飛騨市古川町には、中世に朝廷より飛騨の国司を任じられた「姉小路氏」、その後に南飛騨から勢力を伸ばし姉小路氏の名跡を継いだ「三木氏」、羽柴秀吉の命を受けて飛騨を統一した「金森氏」という3つの勢力が移りかわった。
姉小路氏城跡は、古川城跡・小島城跡・野口城跡・向小島城跡・小鷹利城跡の5つの城跡の総称※1です。
※1.総称(そうしょう)とは、ある共通点を持つ個々のものを纏めて、全体として呼び名でいうこと。また、その名前。
14世紀後葉※2に飛騨国司となり三家に分立した姉小路氏が、中世飛騨国の中心地である古川盆地の、各々の拠点に築いた中世の山城群です。
※2.後葉(こうよう)とは、後世。後代。「名をーに残す」。また、(その人の)未孫。時代を大きく区切った場合の、末ごろの一区切り。末期。
後に同地へ進出する三木氏や金森氏の手による改修された。
金森長近
天正13年(1584年)、越中富山城城主・佐々成政は、飛騨の三木自綱(姉小路頼綱)と手を組んで羽柴秀吉(豊臣)に敵対する姿勢をとっていたため、そこで秀吉は隣国の金森長近に三木自綱を討つため飛騨討伐を命じた。
金森長近は、飛騨に攻め入り短期間で平定されました。
その後、秀吉は長近に飛騨3万3千石を与えて越前大野から飛騨への転封を命じ、高山城を築城して高山の町を造り始めました。
▲金森長近
その後、秀吉の天下普請により各地を奔走し多忙を極めます。
慶長3年(1598年)秀吉が亡くなると、五大老の実力者だった徳川家康が、天下取りに動き出すと金森長近は信長以来の付き合いのあった家康に組し東軍についた。
天下分け目の関ヶ原の戦いも家康軍に付き、勝利後、美濃上有知一万8千石を加増され、金森長近は五万石の大名となり美濃上有知に小倉山城を築城して、高山を養子の可重に譲り叡居生活に入り、慶長13年(1607年)京都伏見にて85際で死去。
金森長近の出自
美濃源氏土岐氏の支流と称し、大永4年(1524年)、美濃多治見大畑(現・岐阜県多治見市)で誕生したとされています。
応仁の乱にて活躍した美濃国守護・土岐成頼の次男・大桑定頼の次男・大畑定近(金森定近)が一族を連れて美濃を離れ、寺内町として著名な近江国野州郡金森(現・滋賀県守山市金森町)に居住した。
「金森采女」を称したことに始まる。
金森町は、京都にも近く一向宗が盛んな所で寺内町を形成しつつも商業地としても栄え、町が自立して武装されたところで、そのような独立独歩の強い地域で少年期を過ごした。
やがて地名にあやかって姓を金森に改名した。
織田家に仕官して織田信長に仕える
五郎八可近(長近)18歳の時近江を離れて、尾張の織田信秀に仕える世になり信秀亡き後、信長に仕え尾張の各地を転戦、今川義元と戦う桶狭間の戦いで功績を認められ信長の「長」に字を与えられ名を「長近」と改め、さらに信長の親衛隊赤母衣衆※6に追加され、この時、金森長近32歳で織田信長が戦国武将として急速に力をつけ「上洛作戦」「長篠・設楽原の戦い」「武田征伐」など主要な戦いに参加していきます。
※6.信長の親衛隊赤母衣衆と黒母衣衆とは、織田信長を取り巻く親衛隊即ち、選り優れたエリート達の総大将の直轄部隊です。
色違いの「母衣」を背負う以外は本来ほぼ同格のエリート集団ですが、一部の記録では黒母衣衆の方が格上とされてたり、メンバー構成の差(黒が年長など)があったり、信長への近さや役割で区別されたと考えられます。
黒母衣衆は「近習の使者」、赤母衣衆は「馬廻から選抜」という区分けもあり、信長が家臣を評価し、精鋭部隊として編成したものである。
黒母衣衆:特徴は黒い母衣を背負った精鋭部隊。役割は主に信長の近習(親衛隊)として使者(伝令役)を兼ねた。メンバーには、佐々成政などが筆頭として知られている。
赤母衣衆:赤母衣を背負った精鋭部隊。役割は黒母衣衆と同様に信長の直属精鋭だが、位置づけに諸説あり、黒母衣衆より格が下だったという説がある。メンバーには、織田信澄(信長の弟)などが居たとされる。
信長が天正3年(1575年)越前の一向一揆の討伐の際には、長近も美濃口から進軍し平定後に、越前大野郡の3分の2を与えられ、大野で城持ち領主となったので、越前大野城を築城して城下町も整備も行いました。
姉小路氏とは?
姉小路家は、藤原氏系の公家・華族の家系です。
藤原氏は複数の系統があるが、藤原北家閑院流三条家庶流の姉小路家が近現代まで家名を伝えており(ただし、断絶していた時代もあります)ます。
飛騨を支配した姉小路は、小一条流姉小路家(飛騨姉小路家)、もともと京都の公家・姉小路家の流れをくむ名門で、南北朝期以降、飛騨国の支配者として勢力を確立した。
飛騨姉小路家(小一条流姉小路家)とは
小一条流藤原師尹の子である藤原済時が京の姉小路に居を構えたことから、子孫が姉小路を称することとなった。
或いは、『吾妻鏡』によれば、藤原忠時が宗尊親王に仕え関東へ下った際に姉小路を名乗ったとされます。
建武の新政※3で飛騨国司に任じられた参議姉小路綱(永和4年(1378年)に確認できる)以降、代々飛騨国司家と呼ばれた。
※3.建武の新政とは、元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒した後、天皇が自ら政治を行う「天皇親政」を目指して始めた政治改革で、天皇中心の公家を優遇し武家への恩賞が不十分だったため、足利尊氏の反発を招き、約2年半で崩壊し南北時代の始まりとなった短命な政権。
史科に初めて登場「飛騨国司の姉小路氏」は、『後深心院関白記』永和4年(1378年)8月27日条の姉小路家綱です。
姉小路家が最初に飛騨国司を務めたタイミングは不明ですが、姉小路家綱は、貞和4年に光明天皇が行幸した際に「近衛次将基氏朝臣」として名前が載っててみえます。
そして、貞治2年(1363年)に姉小路家綱(左中将)と左少将の弟・姉小路頼時(後の古川家の祖)が朝廷に出仕してないため暫定的に解任。
姉小路家綱が飛騨国司となっていたのは、貞治2年〜永和4年の間です。
一族は、姉小路家綱の子・姉小路師言が小島家・姉小路頼時の子・姉小路尹綱が古川家を名乗り、出自が不明の姉小路家熙が向家(向小島城を拠点としたため、向小島家とも、小鷹利家とも)を名乗った(以下略)。
飛騨の名跡を継ぐ三木氏
三木氏
「三木」は単純にみきとは読まない、みつきかみつぎと読むんです。
嫡男・三木自綱とは(姉小路頼綱のこと)父・三木良頼とは姉小路嗣頼は親子関係です。
父・三木良頼が朝廷工作で三木氏を飛騨国司・姉小路家と同一化させ、三木自綱も姉小路氏を名乗るようになったため、自綱(よりつな)は良頼の跡を継いで姉小路家当主(姉小路頼綱)となった。戦国時代の飛騨の武将で、大名、公卿、公家です。
正室は、斎藤道三の娘で織田信長とは相婿の間柄になります。
三木氏の成長
姉小路頼綱が生まれた姉小路家は、もともとは飛騨国守護京極氏の一族で家臣だった、戦国時代に守護の支配が緩むと、三木直頼※4は、増田郡南部の宮地地区を拠点に飛騨国の南半分に勢力伸ばしていた。
※4.三木直頼朝とは、姉小路頼綱の祖父です、
孫である姉小路頼綱は元服当初は光綱でしたが、後に三木自綱と名乗った。
三木氏の家格向上と支配拡大
父の三木良頼は、飛騨国司姉小路家(古川・小島・向)の宗家である小島氏と盟を結んだ。
さらに飛騨全土の支配者としての正統な名分を得るため、古川姉小路家との同化を試みた。
永禄元年(1558年)に従五位下に叙任され、子の光頼(後の自綱)は飛騨介へと任官された。
同年、吉城郡高堂城の広瀬宗域(広瀬山城守)と連合して、天神山城の守護代・高山晴高(高山外記)と三枝郷の山田紀伊守を攻め滅し鍋山安室・畑安高・大谷蔵人・岡本豊前守を支配下の家臣にした。
その後、三木氏と仲が良く繋がっていた姉小路三家の一つ宗家の小島時光が味方になり親族衆とした。
これにより三木氏の勢力は増田郡・大野郡に及んだ。
「姉小路家」との同化と朝廷からの認証
なお、良頼や光頼の三木氏による飛騨国司就任と姉小路氏継承は、本来は三木氏側による乗っ取り・僭称※5であり、朝廷や足利幕府への工作によってなされたものであると考えられてきた。
※5.僭称(せんしょう)とは、身分を超えて勝手に称号をとのえること。また、その称号。「王をーする」
しかし、永禄6年(1563年)の『捕略』には、本来の姉小路氏(小島時親)(時秀の子)、小島雅秀(時親の子)、小島時忠(雅秀の子)、古川満堯(古川済俊の養子)、古川時基(満堯の子)が叙任任官されている記録が残されており(なお、ここには見えない向姉小路氏も向宣政のように生き残っている)、三木氏は姉小路氏を滅した訳ではなく、姉小路氏の一族として同化したというのが実際の流れでしょう。
永禄5年(1562年)2月、良頼は従三位となった。
この間の周施に務めてきた関白・近衛前嗣から偏諱を賜って姉小路嗣頼と名乗り、同時に息子・自綱も姉小路自綱と名を改めた。
同年12月、嗣頼はさらに中納言任官を将軍・足利義輝と前嗣に働きかけたが、これは正親町天皇に拒否され叶わなかった、以後、中納言を勝手に名乗った。
永禄6年(1563年)3月に姉小路頼綱は侍従に任じられた。
武田氏との関係
永禄7年(1564年)には、三木氏・江場輝盛と敵対する江場時盛が武田方に属し、同年6月に武田軍の侵攻を受け三木氏・江場輝盛は降伏、しかし、永禄12年(1569年)頼綱の弟・三木次郎右衛門尉が武田氏から離反したため、信玄から命を受けた苗木城主の遠山直廉が飛騨増田軍に侵攻し大威徳寺の戦いが発生し大威徳寺が兵火で焼失した、
南隣りの美濃国を斎藤龍興から奪った織田信長は、永禄11年(1568年)に上洛を果たすと、永禄13年(1570年)2月(4月23日には元亀に改元)姉小路嗣頼に上洛を命じた。
父に代わって姉小路頼綱は、加治田城主・斎藤年治と斎藤利堯を通し、信長の親族として上洛した。
このように信長と誼を通じる一方で、元亀3年(1572年)には、上杉謙信の要請に応じて越中国に出兵し、上杉氏に通じる姿勢も示した。
元亀3年(1572年)11月に父・姉小路嗣頼が越中の出兵(尻垂坂の戦い)の直後病没すると家督を継いだ。
天正3年(1575年)姉小路頼綱は再び上洛して信長に馬を献上した。
天正6年(1578年)上杉謙信が急死、越中や飛騨などの隣国への侵攻どころではなく、織田陣営に接近し、正式に織田氏と姉小路氏(三木氏)が親族となる同盟を結んだ。
飛騨国を統一
天正10年(1582年)6月に織田信長が明智光秀の謀反で死去すると、北飛騨荒城郡領主の江馬輝盛が勢力拡大を狙い、飛騨国姉小路し宗家であった小島氏の小島城に夜襲をかけたが、小島時光は応戦し勝利した。
報を聞いた姉小路頼綱は自ら軍勢を率いて、宗家の小島時光・小島基頼と共に、江馬輝盛を討ち取り、天正11年(1583年)頃には飛騨一国を手中に収めた。
織田家の北陸方面担当であった、柴田勝家や越中国の佐々成政と行動を共にし上杉氏に対抗した。
越中の斎藤氏である斎藤信利・斎藤信吉兄弟は本能寺の変後は上杉氏に築くが、佐々成政や神保氏貼に攻められ本拠の城生城を失い、義兄の姉小路頼綱を頼って飛騨に落ちのびた。
その後、兄弟は姉小路頼綱の仲介により佐々成政と和睦し傘下に下った。