美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

伊達政宗 磨上原の戦い

【簡単に解説】摺上原の戦いとは?伊達政宗の相手と勝因の風向き

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天正17年(1589年)磐梯山裾野の摺上原(現・磐梯町・猪苗代町)で行われた出羽米沢の伊達政宗と蘆名義広軍との合戦、奥州の歴史を大きく塗り替える歴史的決戦が繰り広げられました。

 

それが、陸奥国猪苗代平原を舞台に行われた「摺上原(すりあげはら)の戦い」です。

 

 

わずか23歳の若き伊達政宗が挑んだのは、南奥州のメガパワーとして長年君臨してきた名門・蘆名義広氏。

 

この戦いに勝った者が奥州の覇者となる。
まさに両家の存亡とプライドをかけた絶対負けられない一戦でした。

 

序盤、猛烈な向かい風と土埃に晒され、壊滅寸前まで追い詰められた伊達軍。

 

 

しかし、政宗は慌てるどころか、不敵な笑みを浮かべていました。

なぜなら政宗は、現地特有の「梅雨末期の気象パターン」を完璧に読み切り、数時間後に風向きが逆転することを見抜いていたからです。

 

◇政宗が激突した強力な対戦相手「蘆名軍」とはどんな存在だったのか?

◇なぜ絶望的な向かい風の中で耐え抜くことができたのか?

◇そして、勝敗を一瞬で決した「風読みの奇策」とは?

 

今回は、歴史初心者の方にもわかりやすく、摺上原の戦いの全貌と、気象すら味方につけた伊達政宗の卓抜した戦略眼を紐解いていきます!

 

 

 

摺上原の戦いとは?

伊達政宗の生涯において、南奥州の覇権を決定づけた最大の激戦が「摺上原(すりあげはら)の戦い」です。

 

まずは、政宗が挑んだ強力なライバルと、この決戦が起きた時代背景から分かりやすく紐解いていきましょう。

 

 

政宗の対戦相手は南奥州の雄「蘆名氏(あしな労働・蘆名義広)」

政宗の前に立ちはだかった対戦相手は、会津を中心に広大な勢力圏を誇っていた名門・蘆名氏です。

 

当主を務めていたのは、常陸(現・茨城県)の常陸北条氏・佐竹家から養子に入った若い武将・蘆名義広でした。

 

当時の奥州は、伊達家の台頭を警戒する周囲の大名たちが「伊達包囲網」を結成し、一触即発の緊張状態にありました。

 

特に蘆名氏は、常陸の佐竹氏と強力な同盟を結んで伊達家を挟み撃ちにしようと画策。

 

これに対し、家督を継いで以来「奥州統一」を急ぐ23歳の伊達政宗は、佐竹・蘆名連合軍に挟み撃ちにされる前に、まず会津の蘆名氏を叩き潰すべく出陣を決意したのです。

▲伊達政宗と蘆名義広との摺上原の戦いのイメージイラストです。

 

 

合戦の舞台となった猪苗代平原(摺上原)

両軍が激突した舞台は、磐梯山の南麓に広がる湿地帯と平原、「摺上原(現・福島県猪苗代町付近)」でした。

 

戦前の状況と兵力差は、伊達軍にとって決して楽なものではありませんでした。

◇ 兵力差:伊達軍およそ15,000に対し、蘆名軍もおよそ12,000〜16,000(諸説あり)と、ほぼ互角か蘆名軍がやや優勢な拮抗状態。

◇ 戦前の裏工作:政宗は決戦に先立ち、蘆名側の重要拠点であった猪苗代城主・猪苗代盛国を寝返らせることに成功。

 

 

これにより、伊達軍は猪苗代平原へと一気に進軍する足がかり(拠点)を確保しました。

 

 

しかし、いくら裏工作に成功したとはいえ、広大な平原での正面衝突は一歩間違えれば自軍が壊滅しかねない大博打です。

 

両軍の並々ならぬ執念が交錯する中、天正17年(1589年)6月5日、ついに運命の火蓋が切って落とされました。

 

 

 

摺上原の戦いの経過|勝敗を分けたのは「梅雨末期の風向き」

開戦直後、伊達軍を襲ったのは敵の攻撃だけではありませんでした。

 

現地を包み込む「凄まじい自然の脅威」が、政宗たちを極限の窮地に追い込みます。

 

 

【午前】猛烈な西風と土埃で伊達軍が苦戦

午前10時ごろ、激突した両軍を激しい吹き降ろしの「西風」が襲いました。

 

西から東へと猛烈に吹き荒れる風は、東側に陣を構える伊達軍にとって真っ向からの強烈な「向かい風」となります。

 

乾いた平原から巻き上がった猛烈な土埃が伊達軍の目を打ち、視界はほぼゼロに遮られました。

 

弓矢や鉄砲を放っても風に押し戻され、狙いすら定まりません。

この天候を味方につけた西側の蘆名軍は、追い風に乗って怒涛の攻勢を仕掛けます。

 

伊達軍の先鋒隊は次々と崩され、一時は政宗の本陣近くまで肉薄されるなど、伊達軍は壊滅寸前の圧倒的劣勢に立たされました。

 

 

 

【午後】政宗の読み通り「東風」へ逆転!一気総攻撃

しかし、絶望的な状況下にあっても、政宗は決死の覚悟で戦線を維持し続けました。

なぜなら、政宗には勝算があったからです。

 

 

当時の気圧配置(北側に停滞する梅雨前線と低気圧の移動)から、政宗は現地特有の「梅雨末期の気象パターン」を完璧に計算していました。

「午前中の西風は一時的なもの。
昼を過ぎれば低気圧の通過に伴い、必ず風向きが東風へと逆転する」とこの自然の摂理を確信していたのです。

 

 

そして午後2時ごろ、運命の瞬間が訪れます。

猛烈に吹いていた西風がふっと止むと、今度は伊達軍の背後から強烈な「東風」が吹き始めました。

 

 

状況は一瞬にして逆転します。それまで優勢だった蘆名軍の顔面に、猛烈な土埃と砂嵐が襲いかかりました。

視界を奪われ、味方の陣形すら見失って混乱する蘆名軍。

「かかれーっ!」

 

 

政宗はこの千載一遇の機を逃さず、溜め込んでいた全エネルギーを解放するように一斉総攻撃を命令。

 

追い風に乗った伊達軍は一気に崩れ立つ蘆名軍をなぎ倒し、歴史に残る大逆転勝利を収めたのです。

 

 

摺上原の戦いの結果と伊達政宗への影響

「風向きの逆転」という千載一遇のチャンスを逃さず勝利を掴んだ伊達政宗。

この摺上原での大勝は、単なる一合戦の勝利にとどまらず、南奥州全体の勢力図を一変させる決定的な歴史的転換点となりました。

 

 

蘆名氏の滅亡と名城・黒川城の開城

敗走する蘆名軍に対し、伊達軍は容赦のない追撃を敢行しました。

逃げ惑う蘆名方の兵は増水した日橋川(にっしがわ)に追い詰められ、多くの将兵が溺死するなど、蘆名軍は壊滅的な打撃を受けます。

 

 

当主である蘆名義広は、わずかな供回りを連れて本拠地・黒川城(のちの会津若松城)へ命からがら逃げ帰ったものの、もはや伊達軍の破竹の勢いを止める力は残っていませんでした。

 

義広は黒川城を放棄し、実家である常陸の佐竹氏を頼って落ち延びることを余儀なくされます。

 

 

こうして、鎌倉時代から数百年にわたり会津を支配してきた名門・蘆名氏は、実質的に滅亡の道をたどることとなりました。

 

 

伊達家による南奥州制覇の達成

摺上原の戦いからわずか数日後、政宗は堂々と黒川城に入城します。

 

この勝利によって、伊達家は会津・安積・岩瀬といった広大な領土を一挙に手中に収めました。

 

 

政宗は南奥州の大部分を支配下に置き、伊達家の歴史上もっとも広い版図(およそ120万石とも言われる領域)を築き上げることに成功したのです。

 

当時わずか23歳だった若き政宗は、名実ともに「南奥州の絶対的覇者」としてその名を全国に轟かせることになりました。

 

 

 

まとめ

気象すら味方につけた智謀の将

「摺上原の戦い」は、単なる兵力の多さや武力の強さだけで勝利が決まるわけではないという、合戦の奥深さを象徴する名勝負です。

午前中の猛烈な向かい風と土埃という絶望的な苦境に立たされながらも、伊達政宗が冷静さを失わなかったのは、現地特有の「梅雨末期の気象パターン」を読み切っていたからに他なりません。

 

数時間後に訪れる「風向きの逆転」という自然の理を戦略のピースとして完璧に組み込んでいたからこそ、絶望を跳ね返す大逆転劇を演出できたのです。

 

地形や潮の流れ、そして天候までも味方につけ、一瞬の勝機を逃さずに勝利をもぎ取った独眼竜・伊達政宗。

その優れた観察眼と鋭い戦術眼は、南奥州の覇権を確立させただけでなく、今なお歴史ファンの心を魅了し続けています。

 

 

-伊達政宗 磨上原の戦い

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。