美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

残酷になった秀吉

『人たらし』の失敗。なぜ秀吉は上月城で婦女子を串刺しにし、別所長治に裏切られたのか?

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 「人たらし」の笑顔に隠された、戦慄の狂気――。

豊臣秀吉といえば、あなたの中にどんなイメージが浮かぶでしょうか?

「農民から天下人へ上り詰めた、戦国一の出世頭」 「いつも笑顔を絶やさず、敵の心すら掴んでしまう『人たらし』の天才」 「城を水に沈め、あるいは兵糧を攻め、極力血を流さずに勝利を収める知将」確かにそれらは、教科書が教える秀吉の輝かしい一面です。

 

 

しかし、私たちが知る「陽気なヒーロー」の姿は、秀吉が持つ多面性のほんの一部に過ぎません。

その笑顔の裏には、歴史の闇に葬り去られた「おぞましいもう一つの顔」が存在していました。

 

 

舞台は天正5年(1577年)の、秀吉の中国攻めの最前線となった播磨(現・兵庫県)・上月城の戦いでは、激戦の末に城を落とした秀吉が、生き残った籠城者たちに下した命令は、戦国期でも類を見ないほど残虐な処刑でした。

 

 

 

「女性はすべて磔に、幼い子供たちは生きたまま串刺しにせよ」国境にずらりと晒された、女子供の無惨な遺体でした。

これこそが、若き日の秀吉が演出した地獄絵図でした。

 

 

なぜ、のちの天下人はこれほどまでに冷酷な狂気を振るわなければならなかったのか? 笑顔の天才が「悪魔」に変わった、知られざる戦国の真実に迫ります。

 

 

 

 

織田毛利!最前線上月城を巡る圧倒的格差

天正5年(1577年)。

事件の舞台となったのは、現在の兵庫県佐用町に位置する「上月城」で起きた事件です。

 

 

当時の日本は、天下統一へ突き進む織田信長と、中国地方を支配する巨大勢力・毛利輝元という二大巨頭が激突しようとする、緊迫した大戦前夜にありました。

 

 

この毛利討伐(中国平定)の総大将に任命されたのが、ほかでもない羽柴秀吉です。

 

 

信長の期待を背負った秀吉は、毛利へと繋がる大ルートである播磨(現・兵庫県南西部)へと乗り込み播磨を制圧しなければ、毛利の本拠地へ攻め入ることはできません。

 

 

そして、その播磨国と毛利側の領国(備前・美作)のちょうど国境に位置し、毛利方の最前線基地として織田軍の前に立ちはだかったのが上月城でした。

 

 

 

上月城城主・赤松政範

上月城は、兵庫県佐用郡佐用町(旧上月町)にある日本の城(山城)。

延元元年(1336年)、赤松氏の一族・上月景盛によって築かれ、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱により、赤松満祐に加担した上月景則やその甥・上月景家らが幕府軍の追討を受け、上月氏の嫡流は滅亡しました。

 

 

以後、山名氏・赤松氏の攻防が繰り広げられ、弘治3年(1557年)、赤松氏から一門の赤松政元が置塩城から入城し、その子・赤松政範は、佐用・赤穂・揖東・揖西・宍粟の五郡を領し、「西播磨殿」と呼ばれたが、天正5年(1577年)、織田信長の武将羽柴秀吉の攻撃を受け、落城した。

 

 

その後は宇喜多直家に属していた上月景貞が入城するも同じく秀吉の攻撃と配下の江原親次の謀反によって落城し、尼子勝久ら尼子党が入った。

 

 

翌天正6年(1578年)、毛利輝元が率いる大軍に囲まれ、救援の羽柴秀吉も三木城攻略のため撤退、孤立した尼子勝久は毛利氏に降服し自害した。

 

 

この時、山中幸盛(鹿介)も捕らえられ備後国鞆に移送途中、備中国高梁で誅殺された。

 

 

 

上月城守る赤松政範それを囲む圧倒的な戦力差。

上月城を守るのは、地元の名門豪族である赤松政範。

しかし、彼らを待ち受けていたのは、戦国時代の冷酷な現実、毛利の援軍を呼び込みつつ必死に籠城する赤松軍に対し、押し寄せた秀吉軍の数は実に1万5,000の大軍でした。

 

 

対する城内は数千人程度とみられ、戦力差は一目瞭然、圧倒的な絶望のなかで戦いの火蓋が切って落とされたのです。

 

 

しかも、秀吉の攻め方は執拗で強力でした。

力任せに城へ突撃すれば、味方の犠牲が増えてしまいため、そこで秀吉は、黒田官兵衛や竹中半兵衛といった天才軍師らを従え、城の周囲に「三重の柵(鹿垣)」を張り巡らせ、ネズミ一匹這い出せない完全な包囲網を敷いた上で、城の命綱である「水の給水ルート」を完全に遮断してしまう。

 

 

じわじわと干からびさせ、城兵の精神と肉体を限界まで追い詰めていく方法で、徹底的な兵糧攻めによって、上月城は完全に孤立無援の地獄へと変えられていったのです。

 

 

 

上月城の者たちの斬首と磔

女、子供に至るまで惨殺され、磔・串刺しにされ毛利との国堺に晒されました。

 

 

この報せを耳にした弟・小一郎は、兄・秀吉に会いに行き姫路城で鬼の面をつけて悪ふざける秀吉に「何であんな酷い真似をしたのじゃ〜」と詰め寄りました。

 

 

すると荒木村重は、彼らは全員すでに自害していたと説明、亡骸を丁重に葬ろうとする秀吉に対して竹中半兵衛は、あえて自分たちが手を下したかのように見せかけるという真逆の非情な提案を突きつけたのでした。

 

 

「我らに逆らう者は皆こうなると見せしめにするのです」そうすることにより戦わずして我らに寝返る者も出ると想い、あえて残忍に晒したのだといいます。

 

 

秀吉は、自身が鬼の役割を引き受けることで、一日でも早く西国攻めを終わらせるのであればそれで良いと考え半兵衛の提案に従ったのだというのでした。

 

 

小一郎としては事情がわかりほっとしましたが、小寺官兵衛は、これでは、かえって人々の恨みを募らせ敵を結束させてしまうのではないかと苦言を呈しました。

 

 

官半衛は「かえって敵は恨みを募らせまとまってくるのでは」「毛利を侮ってはなりませぬ」と、別の見方をしました。

 

 

半兵衛は、その指摘を受け止めつつも、官兵衛の腹の内を探るように問いかけました。

「そなたほどの、戦功者が味方についたことは、誠に心強きことなれど‥‥なぜ、毛利ではなく我らを選ばれたのじゃ」官半衛曰く「いまの織田には勢いがありまする」官兵衛の答えを聞いて半兵衛は「その理由は曖昧である」といって切り捨てました。

「それこそがいまの播磨。

みな半信半疑のまゝ、それでもどちかにつかねばならぬと、我らを選んだ者がほとんど‥‥厄介なのは明らかな敵ではなく腹の底が見えぬ国衆でござる」官兵衛は人質を出している以上裏切りはないと言い張りましたが‥‥やがて、半兵衛の抱いた悪い予見は現実のものとなりました。

 

 

 

大失敗の恐怖政治:三木城の別所長治の裏切り

上月城で行われた凄惨な見せしめは、周辺を恐怖で震え上がらせ、秀吉の狙い通りに播磨を制圧したかのように見えました。

 

 

しかし、歴史はここから皮肉な牙を剥いていきます。

秀吉が仕掛けたこの「恐怖政治」こそが、のちに自身を絶体絶命のピンチへと追い込む、最悪の状態で返ってきたのです。

 

 

上月城の落城からわずか数ヶ月後、秀吉の思惑とは真逆の事態が起こります。

 

 

織田方の主力として播磨を支えていた有力豪族・三木城の別所長治が、天正6年(1578年)2月、突如として毛利方へと寝返ったのです。

 

 

なぜ別所長治が織田への服属をやめて裏切ったのか。

その決定打の一つこそが、上月城での秀吉の残虐行為だったと言われています。

 

 

「秀吉はなんて恐ろしい男だ、あんな冷酷な男の下にいては、いつ自分たちも些細なことで皆殺しにされるかわからない」――。

 

 

秀吉が植え付けた恐怖は、従順さではなく、「いつか殺される前に裏切る」という猛烈な反発心と不信感を地元の豪族たちに植え付けてしまったのでした。

 

 

この別所長治の謀反(三木合戦の始まり)によって、播磨の戦況は一気に泥沼化します。

 

 

さらにこれを好機と見た毛利の大軍が押し寄せ、かつて秀吉が奪い、現在は味方の「尼子再興軍」に守らせていた上月城を包囲しました。

 

 

救出に駆けつけた秀吉でしたが、背後の三木城に怯え、目の前の毛利の大軍を前に一歩も動けなくなります。

 

 

最終的に主君・織田信長から下されたのは「上月城を見捨て、三木城の攻略に集中せよ」という非情な命令でした。

 

 

秀吉は、自分が残酷な手段で勝ち取った上月城を、今度は一兵も戦わせることなく「見殺し」にして涙の撤退を遂げるという、痛烈なしっぺ返し(第2次上月城の戦い)を食らうことになったのです。

 

 

力攻めや残虐な処刑(恐怖政治)では、人の心は根本からは従わない。

 

 

むしろ、より激しい裏切りを招くだけだ――、上月城での「流血の虐殺」と「味方の見殺し」という2つの深いトラウマは、秀吉の戦術を根本から変えさせました。

 

 

これ以降、秀吉は残酷な力攻めを封印します。

その代わりに選択したのが、のちに秀吉の代名詞となる「三木の干殺し」や「鳥取の渇殺し」、そして「備中高松城の水攻め」といった徹底的な兵糧攻めでした。

 

 

それは、時間はかかるものの、味方の犠牲を最小限に抑え、敵も極力殺さずに生殺しにして降伏を促すという、極めて合理的な戦い方です。

 

 

上月城で見せた「悪魔の狂気」の大失敗があったからこそ、それを猛省した先に、私たちがよく知る「血を流させずに勝利をもぎ取る、天才軍師・秀吉」が誕生したのです。

 

 

 

三木城・別所長治

別所長治は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。

別所安治の嫡男。通称は小三郎。

 

 

天文24年(弘治元年、1555年)、または、永禄元年(1558年)に別所安治の子として生まれ、元亀元年(1570年)、父・安治が没すると叔父のb別所賀相・別所重宗(重棟)を後見役に若くして家督を継ぎました。

 

 

別所氏は早くから織田信長に従っており、家督を相続した当主・別所長治は天正3年(1575年)7月に信長に謁見、その後たびたび上京し信長に挨拶している。

 

 

天正5年(1577年)2月、信長が紀州征伐へ出陣すると、別所氏もこれに加勢。

 

 

『信長公記』には長治の名があるが、長治自身は参陣せず、叔父の別所重宗を派遣したと考えられる。

 

 

天正5年10月、播磨平定のため羽柴秀吉が送り込まれてきて、秀吉は播磨の国衆から人質を徴収して播磨の大部分を平定し、織田氏と敵対する毛利方の上月城(播磨西端、兵庫県佐用町)を落城させた。

 

別所長治は秀吉に協力する姿勢を見せ、しかし天正6年(1578年)2月、別所長治は織田氏から離反、三木城に立て籠もり毛利氏に通じた。

 

 

この離反については、秀吉や信長に不信を抱いていた叔父・別所賀相の勧めによるものといわれ(『別所長治記』)、毛利氏のもとにいる足利義昭から離反工作を受けていたことからその影響が考えられる(「吉川家文書」)

 

 

また、別所氏以外の播磨の有力国衆らも、この時、織田氏から離反しており、別所氏単独での行動でなく、それら国衆と連携したうえでのものである可能性があると思われる。

 

 

離反した別所長治に対し、秀吉はすぐに三木城攻め、天正6年4月には野口城が落とされ、7月には神吉城や志方城が落城するなど、三木城の支城は次々と失われていった。

 

 

また、籠城中の天正6年4月、理由は不明だが、参議の冷泉為純・為勝父子を殺害している。

 

 

 

毛利方から三木城への兵糧搬入経路が断たれ苦戦する中、天正7年(1579年)9月、毛利氏や本願寺からの援軍とともに三木城を包囲する織田軍を攻め、織田方の武将・谷衛好を討ち取っている。

 

 

しかしその後、包囲はより厳重になり、「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めが本格化し、籠城開始から2年後の天正8年(1580年)1月、別所長治・友之(弟)・叔父の別所賀相の切腹と引き換えに城兵を助命するとの条件で開城を決めた。

 

 

秀吉からの贈物で最後の宴を催した後、別所長治は妻子や弟らとともに自害。

介錯は家臣の三宅治忠が行った、享年23歳、または26歳とされる。

 

 

辞世は「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば 」。

なお、別所重宗の嫡子で後の八木藩主・別所吉治が実は長治の子であるとする系図が伝えられており、落城の際に連れ出され落ち延びたものとしている。

 

 

また「北摂三田の歴史」(北康利著)等で紹介される『上津畑ノ庄茶臼山記』という史料によると、家臣の後藤基国(後藤基次(又兵衛)の父)が、長治の千代丸という8歳の子を乳母、家来とともに上津城に逃がし、同城落城後に千代丸は帰農したとされている。

 

 

 

国境に並ぶ磔と串刺し…戦慄の「見せしめ」

水の手を絶たれ、飢えと渇きに苦しむ上月城にさらなる絶望が襲います。

城を救うべく接近していた毛利方の宇喜多軍が、秀吉の鮮やかな迎撃によって撃退されたのです。

 

 

後ろ盾を完全に失い、名実ともに孤立無援となった城内に、もはや抗う術はありませんでした。

 

 

天正5年(1577年)12月、上月城はついに落城します。
城主の赤松政範をはじめとする主だった将たちは、武士の意地を通して自刃。

 

 

しかし、本当の地獄が始まったのは、城主たちが命を絶ち、戦いが終わった「その後」でした。

通常、城主が責任を取って切腹した場合、残された足軽や女子供などの命は助けられるケースも少なくありません。

 

 

事実、籠城していた人々も命だけは救われるものと信じていたはずです。

 

 

ところが、秀吉が下した決断は、彼らの淡い希望を無残に打ち砕くものでした。

 

 

秀吉は生きて捕らえられた籠城者たちに対し、一切の降伏も温情も許さなかったのです。

 

 

秀吉が下した命令は、戦国時代の基準で見てもあまりに凄惨なものでした。

 

 

「男は全員の首をはね、女はすべて磔にせよ。そして、子供は串刺しにせよ」

この命令は容赦なく実行されました。

 

 

処刑された人々のおぞましい遺体は、織田領である播磨と、毛利領である備前・美作のちょうど境目にあたる国境沿いに、見せしめとしてずらりと並べて晒されたのです。

 

 

街道を行き交う人々や、国境を警戒する毛利方の兵たちの目の前に突如として現れた、無数の磔台と串刺しの山。

 

 

これこそが、のちに「人たらし」と称される天下人が、その出世街道の途中で現出させた、紛れもない現実の地獄絵図でした。

 

 

 

鬼と化した「人たらし」:秀吉が潜ませた3つの計算

いつもニコニコと愛想よく人の心を掴む秀吉が、なぜ上月城ではこれほどまでに残虐な「鬼」にならなければならなかったのでしょうか。

 

 

一見すると、理性を失った狂気の沙汰にも思えますが、歴史を深く紐解くと、そこには戦国時代を生き抜くための、鳥肌が立つほど冷徹な「3つの計算」が見えてきます。

 

 

秀吉は感情に任せて虐殺を行ったのではなく、きわめて優秀なリアリスト(現実主義者)として、高度な心理戦を仕掛けていたのです。

 

 

 

計算①:毛利陣営を絶望させる「恐怖政治」

1つ目の狙いは、敵である毛利陣営に対する強烈な心理戦です。

 

 

これから本格的に攻め込む中国地方には、毛利方に深く加担する城がいくつもそびえ立っていました。

 

 

それらを一つひとつ力攻めにしていては、織田軍の兵力や時間がいくらあっても足りません。

 

 

そこで秀吉は、最初の最前線基地だった上月城をあえて徹底的に、かつ凄惨に踏みつぶしてみせました。

 

 

「織田に逆らえば、女子供までどのような目に遭うか」を周囲の城に見せつけ、戦う前に絶望させて戦意を喪失させる――、この残虐行為は、のちの戦いを有利に進めるための、計算された「恐怖政治」だったのです。

 

 

 

計算②:裏切りを繰り返す地元の豪族への「警告」

2つ目は、味方であるはずの播磨の国人(地元豪族)たちへの警告です。

 

 

当時の播磨国は、織田と毛利という二大巨頭に挟まれた境界線でした。

 

 

ここに生きる地元の豪族たちは、生き残るために「昨日は織田、今日は毛利」といった具合に、敵味方をコロコロと変えるのが当たり前になっていました。

 

 

新参者として播磨に乗り込んできた秀吉にとって、彼らはいつ背中から刺してくるかわからない危険な存在です。

 

 

「甘い顔をすれば舐められる。裏切れば一族もろとも地獄に落とす」という絶対的な恐怖を植え付けることで、地元の豪族たちの不穏な動きを力づくで抑え込もうとしたのです。

 

 

 

計算③:主君・織田信長への「忠誠アピール」

そして3つ目が、絶対的権力者である主君・信長への強烈な忠誠心でした。

 

 

信長は、敵対する者には容赦のない冷徹な人物として知られていました。

 

 

一方の秀吉は、もともと「人たらし」で情に厚いイメージを持たれており、信長から「甘さ」や「生ぬるさ」を疑われることは出世競争において致命傷になりかねません。

 

 

「信長様、私はあなたの方針に従い、これほど冷徹に、容赦なく任務をこなす男です」――北陸の敵前逃亡があるため、秀吉は、一矢報いたいためなのか、女・子供の命を贄(にえ)にすることで、自身の覚悟と忠誠心を信長に対して証明してみせたのです。

 

 

 

まとめ

豊臣秀吉の輝かしい出世街道の裏に隠されていた、第1次上月城の戦いにおける「磔」と「串刺し」の惨劇。

 

 

私たちがよく知る「人たらしで陽気な天下人」というイメージからは、およそかけ離れた冷酷なエピソードですが、これもまた、綺麗事だけでは生き残れなかった戦国時代が泥臭く生み出した、秀吉の紛れもない「リアルな一面」です。

 

 

秀吉は決して、生まれながらの冷酷なサイコパスだったわけではありません。

 

 

むしろ、新参者の自分が織田家の中で成果を出し、裏切りだらけの播磨を生き抜くために、あえて「鬼」になる道を選んだ高度なリアリスト(現実主義者)でした。

 

 

しかし、その計算されたはずの恐怖政治が、別所長治の謀反という最悪の事態となり、最終的には味方を見殺しにするという一生のトラウマとなって自分に返ってきたのです。

 

 

 

-残酷になった秀吉

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。