定子が一条天皇の中宮になったのが14歳、定子と一条天皇は従姉弟同士、後から中宮になった彰子も同じ従兄妹同士でした。
定子には、父・藤原道隆と祖父・藤原兼家の後ろ盾があった頃はよかったが、道隆の父・藤原兼家は豪腕で知られ、藤原氏全盛期を現出させた道隆の弟・道長、「存在感のある」二人に挟まった、影が薄く評価も低い関白に就任した。
道隆は兼家の長男ですから、父・兼家の死後、関白になったのも当然ですが、彼・道隆が5年間の関白在任中は酒を飲みすぎて病気で寝ていたと言う事と、息子・藤原伊周を強引に出世させ地位を固めさせようとしたことで、ほとんどそれしかしなかった。
“長徳の変”を起こしたドジな藤原伊周
藤原伊周と花山法皇の色恋物語で、長徳2年(996年)1月のことです。
伊周には、夜に通っている女性がいて、あるとき、花山法皇も伊周の通う所と同じ家に法皇も通うようになりました。
花山法皇は、一条天皇の前の天皇第65代の天皇です。
“寛和の変”という事件で謀られ、半強制的に譲位させられた天皇です。
花山法皇は、伊周の通う家の別の女の家に通っていたのですが、伊周は花山法皇が自分の意中の女性の所へ行っていると勘違いして激怒してしまいます。
ある日、その腹いせなのか花山法皇を襲撃し、威嚇のつもりで放った矢がなんと袖をを射抜いてしまったのです。
これは大事件、元天皇といえ、その権威は絶大なもので、伊周の首※1が飛んでもおかしくないほどの事件です。
※1.当時は、死刑制度は形骸化していたため、実質的に最も重い刑はは流罪でした。なので「首が飛んでも‥‥」というのは無かったですが、それほど無謀な事件でした。
花山法皇の方にも、後ろめたい点があって、そもそも法皇は出家してる手前女性の所に通っていたことが公になることは花山法皇にとっても困る話でした。
襲撃騒ぎになって“長徳の変”として扱われ伊周の処分の話になっていきます。
伊周は左遷され太宰府へ飛ばされてしまいました。
定子としては、父親の死、兄の暴走で中宮の後ろ盾がなくなってしまい出家しました。
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関白・藤原道隆の行動
関白なった藤原道隆は、息子・伊周への過度のエコ贔屓は、宮中の評価を著しく落としてしまいます。
姪の婿である一条天皇や天皇の母である詮子にまで顰蹙(ひんしゅく)を買う始末です。
▲一条天皇の母・詮子は、藤原道隆の姉、また藤原道長の姉
詮子は藤原道隆の実の妹なのに、道隆の息子・伊周に異例の出世に相応しい器量ならまだしも、こいつはどうやら曲型的なドラ息子なので、要職につける事に躊躇し、後に起こす事件からみても、性格的に問題のある人間だったようです。
道隆は、自分が病気になると、息子・伊周を代わりに関白にするように強引に運動しますが、一条天皇の母・詮子(道隆の実の妹)にまで反対され挫折します。
道隆が病気で死去すると、、道隆の弟・道兼が跡を継ぎますが病気で七日目ん死んでしまいます。
さすがに次は伊周かと思いきや、詮子(道隆の妹、一条天皇の母)が強烈に息子・一条天皇に働きかけ、もう一人の弟・藤原道長に跡を継がせてしまうのです。
跡を継いだ道隆・伊周親子が、いかに朝廷で評判が悪かったか、このあと伊周は色恋沙汰のトラブル※から、こともあろうに花山法皇に矢を射掛けるという、大不祥事を起こして、流罪になります。
“長徳の変”を起こしたお粗末藤原伊周
※.この事件は、花山院闘乱事件ともいいます。
“長徳の変”によって藤原伊周が没落した事件です。
こともあろうに花山法皇の乗った輿に矢を射掛けるという大不祥事を起こして流罪になります。
ライバルだった叔父の藤原道長が権力者に君臨することができました。
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事の発端
藤原道隆が、西暦995年5月16日に死去、「そのあとを弟・藤原道兼が跡を継ぎますが七日関白と呼ばれ、せっかく関白に慣れたのにたった10日程で亡くなってしまいます。
そこで藤原一族の中で、再び次の関白を決めようという動きが出ます。
次の関白を誰にするか?
という問題が起こったとき、拍車をかけるように平安京では疫病が流行り多くの人が亡くなり、朝廷内でも有力者が次々と亡くなっていくなか、生き残った道隆の息子・藤原伊周と道隆の弟・藤原道長の二人はライバルとして対立していきます。
一条天皇の方でも困り、次の補佐役(関白)を誰に託すかと頭を悩ませていましたが、強力に藤原道長を推す円融天皇の后で一条天皇の母、道長の実姉である詮子がいました。
この詮子の影響力は大きく藤原伊周と藤原道長の対立にも決定的な影響を与えました。
こうして藤原詮子の強い意向により、藤原道長が次期関白の有力者になり、当時の道長と伊周は官位では伊周が上でしたが、血縁的には道長の方が天皇に近いということで上ということで決まりました。
しかし、藤原道長は関白にはならなかった、なぜなら道長はこのとき大納言でした。
それまでの慣例として、関白・摂政は大臣級の官位の者が就くのが普通でしたので、一条天皇は、大納言でしかない藤原道長を関白とすることはせず、天皇が書類を見る前に検閲を行う内覧という職としました。
ただし、内覧となった後、すぐに右大臣まで昇進したのに、その後もず〜っと関白になることはありませんでした。
もしかすると、一条天皇は道長を最初から関白にさせる気がなかったかもしれません。
逆に道長自らが関白を望まなかったかもしれません。
関白とは、天皇を全般的に補佐する役割を持つ役職であり、主に天皇との相談役というポジションでした。
あくまで相談役なので、具体的な政策決定権はありません。
しかし、その代わりに天皇が目にする書類を事前に検閲できる権限がありました。
内覧は、相当に強力な権限で、天皇に何かを伝えるには、内覧が認めた内容しか天皇には伝わりません。
つまり、内覧の許可がないと天皇との意思疎通が出来ないということです。
政策決定権がない代わりに、天皇に身近な存在として内覧という強大な権限を持つのが関白職です。
藤原道長は、関白ににはなっていないので、天皇の相談・補佐役ではなく、内覧という強大な権限だけ貰ったのです。
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ライバルの伊周の不満
長徳1年(995年)に内覧となった藤原道長は出世し右大臣となり、甥の伊周の内大臣を抜きました。
これには伊周は全く納得がいかなかったようで、その翌月の7月に伊周は叔父の道長と口論をし、その3日後には部下同士が乱闘騒ぎを起こし殺人沙汰にまでなったという記録が残っています。
藤原伊周は、明らかに権力の座を道長に奪われ、凋落(ちょうらく)の道を歩み始め、凋落を決定づける事件が起きます。
それが長徳の変という事件です。