の記録は「伝説」「逸話」に近いと言わざるを得ません。

 

 

一方で、言論界の重鎮だった徳富蘇峰は『近世日本国民史 豊臣秀吉・秀吉の素生《二》』において、「秀吉の放浪生活については、当人以外何人も知る者はない、多くの異説中に、ただ秀吉が遠江に赴き、松下氏に仕えたる一事だけはいずれも認めている」。

 

 

当時の頭陀寺城付近は、天竜川(総別川)が流れ込む「浜松の重要な港町」だったと考えられます。

 

 

『太閤素生記』では、秀吉が針売りをしながら今川家への仕官を目指して浜松に来たところで之綱に拾われたことになっています。

 

 

多くの商人で賑わう港町に、針売り秀吉がやってきた可能性は十分考えられます。

 

 

この時の秀吉の風貌について、『太閤秀吉公出生記』は、次のように表現しています。

「異形の者である。人かと思うと猿、猿かと見ると人である」。

 

 

 

松下家と藤吉郎(秀吉)に事績

松下家は宇多源氏佐々木氏の庶流とされ、当初は西条姓を名乗っていたようです。

 

松下姓を最初に名乗ったのは松下壱岐守高長で、『寛政重修諸家譜』には、移り住んだ土地の名前を姓にしたことが分記されています。

「壱岐九郎、左衛門尉、出雲守西条壱岐三郎氏綱が男。

母は二階堂義賢が女、はじめ遠江国笠原庄平河郷に居住し、また三河国松下にうつり住す『寛政重修諸家譜』より。

 

 

松下家が遠江浜松の頭陀寺へ住むようになったのは、松下之綱の父である松下長則の代からです。

 

 

長則は槍術をもって諸国をめぐり、今川義元に仕えるようになったといいます。

 

 

このタイミングで三河から今川領の遠江浜松へ移住してきたのでしょう。

 

 

当時、浜松を治めていた国人領主・飯尾氏(引間城主)の寄子として、長則は頭陀寺に城を構えたと推測されます。

 

 

そして天文20年(1551年)、松下家に藤吉郎(秀吉)がやってきます。

 

 

この時、秀吉と之綱は14歳(実は同い年!)であり、父・長則は40歳です。

 

 

年齢的にみて松下長則が当主だったことは間違いないでしょう。

 

 

秀吉は松下家に3年間仕えた後、ここを離れ、17歳で織田信長に仕えます。

 

 

その後、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、遠江国人領主による今川家への反乱「遠州忩劇」が起こり、頭陀寺城は焼失し、のちに松下家は頭陀寺城跡に屋敷(松下屋敷)を構えます。

 

 

永禄11年(1568年)、徳川家康による遠江侵攻の際、松下家は徳川の傘下に入ります『浜松御在城記』。

 

 

引間の家臣※7はいうに及ばず、堀江の大沢左衛門、高薗の浅原、頭陀寺村の松下加兵衛之綱、群参出仕。

※7.引間の家臣とは、引間の家臣(引間城主・城代)は、主に今川氏(駿河・遠江)の家臣です。

戦国時代初期は斯波氏の配下でしたが、その後、今川氏親が引間城を攻略し、今川氏の支配拠点となりました。
その後、永禄11年(1568年)に徳川家康が攻め落とし、家康の城となった後に浜松城へ改称されました。

 

この時の松下家当主は既に息子の松下之綱に代わっていたことが分かります。

 

 

之綱はその後、頭陀寺の松下屋敷を息子の松下暁綱に託し、自らは浜松城下の下垂(この時期、下級武士が多く住んでいた地域)に屋敷を構えます。

 

 

しかし、領地はわずか三十貫なので、どちらかといえば冷遇されていたようです。

 

 

天正2年(1574年)の第一次高天神城の戦いで、徳川軍の籠城側に松下加兵衛の名が見えますが、高天神城が武田軍に落とされると、之綱は秀吉のもとへ行ったと考えられます。

 

 

なぜなら、翌3年の長篠の戦いの陣立図には、「秀吉の配下」として「松下かへえ、兵一〇〇〇とあるからです。

 

 

松下之綱はこの陣立図で秀吉の親衛隊に配備されているので、秀吉から既に信頼を得ていたことが見て取れます。

 

 

天正11年(1582年)には丹波国に三千石の領地を与えられ、秀吉の天下統一後の天正18年(1590年)10月には、松下之綱は16,000石の大名として遠州久野城主となり、秀吉の「恩返し」が果たされました。

 

 

この後の松下家について簡記すると、大名松下家を継いだ之綱の長男・松下重綱は最終的に陸奥国の二本松城主として五万石の大名になっています。

 

 

しかし、その子である長綱の時に「乱心」を理由に大名松下家は改易となっています。

 

 

一方で、松下屋敷の松下暁綱とその子孫は明治までここに住んでいたそうです。

 

 

また、松下之綱の娘・3女は柳生但馬守宗矩の妻となり、剣の達人で有名な柳生十兵衛三厳を産んでいます。

 

 

 

-最初に仕えた松下之綱

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。