姉川の戦いで敗れた浅井・朝倉軍は、その後どうなったか?
一般的に、浅井長政・朝倉義景は「姉川の戦い」で自害したと思っているでしょう。
それを見た朝倉義景は撤退。
しかし、織田信長はそれを追いかけ、「一乗谷城の戦い」で朝倉家を滅ぼし、これにより浅井長政の本拠地小谷城は囲まれ、織田信長は木下秀吉を通じて降伏を勧めますが、浅井長政はこれを拒否。
浅井長政は妻・お市の方と娘達を逃がし、自害を選び亡くなった。
合戦は6月28日早朝、浅井・朝倉軍と織田・徳川軍の間ですさましい激戦になって、両軍合わせて15,000人の犠牲者が出たと伝えられています。
結局、浅井・朝倉軍は引いて織田・徳川軍の勝利に終わった。
それからも浅井・朝倉と信長の敵対関係は続き、翌元亀2年(1571年)8月、織田信長は浅井長政の小谷城を攻めた後、長政は常楽寺に入った。
姉川の戦い後も、織田信長と浅井長政は何度も戦いを交えた。
元亀元年(1570年)に志賀の陣は正親町天皇の調停により和睦している、元亀2年(1571年)に箕浦表の合戦・元亀3年(1572年)に北近江で織田信長と交戦がありました。
比叡山延暦寺に逃げこむ浅井・朝倉
元亀元年(1570年)6月、織田信長は「姉川の戦い」において、浅井・朝倉連合軍を追い詰めるも息の根を止めることは出来ず、反織田の旗幟をより鮮明にして、京や大阪方面などで敵対行動を活発化させてしまいます。
この動きに対して信長は、8月20日に岐阜城を出陣、摂津天王寺に布陣します。
この機会を狙っていた浅井・朝倉連合軍は、兵約30,000の軍勢で南下を開始、織田軍と小競り合い続けながら京へ迫る勢いをみせました。
この知らせを受けた信長は、直ちに摂津天王寺での滞陣※1を切り上げ迎撃に向かった。
※1.滞陣(たいじん)とは、同じ所に長く陣を取ること。
信長軍が近づくと、浅井・朝倉連合軍は比叡山延暦寺に逃げ込んで、長期戦の構えを取ったのです。
▲比叡山
当時、聖地として崇められていた比叡山への武力行使は御法度とされていました。
それで信長は、進むことも退くことも出来ず窮地に追い込まれました。
思案六法になった信長
比叡山に逃げ込んだ浅井・朝倉連合軍を攻めたくとも攻められない信長は、比叡山と「交渉をするも、比叡山側は浅井・朝倉連合軍を庇うため、信長は怒り心頭、比叡山側は数千の僧兵を抱えた戦国大名に匹敵する程の軍事力を持っていた」。
尚且つ、それが京の北の山に居るということが、信長にとって極めて目障りであった。
比叡山延暦寺に予告する信長
むやみに延暦寺を焼き討ちしたわけではない。
ちゃんと信長は延暦寺の方に予告を出している。
『信長公記』によると
「山門の衆徒召し出され、今度、信長公へ対して御忠節仕るに付きては、御分国中にこれある山門領、元の如く還附せらるべきの旨御金打なされ、其の上、御朱印をなし遺はされ、併せて、出家の道理にて、一途の贔屓なりがたきに於いては見除仕り候へと、事を分ちて仰せ聞かさる」
【わかりやすく説明】
このように、自分に味方してくれたら、延暦寺の所領は元のようにすべて返還すると、朱印状まで渡し、仏教の精神として片方に味方できないというのなら、傍観してもらうだけでけっこう だと頼んだのである。
ただ、「若し、此の両条違背に付きては、根本中堂、山王廿一社を初めとして、悉く焼き払はるべき趣、御諚候へき」と警告した。
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警告を無視した延暦寺側
無視した当時の延暦寺、浅井・朝倉軍の兵を境内に引き入れたためだけではなかった。
『信長公記』には、「山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く」と書かれている。
つまり、延暦寺に僧侶らは宗教者としての責を果たしておらず、放蕩三昧だった。
延暦寺の僧侶らが荒れ果てた生活を送っていたことは、『多聞院日記』にも延暦寺の僧侶らが修学を怠っていた状況が記されています。
その上で、延暦寺は織田信長に敵対する浅井・朝倉氏に与同した、こうした僧侶の不行儀と敵対したことが、信長の気持ちを害し、信長はついに焼き打ちを命じた。
比叡山延暦寺は、数百年もの間王城鎮護の霊場として貴賤から絶大な信仰を集めていた。
このため、信長の重臣達の中には仏罰を恐れ、焼き打ちをためらう者もあり、中には「悪僧は仕方ありませんが、高僧は助命したらどうでしょうか」と進言するものもいたといいます。