妻木城は遠山十八城の一つに入るのかどうか調べたけど、個人的な考えではどうも入らないような気がします。
▲遠山十八支城 – 安岐郷誌
先ず、妻木城は、土岐市南部の城山山頂に築かれた山城で明智氏の所領であったが、後には明智氏一族とされる妻木氏の居城となって、次第に整備されていった。
また、妻木城主は代々陶器の生産を奨励し、織部焼・志野焼などに代表される美濃焼の基礎を作った領主として知られています。
そして明智光秀の正室・煕子の出自※1は、現時点では妻木氏が定説となっています。
※1.出自(しゅつじ)とは、人の生まれ。
煕子は妻木煕子(つまきひろこ)、光秀と結婚して明智煕子ですが、残された資料が少なく実像はよくわかっていないです。
『細川家記』によると、妻木勘解由左衛門範熙(つまき かげゆざえもんのりひろ)の女とあり、細川忠興の室(娘で玉(珠)・又は細川ガラシャ)の母のことが書かれているから信憑性がが高いと思います。
名前の煕子は、江戸時代につけられた名前で、父の妻木勘解由左衛門範煕から来ているのだと思います。
光秀と煕子の娘・長女は明智光春※2の室、三女は細川忠興の室、四女は織田信長の弟・織田信勝(信行)の嫡男・津田信澄の室です。
※2.明智光春とは、光秀の従兄弟、左馬之助ともいう。
今日の「御殿敷跡・土屋敷跡」ですが、妻木城北側の山麓には、御殿と呼ばれる領主の館と武家屋敷が築かれ万治元年(1658年)の妻木家断絶まで陣屋として存続存続しました。
因みに妻木城跡・妻木城土屋敷跡(御殿跡・土屋敷跡)は岐阜県県指定史跡になっています。
土岐氏族の妻木氏が築いた東濃屈指の堅城
創築は康永年間(1342年〜1345年)、創築者は土岐頼基、形式は山城、遺構は曲輪・土塁・石塁・空堀・屋敷跡、規模は380m×1,200mです。
土岐氏の初代守護・土岐頼貞は、守護に任じられる前から土岐地方の地頭に補せられていたが、正中の変(1324年)に続く鎌倉幕府の討伐。
南北朝対立などにより守護職に任じられ、政治軍事にわたり多事となったため、妻木郷の地頭を九男・土岐頼基に譲渡した。
土岐頼基は妻木に入り城を築き、妻木氏を名乗ることになったのが始まりです。
この頃、土岐一族は各地に分散して新しい姓を興して勢力の拡大を図った。
二代目は、その子・土岐頼重が跡を継ぎ、正平十年(1356年)、弟の土岐頼高に妻木郷笠原の半分を分知した。
そして歴代土岐主流の下知に従い各地に転戦して功を立ていった。
応仁の乱(1467年)から戦国時代にかけては、他の東濃武将とほとんど同じ動きをとり、激動の波浪に揉まれながらも家門を守り抜いてきたが、守護土岐氏の没落後は斉藤氏に従い、織田信長の美濃侵略後は、その家臣・森可成(もり よしなり:金山城主)に圧服させられていた。
天正十年(1582年)6月、京都本願寺にて織田信長が討死すると、金山城主・森可成が信濃に進駐した留守を好機に、東濃諸将は一斎に反旗を翻して蜂起した。
驚いた森可成は急遽金山城に帰り、直ちに可児・加茂郡の反乱軍を討伐し、さらに土岐・恵那郡内の反森勢力の掃討に軍を進め、妻木城もこの時森氏の大軍に攻略された。
森可成は妻木城を占領すると筆頭家老・林長兵衛為忠を城代として置き、降った妻木喜十郎は金山城下に居を与えられて移り住んだ(人質)。
※現・可児市兼山町には妻木屋敷跡が残っています。
森可成は、その後、信濃海津城(現・長野市松代町)の城主、さらには美作(現・岡山県)津山城主に転封となり、妻木城は廃城となった。
城山東麓の崇禅寺は妻木氏累代の菩提寺で墓碑・位牌がある。
縄張
土岐市の市街地から妻木川に沿って南進し約6Kmで妻木町上郷に至ります。
先ず、土岐市という所へは名古屋駅から中央線に乗って多治見の次の駅、「土岐」駅で下車です。
列車の行き先は「中津川」駅行の電車に乗っていきます、普通でも快速でも行けますが特急は止まりません。
妻木川は上郷で左に折れて谷川に変容するが、川の右手(左岸)に聳える(そびえる)標高466mの山が妻木城です。
妻木は土岐盆地の西南隅に位置し、美濃・三河・尾張の国境も近く、土岐氏本拠を防衛する土岐城砦群の一角を占める重要な拠点であった。
妻木城の大手筋は土岐盆地を臨む北方の上郷とし、前面には妻木川が自然の濠の役を果たし、東側山麓までに続き、搦手筋は、この方向に奥深く通じている。
▲妻木城平面図
山麓大手口より傾斜道を登ると家臣屋敷(岐阜県史跡)が続き、苔産した石垣に区画されたかなり広い平場段々に続き、屋敷の両側の美しい谷川のせせらぎが武士の生活を忍ばせている。
馬場と併用したといわれる屋敷内の広い道が終わると、谷に沿った山城の大手道に変わり傾斜もキツくなります。
右手の谷を隔てて上屋敷が五段の曲輪になって続き、最上段の南側には鈎のの手の土塁が二重に設けられ、南方より防備としています。
大手道の左手の山が本郭で、急な傾斜を上がると半円形の三の丸曲輪に至り、さらに屈折した道を上がると二の丸曲輪の虎口に達します。
城山の頂上部を上下二段に削平したもので、下段に二の丸、上段を本丸としたもので、本丸曲輪には中世城としては不似合いな立派な石塁がある(本丸跡に神社が祀られたことがあり、これはその時期に改修されたのであろう)。
二の丸・本丸の周囲は巨岩が露出し、断崖状をなす要塞である。
本丸跡に立つと、北の眼下に妻木・下石が、さらに北方には土岐・駄知・肥田方面まで眺められ、優れた選地がよく理解できる。
本郭の東南側は、ことに巨岩・塁石が多く、天然の域壁・石門を形成しており、その間に帯曲輪を介在させるなど、自然の地形を巧みに利用した堅城である。
南方は低地になって搦手筋であるが、土塁と空堀が巡らされ、国境に面した背後の防備にも充分意が注がれているなど、東濃における中世城郭としては屈指の名城です。