美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

応仁の乱の中心人物

応仁の乱の主な中心人物は足利義政・日野富子・細川勝元・山名宗全の関係

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 室町幕府が衰退した理由とも言われる「応仁の乱」は、応仁元年(1467年)〜文明9年(1477年)の室町時代中期に発生した大規模な内乱(応仁・文明の大乱)です。

 

 

11年という長い争いにより、戦国時代へと続くキッカケとなった室町幕府の悲劇とも言われる大乱。

 

 

将軍後継・八代将軍・足利義政の後継を巡る争いが大きな要因でした。
義政の実子である足利義尚を将軍にしたいと考える勢力と、義政の実弟・足利義視を支持する勢力が対立しました。

 

 

それに加えて有力守護大名の家督争いです。

畠山氏と斯波氏という有力守護大名の家督争いも戦乱の引き金となった。

 

 

なお、管領家の対立:細川勝元と山名宗全という二大有力守護大名の対立が、幕府勢力を東西に分裂させ全国的な戦乱へと発展して行き、このような複数の要因が絡み合い、京都を中心に全国から20万を超える兵が集結し、11年年間にわたる戦争状態が続きました。

 

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主な登場人物は

足利義政

永享8年(1436年)〜延徳2年(1490年)、室町幕府八代将軍。

銀閣寺を建立するなど東山文化を盛んにさせたが、昨今の研究で傾いた幕府の財政と信頼を回復させようと努力していたことも明らかになっている。

 

 

義政は将軍としての職務をおざなりにし、銀閣寺を創建したり、芸術や文化に没頭した将軍として知られています。

 

 

 

日野富子

永享12年(1440年)〜明応5年(1496年)、足利義政の正室。9代将軍・足利義尚の母、夫婦仲は冷めており別居。

 

 

政治にに介入し利殖に励んだことから「天下の悪妻」とも言われたが幕府の財政を支えていた。

 

 

父は蔵人右少弁・日野重政、母は従三位・北小路苗子(北小路禅尼)。

兄弟に勝光・永俊(第11代将軍・足利義澄の義父)、質治(日野兼興の養子)、妹に良子(足利義視の正室)、第9代将軍・足利義尚の母。

 

 

日野富子は、永享12年(1440年)、足利将軍家と深い姻戚関係を持つ公家の日野家に生まれ、16歳で足利義政の正室となった。

 

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細川勝元

永享2年(1430年)〜文明5年(1473年)、東軍の総大将

土佐(高知)・讃岐(香川)・丹後(京都・兵庫)・摂津(大阪・兵庫)の守護大名。

 

 

室町幕府16・18・21代管領。土佐国・讃岐国・丹後国・摂津国・伊予国守護。細川氏宗家(京兆家)11代当主。

 

 

足利一門の三管領として並ぶ斯波氏(武衛家)・畠山氏(金吾家)と競いつつ室町幕府に重きをなし、将軍を補佐して幕政を統括した。

 

 

幕府が二分して争われた応仁の乱で、東軍総大将として西軍の山名宗全と対立したことで知られています。

 

 

永享2年1430年)14代室町幕府管領・細川持之の嫡男として誕生、幼名は聡明丸でした。

 

 

嘉吉2年(1442年)8月に父・細川持之が死去13歳で家督を継承し、この時に七代将軍・足利義勝から偏諱を受けて勝元と名乗り、叔父の細川持賢に後見されて摂津・讃岐・土佐の守護になった。

 

 

文安2年(1445年)、畠山持国(徳本)に代わって16歳で管領に就任すると、以後3度に渡って通算23年間も管領職を歴任し、幕政に影響地力を及ぼし続けた。細川勝元管領※1に就任していたのは、文安2年から宝徳元年(1449年)、享徳元年(1452年)から寛正5年(1464年)、応仁2年(1468年)7月から死去する文明5年(1473年)までである。

 

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※1管領という役職

室町幕府の役職で、足利将軍に次ぐ立場にあり、将軍を補佐しながら政務全体を統括する役割を担い、鎌倉幕府の「執権」に相当する役職ですが、管領は、将軍を補佐する重要な役職ですが、執権が政治の実験を握っていたのに対し、管領はそれほど強い立場ではなく、あくまで将軍の補佐、全国の守護大名の統括という立場でした。

 

 

室町時代の中期以降は、足利氏の一族で「斯波氏」「細川氏」「畠山氏」の三家が持ち回りで就任したため「三管領」と呼ばれた、これは権力の集中を防ぐため、応仁の乱が勃発すると、将軍と管領が対立し、管領はやがて形骸化し衰退して行った。

 

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山名宗全

応永11年(1404年)〜文明5年(1473年)、西軍の総大将

播磨(兵庫)・安芸(広島)・の守護大名。

 

 

細川勝元と最初は協力して室町幕府を助けていたが、さまざま大名家の跡目争いで対立して行った。

 

 

応永11年(1404年)5月29日〜文明5年(1473年)3月18日、室町時代の武将、守護大名、家系は新田氏庶流の山名氏。

 

 

先祖は、鎌倉幕府を倒した「新田義貞」の新田氏で源氏一族の庶流で、日本66ケ国のうち6分の1を治めたことから、山名氏は「6分一殿」と呼ばれました。

 

 

守護大名の勢力拡大を恐れた室町幕府第3代将軍・足利義満により、山名氏の領地は3ケ国に削減され、山名宗全の時代になって西日本を中心に多くの領地を回復。

 

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室町幕府の四職※2の家柄で侍所頭人。

但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。

山名時熙の三男で、母は山名氏清の娘。

諱は持豊で、宗全は40歳で出家後の法名です。

 

 

室町幕府第6代将軍・足利義教を暗殺した赤松満祐を倒し領地を獲得し、これにより8ケ国もの領地を持つ有力守護大名となった。

 

 

応仁の乱の西軍の総大将として知られ西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。

 

 

応永11年(1404年)5月29日、現在の兵庫県豊岡市に山名時熙の三男として生まれる。

 

 

応永20年(1413年)10歳で元服、四代将軍・足利義持の名を一次を賜り持豊を名乗る。

 

 

応永28年(1421年)12月、持豊は初陣として父の従弟に当たる因幡守護山名煕高とともに備後国人の討伐に向かい、翌年(1422年)に京都へ戻った。

 

 

応永27年(1426年)、長兄満時が死去し、後継問題が浮上した。

応永35年(1428年)に山名時熙が重病になり持豊を後継にしようとするが、6代将軍・足利義教が自分の側近であった次兄・持熙を後継に立てるように命じた。

 

 

間もなく、時熙の病状が回復したために一度は先送りになったが、将軍の意向が示されたことで山名氏は動揺した。

 

 

ところが、永享3年(1431年)5月には持熙が義教の勘気を受けて廃嫡されててめ、永享5年(1433年)8月9日に家督を相続、但馬、備後、安芸、伊賀4ヶ国の守護大名になった。

 

 

病気がちの父に代わって将軍・義教に仕え、永享7年(1435年)には父が死去、同9年には持豊の家督相続に不満を持った持熙が備後で挙兵したがこれを鎮圧する。

 

 

永享11年(1439年)、山名持豊は正四位下左衛門佐に任官し、翌年(1440年)には幕府侍所頭人兼守護となる。

 

 

※2.四職とは

四職(ししき)とは、京極、山名、赤松、一色の四家です。

この四家のことをまとめて四職と呼びます。

室町幕府の軍事招集・指摘と京都市中の警察・徴税等を司る侍所の長官(頭人、所司)に交代で任じられた守護大名の赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏の四氏を指して「四職」と称した。

 

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細川勝元と山名持豊の関係

山名宗全に匹敵する力を持つ守護大名・細川勝元がいたので、宗全は争いを避けるため娘を細川勝元に嫁がせ、また、息子養子に出し協力関係を作ろうとします。

 

 

だから山名持豊(宗全)と細川勝元はは(しゅうと)と娘婿の関係ですが、政治上で意見の相違で仲が悪かったことにより、そんななか、守護大名・畠山義就と畠山政長の間で家督あ争いが勃発、この時、山名宗全は畠山義就に細川勝元は畠山政長に肩入れしたため争いは泥沼花。

 

 

そして、将軍家の跡継ぎとして、山名持豊(宗全)は将軍・足利義政と日野富子の実子の足利義尚を、一方細川勝元は将軍の実弟の足利義視(養子)を担ぎで応仁の乱を応仁元年(1467年)に対立した。

 

 

-応仁の乱の中心人物

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。