この川中島の戦いは武田信玄と上杉謙信の間で行われ第1次〜第5次の12年間続いた合戦です。。
皆さんも漠然と武田信玄と上杉謙信の名前で戦ったと思っていることでしょう、それが実際は、武田晴信と長尾景虎という名前でほぼ戦ったんです。
武田晴信が武田信玄になったのは永禄2年(1559年)です。
一方の長尾景虎が上杉謙信に出家して名前を変えたのは、元亀元年(1570年)の41歳の時です。
因みに、武田信玄が西上作戦を実行したのは、元亀3年(1572年)9月〜元亀4年(1573年)にかけて行われた甲斐武田氏による遠征です。
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この川中島の戦いは、北信濃(現・長野県北部)の支配権を争った戦いです。
天文22年(1553年)〜永禄7年(1564年)にかけて、第1次は天文22年(1553年)の布施の戦い・第2次は弘治元年(1555年)の犀川の戦い・第3次は弘治3年(1557年)の上野原の戦い・第4次は永禄4年(1561年)の八幡原の戦い・第5次は永禄7年(1564年)の塩崎の対陣の計5回にわたって戦われました。
武田信玄の誕生は、大永元年(1521年)、一方の上杉謙信の誕生は、享禄3年(1530年)、信玄は32歳、謙信は23歳の時です。
武田晴信=武田信玄32歳、長尾景虎=上杉謙信23歳でした。
川中島の戦いは何で勃発したか
川中島の戦いはどうして起こったか?という疑問が浮かびます。
甲斐の武田晴信=武田信玄と越後の長尾景虎=上杉謙信の間で、信濃の覇権を巡って行われた合戦です。
直接的な戦いの原因は、村上義清※1や高梨政頼※2などの豪族が信玄に追われて上杉謙信に救いを求めたことが戦の始まりです。
※1.村上義清とは、戦国時代の武将で、北信濃の戦国大名です。
父は左衛門督村上顕国(頼平・頼衛)、母は室町幕府三管領家の斯波義寛の娘。
家臣の出浦国則の妻を乳母としてる、正室は信濃守護・小笠原長棟の娘です。
信濃埴科郡葛尾城主で、武田晴信=(武田信玄)の侵攻を2度撃退してます。
家督相続時には、佐久郡・埴科郡・小県郡・水内郡・高井郡など信濃の東部から北部を支配下に収め、村上氏の最盛期に当主となっていた、実質的には戦国大名としての村上氏最後の当主となった人物です。
※2.高梨政頼とは、戦国時代の武将で、信濃国中野を拠点とする国人。
武田晴信=武田信玄は領土拡大を目指し信濃国に侵攻して各地を制圧し、さらに北信濃に侵攻、川中島地方の豊かな穀倉地帯を押さえることを目的、川中島は犀川と千曲川が合流する地点で、越後と信濃を結ぶ交通の要所に目をつけた。
川中島の戦いは、天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)までの12年間で5回に渡って繰り広げられた。
最も有名な合戦は、第4次は永禄4年(1561年)の八幡原の戦いなので、まだ上杉謙信にはなってなく、上杉謙信になったのは、41歳の元亀元年(1570年)に上杉謙信になっています。
※.上記の上杉謙信をクリックして頂くと詳しい記事があります。興味のある方は読んでください。
第1次は天文22年(1553年)の布施の戦い
天文22年(1553年)に行われた、「布施の戦い&更科八幡の戦い」が最初です。
長尾景虎=上杉謙信が北信濃の国人衆を支援して武田晴信=武田信玄と初めて戦った合戦です。
ことの始まりは、同年4月、武田晴信=武田信玄が領土拡大のため北信濃へ軍を出兵して小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻めたため、支えられなくなった村上義清は葛尾城を捨てて越後国へ逃亡し、長尾氏と縁戚につながる高梨氏をたよって景虎に支援を求めたのが始まりです。
5月に村上氏は北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵5000を率いて、武田軍に反攻し、八幡の戦いで勝利します(現・千曲市八幡地区、武水別神社付近)。
武田晴信は一旦兵を引き村上義清は葛尾城を取り返しに成功し、7月に再び北信濃に侵攻して、村上方の諸城を落として村上義清の立てこもる塩田城を攻めてきた、8月村上義清は再び城を捨て越後国へ逃げる。
9月1日長尾景虎は、自ら兵を率いて北信濃へ出陣して、布施の戦い(現・長野市篠ノ井)で武田軍の先鋒を破り軍を進めて荒砥城(現・千曲市山田地区)を落とし、3日には青柳城を攻め、景虎は八幡原まで兵を退いいた。
一旦は兵を塩田城に向けなおし塩田城に籠った武田晴信が決戦を避けたため、長尾景虎は一定の戦果を挙げたとして9月20日越後国へ引き揚げた。
一方武田晴信も10月17日に甲斐国・甲府へ戻った。
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第2次は弘治元年(1555年)の犀川の戦い
西川の戦いは、武田方・長尾方の両軍の力が拮抗しているため、犀川を境にして睨み合いが続きました。
武田晴信=(まだ信玄にはなっていない)としては、長尾景虎=(まだ謙信にはなっていない)の主力を調略によって崩したわけでもなく、策もなく正面からぶつかってイタズラに兵を失いたくなかった。
敵陣に隙が見えないため景虎も動かず、武田方も動かず5月・6月静観してます。
意を決した長尾景虎が7月19日になって、犀川を渡河して交戦になった。
こうして2度目の対峙は、なんと200日間にも及ぶ膠着状態が続き長期戦になった。
今川義元の仲介で決着する
長期対陣によって兵糧の問題や士気の問題などで次々と浮上し、晴信も景虎も頭を痛めて苦労していた。
武田晴信=(信玄)は、味方の士気を上げるために、対陣中に知行地を与える約束した。
『歴代古案』によれば、9月10日には、諏訪上社神長官である守矢頼真に怨敵退陣の祈願を依頼して、9月25日には水内郡(長野市)の社領を安堵。
10月5日には、7月の戦功の賞として、小島修理亮と同心7人に高井郡高梨のうち河南1500貫を与えると約束している。
長尾景虎も長期戦を覚悟しており、家臣らに「対陣が何年に及ぼうとも在陣する」ことや「陣中での喧嘩は成敗する」ことなど誓紙を提出させ家臣の士気を維持しようとしてます。
武田晴信は、これ以上対陣を続けても両軍とも消耗するだけと判断して、調停を今川義元に依頼して、10月15日には景虎と和議を結んだ。
和議を結ぶ条件として、晴信=(信玄)は最大限譲歩して「武田方の旭山城を破却する」むねとし、「川中島一帯に領土を持ていた井上氏、島津氏の帰国を提示しまし、長尾景虎は、この条件には満足したようで、因みに村上義清の領土については完全に武田領となっていたためか一言も触れませんでした。
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第3次弘治元年(1557年)の上野原の戦い
武田晴信の北信への勢力伸張に反撃すべき長尾景虎は出陣するが、武田晴信は決戦を避け決着はつかなかった。
弘治2年(1556年)6月28日、越後では宗心(景虎)が出家隠遁を図る事件起きています。
長尾景虎は長尾政景らの諫言※3られ、また、家臣団は忠誠を誓ってこれを引き止め出家は取り止めになっている。
※3.諫言(かんげん)とは、いさめること。
武田晴信は和睦後も北信国衆や川中島方面の国衆への調略を進めており、同年7月には高井郡の市河氏にも知行宛行を行って、8月には真田幸綱(幸隆)・小山田虎満(備中守)から東条氏が拠る長野盆地東部の埴科郡尼飾城(長野市松城町)を陥落させ、8月には景虎の家臣の大熊朝秀が武田氏に内通し挙兵する事件が起き、8月13日に越後駒帰(現・糸魚川市青梅)において主景虎に敗れると武田氏に亡命して武田の家臣になっている。
弘治3年(1557年)正月、長尾景虎=上杉謙信は更科八幡宮に願い文を捧げて武田氏討滅を祈願しています。
2月15日に武田晴信は相手方の前進拠点である水内葛山城(長野市)を落とし落合氏を滅ぼし、高梨政頼の居城である飯山城に迫り、高梨氏からしきりに援軍要請を受けていましたが豪雪のために出陣が遅れ、4月18日になってようやく国境を越えて信濃に入れた。
景虎は進軍中、山田城の要害(現・上高井郡高山村)や福島城(現・須坂市)を武田方から奪取して21日に善光寺に到着しました。
横山城に着陣して、さらに破却されていた旭山城を再興して本営とした。
5月に景虎は5月12日には高坂城(現・上水内郡牟礼村)を攻めて近辺に放火し、続けて翌13日には坂木・岩倉(埴科郡坂城町)まで攻めましたが武田晴信は衝突を回避しています。
6月に入り、長尾景虎は飯山城に本陣を戻し野沢の湯(現・下高井郡野沢温泉村)に兵を進め市川藤若を攻めました。
市川藤若は武田晴信に援軍を要請しており、これに対して晴信も6月23日の2度おわたり援軍派遣に関する内容の書状を送っています。
結局、長尾景虎は市川藤若を降ろすことが出来ず飯山城に引き返した。
7月初旬には、武田晴信は安曇郡から善光寺へ本陣を移し、春日氏や山栗田氏を投降させ、尼飾城の小山田虎満に油断しないように指示しています。
さらに、長尾景虎方の飯森春盛らが守備する平倉城を陥落させました。
そして、8月19日に上野原で両軍がついに衝突したようですが、主力同士の衝突はなく、前線部隊の局地的な小競り合い程度で終わったのです。
長尾景虎は旭山城を再興したのみで大きな戦果もなく、9月には越後国へ引き揚げた。
武田晴信も10月には甲斐国へ帰国した。
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足利義輝のあせりで仲介で和睦した
この頃、京では室町幕府の将軍・足利義輝が、三好長慶、松永久秀と対立し近江国高島郡朽木谷(現・滋賀県高島市)へ逃れる事件が起きている。
足利義輝は勢力回復のため長尾景虎の上洛を熱望していたため、和睦を勧告する御内書を送ったが、合戦の最中の6月のことで、景虎は将軍・足利義輝からの和睦を承諾した。
武田晴信は和睦の条件として足利義輝に信濃守護職を要求し、永禄元年(1558年)正月16日に武田晴信は信濃守護、嫡男・武田義信は三管領に補任された。
武田晴信が高梨氏館の中野城を落とす。
武田晴信は永禄2年(1559年)2月に晴信から信玄と名乗っているので以後は信玄という名で書きます。
同年3月、長尾景虎の有力な盟友であった高梨氏の本拠地の中野城(長野県中野市)を武田信玄に落とされ、飯山城(現・長野県飯山市)に後退した。
長尾景虎は残る長尾方の北信国衆への支配を強化して実質的な家臣化を進める。
景虎は、この年の4月に上洛を果たして将軍・足利義輝と会談し、足利義輝より三管領や足利一門に匹敵する様々な特典を授与された。
更に、北信濃を長尾氏の分国であると認定し、信濃国衆の扱いについては長尾景虎に意見する権利を認めた。
つまり、長尾景虎はこの問題に間しては将軍に代わって守護である武田信玄を指摘命令する権限を与えられたことなった。
当然、武田信玄はこれを許容せず、長尾景虎は信濃出兵を自己の権限で行う大義名文を獲得することになった。
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第4次は永禄4年(1561年)の八幡原の戦い
第4次の八幡原の戦いは永禄4年(1561年)の9月9日〜10日にかけて行われました。
この日付を現在のグレゴリウス暦の暦日に変換すると1561年10月27日~28日となります。
ということはこの戦いは季節で考えると、今頃の時期に起こったものです。
戦国時代の名将といえば真っ先に名が挙がる越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄の両雄が戦ったことで有名な川中島の戦いですが、「川中島の戦い」自体は、天文22年~永禄 7年(1553~1564)の12年間に及ぶ戦いの総称です。
この12年間の間に越後・甲斐両軍が対峙したのは計 5回ですが、その中で最大の戦闘が行われたのは第四次川中島の戦い、永禄 4(1561年)のことです。
この戦いはその主戦場となった地名、八幡原の名をとって八幡原の戦いとも呼ばれます。
この時の両軍の勢力は越後軍 1万3千、甲斐軍 2万、越後軍が甲斐軍の本陣まで切り込み、馬上の謙信が床机に腰掛けた信玄に斬りかかり、信玄はこれを手にした軍配で避けるという講談や軍記物で知られた名場面はこの戦いの最中に起こったこととされます。
もっとも、残念ながらこの絵になる名場面は史実ではないとされます(ただし、一方の総大将である上杉謙信自身、刀を振るって戦った程の激戦であったのは事実のようです)。
妻女山に布陣した越後軍を数で勝る甲斐軍が軍を二つにわけ、別働隊は背後から越後軍を攻め、越後軍が山を下りたところを本隊が正面から攻めるという挟撃戦法をとったのに対し、この動きを事前に察知した越後軍が夜陰に乗じて密かに下山、朝霧が晴れる頃には別働隊の攻撃が始まるのを待っていた甲斐軍本隊前に忽然と姿を現して、八幡原の戦いとなりました。
永禄4年(1561年)の今日の今頃は、鶴が翼を拡げたような形の鶴翼の陣(かくよくのじん)の甲斐軍と軍をいくつもの隊に分け、その隊を次々に繰り出す車懸の陣(くるまがかりのじん)で責め立てる越後軍との激闘が行われていたはずです。
八幡原の戦いは越後軍 3千人、甲斐軍 4千人の戦死者を出してこの日の午後には終了。
両軍とも軍を引きました。
なお、甲斐軍はこの戦いで最高幹部の武田信繁、諸角虎定両将を失った程の激戦でしたが、両軍とも決定的な勝利を得るには至りませんでした。
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第5次は永禄7年(1564年)の塩崎の対陣
永禄7年(1564年)3月18日、武田信玄は信濃国境に兵を出して、野尻城(現・信濃町)を落とし、しかし、景虎も5月には取り返し善光寺に陣を進め信玄を牽制し、さらに8月1日更科八幡宮に願文を捧げ勝利を祈りました。
景虎が上州(現・群馬県)東南端の小泉城主・富岡重朝に送った手紙(『信濃史料』に、「7月29日、川中島に兵を進めた。
近日中には佐久郡へ押し通るつもりでいる。
その後ただちに碓氷峠口に向かう」とあるように、この際一挙に勝負をつけようと、盛んに信玄に挑戦しますが、信玄は塩崎まで出陣したものの、ついに合戦は行われなかったため、60日に近いにらみ合いの末、景虎は10月1日越後春日山に帰らざるを得ませんでした。
後世、5回にわたる川中島の戦いの結果は、甲州の勝ちか、越後の勝ちか、あるいは互角かと、話題になりますが、川中島で食い止めることができず、信玄に北上を許したということは謙信の劣勢を認めざるを得ません。
景虎は、飯山城を核に高井郡、水内郡の一部を確保したにとどまり、信玄は北信濃のほぼ全域を手中に納めました。