足軽は、鎌倉時代(1185年〜1333年)にはすでに存在していたと言われています。
騎馬戦や個人戦が多かった時代から、歩戦による集団戦闘が主流になった鎌倉時代末期以降に、その姿が顕著※1にみられるようになりました。
※1.顕著(けんちょ)とは、はっきり目立つさま。いちじるしいさま。「ーな現象」
足軽は「足軽く駆け回る者」という意味で、戦国時代・桃山時代(1467年〜1600年頃)に広く使われるようになりました。
足軽は武士身分だけでなく、さまざまな階層によって構成されており、農村で食いつぶしていて足軽に転身する農民も存在しました。
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応仁の乱では、農民や浮浪人が足軽と称し、放火や略奪などの奇襲戦法を用いました。
東西両軍はこうした者たちを雇い入れ。
悪党ではなく足軽という比較的穏やかな表現で呼ばれるようになって行きました。
戦国時代になると、足軽は弓足軽、鉄砲足軽などに進化を遂げました。
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応仁の乱で戦力
足軽の登場は平安時代の末期とされ、当時の資料では「足白・足がろ」などの名称で、すでに記録されています。
その当時の足軽は主に雑用を担当する役割でしたが、鎌倉時代中期以降、戦闘に参加する歩兵としての役割が増して行き、次第に合戦の規模が拡大すると、足軽は公然と打物(刀や薙刀)をとって主人とともに戦う徒歩兵と化して行くのでした。
特に、鎌倉時代に起こった蒙古襲来や土地制度の崩壊から出現する悪党との戦いで様相が変化し一騎打ちの騎馬戦から山塞を攻め合う徒歩戦が主流となると足軽兵は重宝されていきました。
室町期足軽が徒党を組み悪事も働く
さらに、南北朝・室町と時代が下がり、一揆(江戸時代の農民一揆と異なる地域住民の完全な戦闘同盟)や京での慢性的な小戦が発生。
あぶれ者たちが徒党を組む「足軽働き」も始まる。
当時の貴族が「足がるという者、長く停止せらるべき事(中略)或いは火をかけて財宝みさぐる事はひとえにひる強盗というべし」(一条兼良文書)と嘆くほど、彼らは社会問題化すた。
応仁の乱で戦力化
室町時代には、名も無い農民や浮浪人が足軽と呼ばれる戦闘員として動員されるようになった。
騎馬兵による一騎打ちを基本とする、それまで中心だった個人戦から集団戦に戦法が変化をし始めたのです。
足軽とは、「歩行が素早い歩兵」という意味で、ゲリラ戦を得意とします。
武士が着用するような甲冑などを身に纏わず、ただ刀や槍を持って縦横無尽に動き回り敵を撹乱していきました。
戦乱の中の各武将たちにとって、より戦闘能力の高い戦いを可能にさせ、応仁の乱の頃には、いよいよ戦闘の中心を担うようになっていきます。
足軽たちは、神社仏閣に火を放ち略奪を繰り返したため、相手方からは大層恐れられ、応仁の乱で京都のあっちこっちに火を放ったのも、こうした足軽だったと伝えられています。
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太田道灌の部隊が有名
足軽を使った戦法では、関東管領の一流である扇谷上杉家の重臣・太田道灌が知られています。
太田道灌は15世紀後半上杉家による武蔵を目指して転戦した際、最新の戦術を駆使しました。
中でも、プロの戦闘集団として鍛え上げらええた足軽隊は、連戦連勝の成果を上ました、16世紀半ばに入って鉄砲が多くの戦闘の場で使われるようになって行くと、戦いの中心は鉄砲隊や足軽隊による集団戦法に完全に移っていきます。
騎馬武者の衰退は、鉄砲の標的になりやすいことが大きな要因でした。
後に登場する織田信長は、こうした足軽鉄砲隊の戦術をいち早く取り入れ、最強といわれた武田氏の騎馬隊に勝利したことで知られています。
太田道灌が足軽を使う戦術
太田道灌は足軽を上手に使った理由は、彼の戦術的な革新と戦場での実践的な工夫にあります。
そして、太田道灌の戦術は、当時の戦争のあり方を大きく変え名将としての評価を高めた。
少数精鋭の戦術
大田道灌は手兵が少なかったため、農民を訓練して足軽隊を編成しました。
これにより、少数の兵力でも効果的に戦うことができました。
奇襲戦法
足軽隊を枯れ葉の中などに隠し、敵軍を誘い出してから攻撃するという戦法を用いました。
この戦法は「兵は詭道なり」という孫子の兵法に基づいており、敵を欺くことで勝利を収めました。
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集団戦法の導入
太田道灌は、従来の騎馬武者による一騎討ちを排し、足軽を活用した集団戦法を導入しました。
これにより迅速かつ組織的な戦闘が可能となり応仁の乱などで大いに活躍しました。
大田道灌の幼少期
備中守大田資清の子として誕生しました。
父・資清も扇谷上杉家の家宰※2でした。
※2.家宰(かさい)とは、室町時代の武家に多くみられた一家或いは一門内の一種です。家長に代わって家政を取り仕切る職責のことで、家事を宰領するという意味合いからこの名が付いた。関東管領を務めた山内上杉家や扇谷上杉家では筆頭重臣として家宰が置かれ、山内上杉家では長尾氏一族が代々任命され、扇谷上杉家では大田氏が家宰を務めた
幼少時から才覚を現わし9歳で鎌倉建長寺に預けられ勉学に励み、既に11歳で文章に通じていました。
15歳の頃才をひけらかす道灌を、父・資清「障子は真っ直ぐであるから立つ、曲がっていては立たない」と戒めると、道灌は屏風を指して「曲がっているから立つのであって真っ直ぐでは立ちません」と反論したそうです。