慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで活躍した、黒田官兵衛の長男・黒田長政は関ヶ原の功績を買われて豊前中津12万石(大分県)から52万石に加増され筑前国に入ります。
黒田長政は、名島城に入りますが土地が狭かったこともあり、新たに福岡城を築き城下町に福岡と名付けました。
徳川家康は、黒田長政こそ「家康を天下人押上た最大の功労者」と称し、「黒田親子々孫々まで粗略ににしない」旨の環状を与えています。
また、長政は家康の養女(姪)を正妻として迎え、徳川家と親戚関係になっています。
しかし、徳川家の代も変わり三代将軍・徳川家光の時代になる頃には、黒田藩をはじめ多くの外様大名が「藩取り潰し」の恐怖に晒されます。
江戸幕府が開かれ50年の間に200を超える藩が取り潰されたり領地を削減されたりします。
長政は、幼い時から人質生活で何度も死線を乗り越え戦国時代を勝ち抜いた武将ですのでが、長政の嫡子・黒田忠之は幼い頃から、我儘で短期で問題を起こしてしまいました。
贅沢を好み遊興を重ねる我が子に不安を抱き幾度も廃調を長政は考えたようです。
この長政の「忠之廃嫡」の動きに忠之の守り役であった、黒田家の筆頭家老・栗山備前守利安の子・栗山大膳が防波堤となって守ってきました。
長政は、人望ある筆頭家老・栗山大膳や重臣たちが藩の運営を間違いなく補佐くれるだろうと後事を託します。
江戸時代三大お家騒動の一つ黒田騒動
世に知られている黒田騒動は、元和九年(1623年)黒田長政没後から始まります。
跡を継いだ新城主・黒田忠之の我儘は治らず、家臣をむやみに打つ叩いたり、近臣を集めては毎日酒宴に溺れ、剛健・質素の家風は忘れられていきます。
大膳をはじめ藩の重臣たちが藩主・黒田忠之に何度諫言※1しても取り合ってもらえず、藩政は険悪な状況になっていました。
※1.諫言(かんげん)とは、いさめること。その言葉。「この点を強く上司にーする」
忠之は、幕府が最も嫌う軍船を建造し幕府の咎めを受けます。
大膳のなどの謝罪で事なきを得ましたが忠之の乱行は治りません。
忠之は、領主になる前から小姓として仕えてた倉八十太夫を可愛がり、食録は加増を重ね9,000石にまでとりたてています。
さらに、重臣のだれにも相談なしに十太夫を家老にし、十太夫の権威は藩随一になります。
忠之のわがままは益々ひどくなり、藩の乱れは承知しながらも藩の重臣たちも口をつぐみます。諫言をなすのは栗山大膳のみとなり、諫言してもしりぞけられ続けました。
忠之は、独断で新規に足軽200人を抱え、一銃隊を編成して十太夫につけます。
この時代、大名が城郭を補強・修理したり士卒を雇い入れたりすることは禁止されていて、幕府による藩取り潰しの口実にされかねない出来事です。
栗山大膳は、若輩の倉八十太夫に頭をさげ、諫言書を藩主・忠之に届けるよう依頼します。
十太夫はこれを握りつぶし、大膳の悪口を言いつけて忠之をたきつけます。
こうして忠之と大膳の間には修復できない亀裂が生じてしまいます。
忠之は大膳の殺害を口にしますが、大膳は職を退いて杷木志波の邸に帰り、藩をつぶすことなくこの急場を乗り切る方法を考えていました。
寛永9年(1632年)6月、大膳は九州大名の総目付け日田代官・竹中采女正に「藩主に反逆の企てあり」との訴状を差し出します。
これは、裁きの庭で長政と家康の関係を幕府高官に再確認させることが目的で、自身は「主に対する反逆の罪」に問われることを覚悟しての行動でした。
思惑どおり寛永10年(1633年)3月、大膳は裁きの庭で諸老中を前に御老中の御威光による御意見をいただく以外には、主・忠之をして神君・家康公の御厚志を守り通さす方法見当たらず公訴の手段をとりました。
家康公の御意思をふみにじってはなりません」と釘をさしています。
大膳の命をかけた訴えによって、次のような幕府の評定が出されました。
「治世不行き届きにつき、筑前の領地は召し上げる。ただし、父・長政の忠勤戦功に対し特別に旧領をそのまま与える」「大膳は主君を直訴した罪で奥州盛岡に配流。150人扶持を生涯与える」
こうして黒田藩はとりつぶしを免れ、その後、忠之は島原の乱や長崎警護の任で活躍し、城下町の賑わいのために尽力しています。
大膳は、盛岡で罪人あつかいされることなく、62歳で生涯を終えました。
お墓は岩手県盛岡市にあります。
栗山大膳黒田騒動で盛岡へ配流
黒田長政公が亡くなった後、跡を継いだ黒田忠之は我儘放題でした。
注意出来るのは、ご意見番の黒山大膳ただ一人でしたが、それも退けられ挙句の果てにお家の危機を招きました。
そのお家の危機を救うため、栗山大膳は幕府に「訴状」を差し出し、主君である黒田忠之を訴えました。
寛永9年(1632年)から10年かけて、主・黒田忠之と栗山大膳以下多くの重臣たちが江戸に呼び出され幕府の裁判を受けることになりました。
その結果、忠之は「不行跡」により一旦領地を召し上げられますが、過去の戦いでの先祖の功績が大きかったということで、新たに領地を当てがわれることとなり、この騒動も一件落着となります。
このように、栗山大膳が身を捨てて福岡藩を救った大芝居が黒田騒動です。
こうして黒田藩は取り潰しを免れ、黒田忠之は島原の乱や長崎警護の任務で活躍し、城下町の賑わいのために尽力しています。
また、栗山大膳は「主君を直訴した罪」で盛岡藩に配流されることになりましたが、盛岡では罪人扱いされることもなく過ごしました。