一条天皇は、円融天皇の第一皇子、天元3年(980年)6月1日に誕生し、母は藤原兼家の娘・藤原詮子※1(後に東三条院)。
諱は懐仁(やすひと)で、永観2年(984年)従兄弟の花山天皇が即位すると皇太子となり、寛和2年)986年6月23日、花山天皇の出家(寛和の変)に伴って7歳で即位し、寛弘8年(1011年)病を得て出家するまで在位25年の間に、藤原定子・藤原彰子と結婚した。
※1.藤原詮子とは、一条天皇を産み、一条天皇の即位後は東三条院と呼ばれた。
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一条天皇と結婚して中宮定子と中宮彰子となった
清少納言が仕えた中宮・定子、紫式部が仕えた中宮・彰子の時代の天皇は一条天皇です。
最初に結婚した定子は才気にあふれる女性で、『枕草子』を執筆した清少納言を従えて、宮中で和歌を詠んだり、音楽を楽しんだりするような文化的なサロンを開きました。
最初に結婚したのは、藤原定子の方で定子の父・藤原道隆と祖父・藤原兼家で摂関政治を行っていました。
この二人とは、(祖父・藤原兼家と兄・藤原道長)が死んで次の摂関政治の跡を継いだのが、道隆の弟・藤原道長です。
そこで道長の娘・彰子を一条天皇に入内すたため二人の中宮が誕生した。
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藤原氏と一条天皇の関係図
まず先に、一条天皇と定子の関係は、永祚元年(989年)、藤原定子の祖父・摂政兼家(藤原兼家)の腰結いで裳着※2を行います。
※2.裳着(もぎ)とは、平安時代から安土桃山時代にかけて、女子が成人したことを一族及び他氏に対して示すことを目的として行われた通過儀礼です。
なお、通説では初潮を迎えた後の10代前半の女子が対象とされ、成人したものとして当該の女子に初めて裳※3を着せる式で、裳着を済ませることで結婚などが許可された。
※2.裳(も)とは、十二単を構成する着物の一つである。
藤原定子は、正暦元年1月25日(990年2月23日)、数え14歳の春に、3歳年下の一条天皇に入内し、まもなく従四位以下に叙せられ、ついで女御※4となr。
※3.女御(にょうご)とは、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した。
官名は中国・周代の官制を記した『周礼』に由来し、位は皇后・中宮に次ぐ。
また、女御のうち、女性皇族たる女王が女御となった場合の呼称を王女御といいます。
中宮・後宮
本来「中宮」という言葉の意味は「皇后の住居」です。
転じて、そこに住む皇后を指して「中宮」と呼んでいます。
もともとは漢語で、中国でも同様の意味に用いられていました。
また、皇后と同じく皇太后・太皇太后も后位にあることから、その住居及び、そこに住む本人の呼称として同様に「中宮」が用いられた。
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道長にチャンス到来
祖父・藤原兼家の死後は長男の道隆が継いで、関白を務め、一条天皇の皇后に娘・定子を入れ、中宮を号させるが、長徳元年(995年)に病没してしまう。
代わりに弟の藤原道兼が関白に就任するが、わずか7日後に没してしまう、
兄・道隆の子・伊周が関白になるか、道隆・道兼の弟・藤原道長が伊周との争い勝利をし、姉で天皇の生母・詮子の推挙を受け内覧となって実権を掌握した。
藤原道長は先に中宮を号した定子を皇后宮と号し、娘の彰子も皇后に立てて中宮を号させることで帝二后の先例を開いていった。
一条天皇の時代は、藤原道隆・道長のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后・定子に仕えた清少納言、中宮・彰子に仕える紫式部・和泉式部らによって平安女流文学がはな開く。
天皇自身、文芸に深い関心を示し、『本朝文粋』などに詩文を残している。
音楽にも堪能で、笛を演奏したという。
また、人柄は温和で好学だったといい多くの人に慕われていた。