国内統一を果たした秀吉が、なぜ、朝鮮に出兵を考えたか?
自分の考えなのか?誰かにそそのかされたのか?
全国の大名を大量動員して、文禄元年(1592年)〜文禄2年(1593年)までを「文禄の役」といい〜慶長3年(1597年)〜慶長4年(1598年)を「慶長の役」を戦ったが、その最中に秀吉が亡くなった。1598年8月18日)。
秀吉の目的は、朝鮮(現・韓国、北朝鮮)を通過して明(中国)を征服するという壮大な大陸進出計画を実行した。
おりしも、弟・豊臣秀長亡き後だった。
文禄元年(1592年)の“文禄の役”と慶長2年(1597年)の“慶長の役”を起こしました。
その時、朝鮮出兵を行った諸将に対し、戦いの最中、大量の手紙を送りつけ、その多くは叱咤・激励・無理難題とかが混じり、秀吉が晩年のため焦りや混乱が生々しく映し出されています。
“文禄の役”は戦力や装備が勝る日本軍が1ヶ月で首都「漢城」(現・ソウル)を、2ヶ月後に小西行長が「平壌」を進撃、加藤清正が現在の北朝鮮北部に侵入して朝鮮全域を席巻します。
途中で明軍が援軍に加わって押し寄せ、「漢城」を攻めてきて日本軍が窮地に追い込まれ勝ち負けはつかずに「和議」を結んで日本に撤退した。
これを文禄の役といいます。
歴史的背景とともに分かりやすく解説していきます。
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そもそも「文禄・慶長の役」の手紙とは?
秀吉が、各諸将に出した書状の総称です。
島津義弘宛の書状
島津義弘は、九州の大名として「文禄の役」と「慶長の役」に参加、秀吉は、島津に対して朝鮮戦線での活躍を評価しつつ、更なる奮闘を求める手紙を送っています。
文禄の役では4番隊に所属し、一万人の軍役を命じられたが、国元の体制や梅北一揆により軍役動員がはかどらなかったが、義弘は軍役を果たすため大隈国粟野の居城を23歳で出立して期日までに到着した。
国元から送られてくる軍船・軍勢が延引した。
そのため、義弘は書状に、「龍伯様※1のおんため、御家のおんためと存じ、身命を捨てて名護屋へ予定通り参ったのに、船が延引したため、日本一の大遅陣となってしまい、自他の面目を失ってしまった無念千万である」と書くほど、島津の軍勢は遅陣となった。
※1.龍伯様(りゅうはくさま)とは、彼の兄である島津義久のことです。
島津義久は、豊臣秀吉による九州永定後に家督を子の島津忠恒に譲り、隠居して剃髪した際「龍伯」という法号(出家後の名)を用いました。義弘は、この兄(島津義久:龍伯)に対し生涯敬意を払い「龍伯様」と呼んでいた。また、義弘も隠居して「惟新斎」と号しています。
その後、島津の軍勢は毛利吉成の後を追って江原道に展開し、また、和平交渉中の文禄2年(1,593年9月)、朝鮮滞在中に嫡男・久保を病気で失ったが、日本側の記録によると朝鮮の役で島津義弘は「鬼石曼子」と朝鮮・明軍から恐れられたとされている。
【内容は】
秀吉が文禄の役で島津義弘に送った手紙、戦況報告や命令ではなく、主に戦功を称えたり、撤退の指示や領地に関する内容が中心で、特に有名なのは、”「鼻」を証拠として送るよう命じた(慶長の役だが関連)“ことや、島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工たち(薩摩焼の祖)に関する後世にに伝わります。
秀吉から義弘への直接の書状としては、朝鮮出兵中の秀吉が北政所(妻)に送った書状が、「野望と戦況悪化の認識」を示し、島津家が関わる記録では、「島津義久・義弘の忠誠を求める内容」が確認でき、義弘への具体的な手紙の内容は「名護屋(日本軍の拠点)にいる諸将への一般的命令や連絡」が主で、秀吉の威光と命令が強く示されていました。
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島津義弘への書状に見られる内容(推測・関連記録
◇軍事的な命令・指示 / 秀吉は各地の大名に朝鮮出兵を命じており、島津義弘もその1人として、釜山浦からの撤退時など、具体的な行動指示を受けたとされます。
◇戦功の奨励と報告の要求 / 文禄・慶長の役を通じて、明の兵士の首を削って送る「鼻削ぎ」という行為が始まり、義弘も多くの首(後に鼻)を送ったされ、これは秀吉への手柄報告の一環でした。
◇「朝鮮国王の参洛(参上)要求 / 秀吉は朝鮮王国にも、日本国内の諸大名と同じように「参上せよ」と要求し、従わなかったら攻撃するという論理を適用しました。
秀吉から島津家への具体的な記録
◇天正15年(1587年)の書状 / 秀吉は島津義久宛に、九州平定後の忠誠を求め、薩摩一国を領知させることを伝える内容の書状を送っています(文禄の役の前)。
◇北政所への自筆書状(文禄の役中)/ 文禄2年(1592年)6月3日頃、名護屋から北政所に宛てた書状で明征服への野望とともに、戦況悪化を認識していた様子がうかがえ、これは島津家所蔵史料から発見されています。
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文禄の役における秀吉の姿勢
◇「日本国王」への称号授与 / 明の使節から「順化王(日本国王)の称号と金印を授与する」という内容が伝えられ、秀吉は、明が降伏したと誤解していたことを知り激怒。
この報復として慶長の役を決意した。
◇欺瞞外交※2 への怒り / 明との調和交渉で、日本側と明側が内容を書き換えたため秀吉は欺瞞に激怒して再出兵を決めた。
※2.欺瞞外交(ぎまんがいこう)とは、自国の真の意図や目的を隠し、相手国や国際社会を欺くことによって、自国に有利な状況を作り出そうとする外交を指します。表向きは平和的な解決や友好関係を装い「ながら、実際には裏で軍事的・政治的な利益を追求したり、虚偽の情報に基づいて交渉を進めたりする点が特徴です。
加藤清正と小西行長の命令書
文禄2年(1593年)頃の秀吉から加藤清正・小西行長への書状の内容は、文禄の役(朝鮮出兵)の状況報告を求めつつ、降伏した朝鮮側の「偽りの降伏使節」の件(明への「関白降表」提出)など、講和交渉の動きに対する秀吉の不信や苛立ち、そして「明を征服する」という当初の目的への再度の出兵、または「油断せず、皆で相談して円滑に進めよ」という指示が中心でした。
特に小西行長が明との交渉で秀吉の意向を無視した行動(「わび状」の偽造・提出など)に対して、秀吉が激怒し、行長に「不忠義」として「武功を立てて罪を償え」と厳命する内容が、後の書状や記録から読み取れます。
書状にみられる主な内容・背景
◇降伏使節の怒り/ 小西行長らが秀吉の知らないところで明との偽りの降伏交渉を行い、明から「日本国王」冊封の約束を取り付けたことに対して、秀吉は激怒した。
この「偽り」の行動を厳しく叱責し、行長に「不忠義」の罪を償うため「武功を立てよ」と命じた。
◇明国制服へと執着と苛立ち / 秀吉は「明国制服」という当初の目的を認めず、講和交渉で妥協しようとする文治派(石田三成ら)と対立。
清正ら武断派には、「油断せず、全力を尽くせ」と指示し、行長・三成らのは「(明を)征服するまでは帰るな」と厳命しました。
◇補給や軍事への具体的な指示 / 秀吉に対し食糧調達や軍備増強など、後方支援的な役割を期待し、その能力を評価していました。
これは、戦況が膠着し、補給が重要になる中で、清正の経済・調達能力を買っていたためです。
◇油断するなという忠告 / 秀吉は「異国(朝鮮)の者がそんなに強くないと思って決して油断しないように」と清正に送った朱印状(文禄1年(1592年)3月23日付)で忠告しています。
これは、朝鮮の義兵の抵抗や明の援軍で苦戦する状況を踏まえたものです。
秀吉の苛立ち
文禄2年(1593年)の秀吉の書状は、文禄の役(壬辰倭乱)が泥沼化する中で、小西行長の独断での講和交渉への不信、武断派への期待と厳命、そして「明国征服」という野望への執着が色濃くでており、清正や行長、三成ら武将たちの思惑が交錯する中で、秀吉の苛立ちと命令が強く反映された。
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秀吉の怒り
内容は大きく3つに分かれます。
諸将への叱咤状
戦況の遅れや内部分裂に対して烈火の如く叱咤しました。
武功を立てる心がない。
命令に背けば成敗する。
なぜ、戦いが遅れているのか?
現場の事情をほとんど無視した苛烈※3な内容が特徴です。
※3.苛烈(かれつ)とは、酷いほど、厳しく激しい。
講和交渉に関する指示
明との講和交渉※4に関して複雑かつ強硬な条件を武将たちに指示したけど、しかし、交渉の実態は武将や外交僧たちによる内容の偽装や独断が多く含まれており、秀吉の意図通りには進みませんでした。
※4.講和交渉とは、戦争を終結させ、平和な状態(国交)を回復するために、交戦当事国同士が行う条約終結に向けた話し合いのことです。
平和条約を結ぶための会議(講和会議)で、領土問題、賠償金、通商関係など具体的な条件が協議され、合意に至ると戦争が完全に終わります。
文禄の役後、戦線が膠着状態に陥ると、日本(豊臣秀吉)と明の間で交渉が開始され、この交渉は、主に以下の人物によって進められました。
日本側交渉担当者:小西行長、対馬領主、宗義智、外交僧の景轍玄蘇らです。
一方、明側交渉担当者:沈惟敬らです。
秀吉が、小西行長や石田三成ら朝鮮奉行に指示した和議条件は非常に強硬で、以下の7ヵ条が主要なものでした。
1.明の皇女を日本の天皇の后とすること。
2.勘合貿易※5(日明貿易)を復活させること。
※5.勘合貿易とは、室町時代に日本と明(当時の中国)の間で行われた貿易で、正式な貿易船を倭寇※6や密貿易船と区別するために「勘合苻」という証書を使ったことから名付けられました。
▲勘合貿易の船
室町幕府の足利義満が開始し、財政難の打開と倭寇の取り締まりを目的にしたものです。
※6.倭寇(わこう)とは、13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国沿岸を襲撃した海賊集団のことで、日本や中国「、朝鮮の支配者層が用いた呼称です。
期間(14〜15世紀)は日本が主体で、後期(16世紀)は中国人が主体となるほど、日本人だけでなく様々な国籍の人々で構成され、略奪や密貿易を行いました。
室町幕府の勘合貿易や明との関係、国内の政治状況(南北朝の争乱、応仁の乱など)が倭寇の活動に影響を与え、東アジアの国際情勢を大きく変えました。
3.朝鮮南方の四道(慶尚道、全羅道、京畿道、忠清道の一部または全部)を日本領として割譲すること。
4.朝鮮王子を日本へ人質として送ること。
5.明の使節が来日して秀吉に降伏を認め、冊封※7を行うこと。
※7.冊封(さくほう)とは、中国皇帝が周辺諸国の君主(国王など)を任命し、称号や爵位※8を与える制度で、「冊(勅書)と「封(封建)を意味し、名目上の君臣関係(宗主国と藩属国関係)を結び、中国の権威を周辺に及ぼす体制(冊封体制)を指します。
これにより、冊封国は中国皇帝の権威で国内統治を安定させ、中国側は朝貢・礼節を受ける代わりに保護の義務を負いました。琉球王国などがこれを受け、日本でも足利義満などが冊封を受けた例があります。
※8.爵位(しゃくい)とは、王や国家が臣民に授ける“貴族の身分や階級を示す称号”で、血統による世襲や国家への褒賞としてあ与えられ、公爵・候爵・伯爵・子爵・男爵などの階級(五爵(が一般的です。ヨーロッパの君主制国家で発展し、日本でも明治時代の「華族令」で公・候・伯・子・男の五爵制が導入されましたが、現在は廃止または形骸化されています。
6.朝鮮の捕虜を解放すること。
7.朝鮮国内に駐屯する日本軍の安全を保護すること。
以上の事を相手国に付きつけました。
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相手国の対応と結果
これらの条件は明や朝鮮側が到底受け入れられる条件ではなく、秀吉の要求事項を、伝えても交渉が成り立たないと考えた、小西行長と明側の交渉担当者:沈惟敬らは、互いのトップ(秀吉と明の皇帝)に都合の良いように交渉文章内容を偽って報告した。
明への偽報告
小西行長らは、秀吉が明に降伏したとする偽の降表(降伏文書)を作成して明側に提出。
秀吉への偽報告
明側は、秀吉が望んでいた、「明が日本に和平を請う」という形を演出して、秀吉を「日本国王」に冊封するという使節を派遣。
明の使節が秀吉に謁見
慶長1年(1596年)、明の使節が大阪城で秀吉に「日本国王」の称号と金印を授与しようした際、秀吉は初めて明が日本を属国※9扱いしていることを知り激怒し、これにより偽りの講和は決裂した。
※9.属国とは、他の国に従属している国家、他の国の支配を受けている国。独立していない国。
秀吉は、再度朝鮮への出兵を命じ「慶長の役」が勃発しました。
結果として、秀吉の朝鮮出兵における講和交渉に関する指示は、現地武将による現実的な判断に基づく改ざんや偽装によって頓挫し、無謀な再出兵へと繋がりました。
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慶長の役の最中の死
秀吉の死の直前、緒戦半島では、日本軍が南部沿岸に築いた倭城(蔚山城、泗川城、順天城など)で、明・朝鮮連合軍との激しい攻防戦が繰り広げてる最中に大阪城では秀吉が危篤状態でした。
病名は明確ではなく、「腎虚:じんきょ」説(過度な性行為による消耗)や「労咳:ろうがい」(肺病、結核など)説が有力で、晩年の胃がんだった可能性指摘されています。
特に、晩年の体調悪化は「醍醐の花見」の頃ら顕著になり、最晩年には後継者・秀頼の安泰を願う遺書を残し、慶長3年(1593年)8月18日に秀吉は大阪城で病死した。(享年62歳)。