織田信長は日本一有名な戦国大名にも関わらず、その妻については殆ど事績が伝わっていません。
正室・側室は約20人以上はいたとされ、また子供達も多数いて母親は全く特定出来ない子が3割ほどいます。
さらには、子は産まなかったものの、晩年の信長が恋焦がれていたことが、当時の史料に書かれている女性や、明智光秀の妹など、特筆すべき女性も多く多くいました。
映画やドラマでは、信長とともに炎に包まれて最期を遂げるシーンがドラマチックに描かれがちですが、「主君を失った後、彼女たちは一体どうなったの?」というその後の人生は、あまり知られていません。
実は、彼女たちの運命は「悲劇」ばかりではありませんでした。
信長の死という巨大な激動を乗り越え、豊臣、そして徳川の世を驚くほど逞(たくま)しく、長生きして駆け抜けた女性たちが大勢いたのです。
中には、信長の好敵手だった大名家や、次の天下人・豊臣秀吉の庇護を受けながら、織田家の血筋を江戸時代へと繋いだ側室もいます。
この記事では、織田信長を支えた妻たちにスポットを当て、本能寺の変の「その後」をどう生き抜いたのか、彼女たちの知られざる第2の人生を詳しく紐解いていきます。
織田信長には何人の妻がいた?(正室と側室の基礎知識)
戦国時代を代表する英傑・織田信長といえば、「冷酷無比な戦国大名」というイメージが強いかもしれません。
しかし、私生活に目を向けると、実は非常に多くの女性に囲まれていました。
結論から言うと、史料によって数え方は異なりますが、信長には正室(本妻)が1人、側室(側妻)が約20人ほどいたとされています。

▲画像はイメージです(信長の妻たち)
まずは、現代とは全く異なる「戦国時代の結婚事情」と、信長の妻たちの全体像について、基礎知識を押さえておきましょう。
戦国大名にとって「妻を多く持つこと」の2つの意味があります。
当時は一夫多妻制が一般的でしたが、大名が多くの妻を持つことには、単なる個人の好みを超えた政治的・戦略的な重要性がありました。
理由は大きく分けて2つあります。
① 織田家の「跡継ぎ(男児)」を確実に確保するため 当時は乳幼児の生存率が低く、せっかく生まれた跡継ぎが若くして病死してしまうことも日常茶飯事でした。
家名を存続させるためには、複数の女性との間に多くの子どもをもうける必要があったのです。
事実、信長は妻たちとの間に11人の息子と12人以上の娘を授かっています。
② 同盟国や有力家臣との「絆」を深めるため(政略結婚) 他国の大名娘を正室や側室に迎えることは、「私たちは味方同士です」という最強のサインでした。
また、自国の有力な家臣の娘を妻にすることで、家臣団の裏切りを防ぎ、結束を固める役割もありました。
織田信長の主要な妻たち(一覧)
信長の妻たちのなかでも、歴史上に深く名を残している主要な女性たちを一覧にまとめました。
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妻の名前(通称) |
立場 |
主な出自(実家) |
生んだ主な子ども |
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濃姫(帰蝶) |
正室 |
美濃の斎藤道三の娘 |
なし(諸説あり) |
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生駒吉乃 |
側室 |
尾張の有力商人・土豪(生駒家) |
織田信忠(長男)諸説あり、織田信雄(次男)、徳姫(長女) |
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お鍋の方 |
側室 |
近江の豪族(小倉氏) |
織田信高(七男)、織田信吉(八男) |
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坂氏 |
側室 |
尾張の熱田神宮の社家 |
織田信孝(三男) |
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お幾の方 |
側室 |
不明(武田氏の一族とも) |
羽柴秀勝(四男 ※秀吉の養子) |
正室と側室の決定的な違い 信長にとって、生涯で「正室」の座に就いたのは美濃(岐阜市)から嫁いできた濃姫/帰蝶だけです。
濃姫/帰蝶の史料は極めて乏しく、実証が難しいために、その実像には謎が多く、確たることはほとんどわかっていないです。
2人の間には子ができなかったというのが通説であるが、信長の子供、特に女児の生母は不明の場合が多く、本当に子がいなかったかすら確かではない。
男児はいなかった事は確かである。
濃姫/帰蝶との間に跡継ぎが恵まれなかったため、信長は多くの側室を迎え、彼女たちが織田家の次世代を産み育てることになりました。
では、信長が「本能寺の変」で突如この世を去ったあと、残された彼女たちはどのような人生を歩んだのでしょうか。
本能寺の変を生き延びた妻たち
多くの映画やドラマでは、本能寺の変の際に信長とともに炎の中で壮絶な最期を遂げる妻たちの姿がドラマチックに描かれます。
しかし、それは後世の創作であることが多く、実際の史実においては、信長の死という大激動を生き延びて激変する戦国末期を逞しく駆け抜けた女性たちがいました。
近年の歴史研究によって、本能寺の変の後も驚くほどの長寿を全うしていたことが分かってきた、二人の重要な妻たちの歩みを紐解いていきましょう。
正室・濃姫(帰蝶)〜安土殿と呼ばれた78年の生涯〜
濃姫/帰蝶とも呼ばれる女性は、「美濃の蝮」と恐れられた斎藤道三の娘で、天文4年(1535年)生まれで夫・信長の一歳年下とされています。
当時、信長の父・織田信秀は、東では今川氏・松平氏、北では斉藤氏、さらに国内では敵対する織田一族と敵に囲まれ、苦戦を強いられいました。
そのため、道三と和睦し同盟を結ぶために、当時15歳だった嫡男の信長に道三の娘(当時14歳だけど再婚)を正室に迎えます。
この同盟により、織田氏は今川氏との戦いに専任できるようになり、信秀の跡を継いだ信長の時代にも、道三と信長が互いに援軍を送るなど同盟は機能し続けました。
しかし、尾張に嫁いだ後、消息を一切分からなくなり父・道三の死によって、織田氏が斎藤氏の敵対関係になったため、正室の地位を失ったとしる説も囁かれます。
次に濃姫/帰蝶の消息がわかるのは、信長が斎藤龍興を滅ぼして、美濃国を掌握した永禄12年(1569年)です。
当時、信長は斎藤義龍の後家から家宝の壺を取り上げようとするも、後家は紛失したといい貼り、これ以上の詮索をやめさせようと濃姫/帰蝶が間」に入ったのが、公家の日記、『言継卿記』に記録されています。
また、濃姫/帰蝶の生母の小見の方は亡くなっているものの信長は稲葉山城(岐阜城)にいる姑に会いに行ったとという記録もあり、この時までは、濃姫/帰蝶は正室だったことが日記から判明しています。
信長の唯一の正室として知られる濃姫/帰蝶は、本能寺で信長と運命を共にしたという説が長く語られていますが、安土城から蒲生氏の日野城に避難した信長の親類衆の中に、「信長公御台」が記されており、御台は濃姫/帰蝶を表しているものと考えられています。
さらに、信長の次男・織田信雄の一族の天正15年(1585年)当時の領地を纏めた史料には、家康の嫡男・信康に嫁いでいた五徳と、信長の生母・土田御前に並んで「安土殿」という人物が記されており、これも濃姫/帰蝶を表しているとされます。
信長が倒れた後、濃姫/帰蝶は信長の次男である織田信雄の庇護を受け、かつて信長が天下統一の拠点とした城にちなんで「安土殿」と呼ばれるようになりました。
織田家の象徴として大切に遇された濃姫/帰蝶は、のちに天下人となった豊臣秀吉からも、生活費として多額の「化粧料」を支給されるなど、高い地位を認められていた記録が残っています。
さらに驚くべきことに、濃姫/帰蝶の没年は慶長17年(1612年)と伝えられており、これは関ヶ原の戦いすらも超えて、江戸幕府が開かれた後の時代にあたります。
数々の戦火を潜り抜け、78歳という当時としてはかなりの長寿を全うした濃姫/帰蝶の生涯は、まさに織田家の盛衰を最後まで見届けた生き証人そのものでした。
信長が築いた安土の摠見寺には、信長御台・養華院の墓があるとされてます。
側室・お鍋の方〜ねねに仕えた京都での晩年〜
信長から絶大な信頼を寄せられ、安土城の「奥(プライベートな空間)」を取り仕切る実質的な女主人として活躍したのが側室のお鍋の方です。
お鍋の方にとって本能寺の変は、最愛の夫である信長だけでなく、前夫※1との間にもうけた二人の最愛の息子をも同時に失うという、言葉に尽くせない大悲劇となりました。
※1.前夫とは、近江国の国衆・小倉右京之亮、または小倉実房です。二人の間には、甚五郎・松五郎(或いは秀千代)がいましたが本能寺の変で討ち死に、長男の方は羽柴秀吉に加賀松任城主の任じられるも、弟の死や信長の 非業の死による精神的なショックにより亡くなったとされています。
絶望のどん底に突き落とされたお鍋の方でしたが、彼女はそこで立ち止まることはありませんでした。
変の後は、豊臣秀吉の正室であるねね(北政所)に仕える道を選び、京都の地へと移り住みます。
もともと安土城の奥を取り仕切るほどの高い教養と確かな管理能力を持っていた彼女は、豊臣家の奥でも重宝され、秀吉からも「織田信長ゆかりの重要な女性」として厚く保護されました。
晩年は秀吉から300石もの領地を与えられ、経済的にも自立した安定した暮らしを送っています。
彼女もまた、奇しくも濃姫/帰蝶と同じ慶長17年(1612年)にこの世を去りました。
深い悲しみを胸に秘めながらも、新たな権力者のもとで自らの居場所を見つけ、静かに、そして気高く生き抜いたその晩年は、戦国女性の芯の強さを物語っています。
信長を支え若くして散った最愛の女性
本能寺の変を生き延びて激動の時代を長く生きた妻たちがいる一方で、信長が天下への階段を駆け上がっていく最盛期に、若くしてこの世を去った最愛の女性がいます。
彼女の存在とその早すぎる死は、冷徹と評されることの多い信長の心に、生涯消えない大きな影を落とすことになりました。
側室・生駒吉乃〜跡継ぎを遺し逝った最愛のひと〜
尾張の有力な実業家・土豪であった生駒家の娘である吉乃(きつの)は、信長が「生涯で最も愛した女性」として語り継がれる側室です。
吉乃は織田家の運命を担う長男の信忠(諸説あり)、次男の信雄、そしてのちに徳川家康の長男・信康に嫁ぐことになる長女の徳姫という、織田家にとって極めて重要な三人の子どもたちを立て続けに出産した女性です。
信長からの寵愛は深く、彼女の実家である生駒屋敷に信長が何度も足を運んだエピソードは有名です。
しかし、幸せな時間は長くは続きませんでした。
三人目の子どもを出産した後、吉乃は産後の肥立ちが悪く、急速に体調を崩してしまいます。
愛する彼女の病状を心配した信長は、わざわざ自身の新たな拠点である小牧山城に豪華な屋敷を建てて彼女を迎え、手厚く看病しました。
しかし、その懸命な願いも虚しく、永禄9年(1566年)、吉乃は20代後半から30代前半という若さで息を引き取りました。
本能寺の変が起きる16年も前のことです。
吉乃が亡くなった際、普段は周囲に隙を見せない信長が、人目もはばからずに激しく号泣し、いつまでも彼女の遺体のそばを
離れようとしなかったと伝えられています。
彼女の遺した子どもたちは、その後の織田家の歴史を大きく動かす中心人物となり、信長にとっても彼女の存在は生涯特別なものであり続けました。
明暗が分かれた側室たちの運命
織田信長亡き後は、一族の主導権を巡る激しい権力闘争の舞台へと変わっていきました。
信長との間に子どもをもうけた側室たちも、その渦中に巻き込まれていきます。
誰を息子に持ち、どの勢力に身を寄せたかによって、彼女たちのその後の運命は天国と地獄ほどに大きく分かれることになりました。
坂氏〜息子の敗北に巻き込まれた悲劇〜
信長の三男である織田信孝を産んだ側室の坂氏(さかし)は、本能寺の変ののち、戦国時代の残酷さを最も象徴するような悲劇的な結末を迎えることになります。
信長の死後、後継者の座を巡って次男の織田信雄や羽柴秀吉との対立を深めていった織田信孝は、やがて柴田勝家らと結んで秀吉に反旗を翻しました。
しかし、戦いは秀吉側の圧倒的な勝利に終わり、織田信孝の籠る岐阜城は包囲されてしまいます。
この際、城内にいた母親の坂氏は、秀吉側への人質として差し出されることになり、その後、織田信孝は降伏して自害に追い込まれますが、残酷にも人質となっていた坂氏も許されることはありませんでした。
息子が自決する直前、あるいはその直後に、坂氏は京都の地で処刑されてしまったと伝えられています。
我が子の出世と織田家の存続を願いながらも、時代の覇権争いに翻弄され、最も凄惨な最期を遂げた悲劇の女性でした。
お幾の方・中川氏〜新時代へ血筋を繋いだ女性たち〜
悲劇に倒れた坂氏とは対照的に、時代の変化を敏感に捉え、織田家の血筋を豊臣や徳川の世へと見事に繋いでいった側室たちもいます。
四男の羽柴秀勝を産んだお幾の方は、息子が早い段階で豊臣秀吉の養子となったことから、織田家と豊臣家を結ぶ重要な架け橋としての地位を確立しました。
本能寺の変の後も秀吉から厚い庇護を受け、織田の血を引く我が子が豊臣家の中で出世していく姿を見守りながら、穏やかな晩年を過ごしたとされています。
また、五男の織田信房の母である中川氏も、信長の死後は織田家の親族として大切に保護されました。
彼女たちが遺した血筋は、激動の戦国末期を生き延び、やがて江戸時代において大名や高家(儀式を司る名門)として存続する織田家の家系へとしっかりと受け継がれていくことになります。
新しく訪れた太平の世に自分たちの血脈を残した彼女たちは、ある意味で戦国大名の妻としての最大の役目を果たした勝者と言えるかもしれません。
まとめ
信長の妻たちの逞しきその後は、織田信長の傍らで激動の戦国時代を歩んだ妻や側室たち。
彼女たちの「その後」を追いかけてみると、世間に広く知られている「本能寺の変で夫と運命を共にした」というイメージとは全く異なる、非常に力強い女性たちの姿が浮かび上がってきます。
もちろん、三男・信孝の母である坂氏のように、戦後の権力闘争の渦に巻き込まれて命を落とした悲劇の女性もいました。
しかしその一方で、正室の濃姫やお鍋の方のように、主君であり夫である信長を失った後も、豊臣秀吉や徳川家康といった新たなる天下人たちからその地位と教養を認められ、驚くほどの長寿を全うした女性たちがいたこともまた事実です。
彼女たちは決して歴史の影に隠れて泣き寝入りしたわけではなく、変わっていく時代を冷静に見極め、自らの足で逞しく生き抜いていきました。
また、生駒吉乃をはじめとする側室たちが命がけで繋いだ織田家の血脈は、豊臣の世を経て江戸時代へと受け継がれ、大名として明治以降まで存続していくことになります。
織田信長という不世出の天才が天下を揺るがす大躍進を遂げられたのは、その陰に、これほどまでに強大で、しなやかな芯を持った女性たちの支えがあったからに他なりません。
本能寺の変という終わりは、彼女たちにとっては「生き残るための新たな戦い」の始まりであり、その第二の人生の足跡こそが、戦国という過酷な時代を生き抜いた女性たちの本当の強さを物語っているのです。