岩倉城攻めは、永禄2年(1559年)に、織田信長による尾張統一の総仕上げになる戦いです。
そもそも、織田家のルーツは越前の出自だったとされ、室町時代の応永7年(1400年)に、守護である斯波氏が尾張国の守護も兼任することになり尾張国に移ってきた。
斯波氏でも新参の家臣だった織田家の地位は高いものではなかったが、次第に地位を向上させていきます。
応仁の乱後、斯波氏も東西に分裂、加えて、守護代として現地の支配者となっていた織田氏も真っ二つに割れ、尾張上四郡を支配する織田伊勢守家(岩倉織田氏)と尾張下四郡を支配する織田大和守家(清洲織田氏)ができた。
戦国時代の定番だが、同じ織田の一族同士で殺し合う関係になり、さらに悪いことに、周辺の混乱が争いを悪化させた、主君の斯波氏は、越前を朝倉氏に奪われ、遠江を今川氏に奪われ、尾張だけの守護に転落してしまう。
その尾張すら、二つの織田氏が勝手に分割を支配する始末である。
守護の権威は地に落ちた(なお、斯波氏は桶狭間の戦い後に、信長に反抗して追放→和解をし、その後も一族は細々と江戸時代まで生き延び、明治に男爵になっている)
岩倉城は、尾張北部を支配する有力な守護代家である織田伊勢守家の本境地でした。
信長は、尾張国内での主導権争いの最終局面として、敵対する当主・織田信賢の居城である岩倉城を攻め滅ぼした。
この戦いは苛烈※1▲な兵糧攻めと徹底的な包囲網を特徴としましたが、その裏には敵の援軍を遮断し、退路を断つという信長の周到で慎重な戦略がありました。
▲※苛烈(かれつ)とは、(酷いほど)厳しく激しいさま)。▲
信長はどうして信賢を攻めたか
当時、尾張国は足利一門の斯波氏が守護として治めていたが、戦国時代に権威が失態し実権は、守護代の「織田大和守家」(清洲織田氏)と「織田伊勢守家」(岩倉織田家)がおり、さらにその家臣である「織田弾正忠家」など複数の勢力に分裂して争っていた。
織田信長(弾正忠家)の父である織田信秀は、もともと下四郡守護代・清洲織田家(大和守家)の家老という立場でしたが、次第に勢力を拡大していきます。
信長は家督相続後、弘治元年(1555年)叔父である守山城主・織田信光と共に尾張守護代・織田大和守家(清洲織田氏)居城である清洲城を攻略、これにより、信長は守護代の地位と尾張下四郡の実質的な支配権を手中に収めました。
この後、信長は、永禄元年(1558年)、岩倉城主・織田信安(織田伊勢守家)を浮野の戦い※2▲で破り、岩倉城を攻略した。
これにより、下四郡を完全支配下起きました。
<h2>※2浮野の戦い織田信長と岩倉城主</h2>
織田弾正忠家の織田信長は、織田大和守家(織田清洲織田氏)を倒し守護代・織田信友を萱津の戦いで破り自刃sさせ、さらに弟・信勝との内訌(稲生の戦い)に勝利し、尾張国の守護の斯波義銀をも追い出したが、尾張上四郡を支配していた嫡流岩倉織田氏(織田伊勢守家)の守護代・織田信安はいまだ健在、信安は信長の父・信秀の妹を妻とし、若い頃の信長との交流があった人物であるが、義父・斎藤道三との長良川の戦いの際に、美濃国の斎藤義龍と手を組んで信長に攻撃するなど敵対関係にあった。
ところが、長子の信賢遠ざけ、双子の信家を後継としようと画作したことにより信賢と対立し追放された。
<h3>岩倉織田氏の内紛</h3>
内紛をみた信長は信賢との戦いに備え、父の信秀死後対立勢力化していた犬山城主・織田信清に自身の姉の犬山殿を嫁がせ、信清を味方に組み入れた。
永禄元年(1558年)信長は2,000の軍勢を率い、浮野の地において信賢軍3,000と交戦した。
激戦が続いたが、信長のもとへ犬山城主・織田信清援軍1,000人が到着すると形成は一気に傾き信賢は壊滅し、1,200人を超える死者出し、本拠地の岩倉城へ敗走した。
翌年の永禄2年(1559年)信長は軍勢を率いて信賢の本拠・岩倉城を包囲した。
数ヶ月の籠城戦ののち、信賢は降伏した。
戦後、犬山城主・織田信清に約束していた岩倉城主・織田信賢の旧領地の分与を実行しなかったか、または、分与を巡って意見の食い違いの対立が生じたことで両者の関係は険悪になり、のちに信長は犬山城主・織田信清をも追放し、この不満から、信清は永禄5年(1562年)頃に信長に「対して反旗を翻し、楽殿城を奪うなどの敵対行動をとったため、信長は犬山城周辺に小牧山城を築城して圧力をかけ、最終的に永禄7年(1564年)5月の犬山城の戦いで信清を攻め犬山城は落城しました。
敗れた織田信清は城を放棄して甲斐国へ逃亡し、武田信玄のもとで「犬山鉄斎」と称しましたが、織田信賢のその後は不明ですが、先に追放された岩倉城主・織田信安は、その後、信長に赦免され(滋賀県近江八幡市安土町豊浦)にある摠見寺の住職になった。
尾張統一を完成させた。
この浮野の戦いにおいて岩倉勢として活躍した林弥七郎は、先年の稲生の戦いで戦死した林美作守の縁者と云われる。
弥七郎は弓の名手、信長方の鉄砲の名手・橋本一巴と一騎打ちを演じたとされています。
勝敗や生死には諸説ありっますが、両者傷み分けとなり林弥七郎は負傷した。
撤退の際に追い討ちをかけてきた佐脇良之(前田利家の弟)の右肘を林が斬って負傷させたものの、最後は佐脇に討ち取られたと伝わる。
その他、岩倉勢には後に織田・豊臣政権下で活躍する山内一豊の父の山内盛豊や堀尾吉晴(仏の茂助・鬼の茂助)の父の堀尾泰晴も参戦しています。
※.浮野の戦いは、弘治3年(1557年)、岩倉城落城は永禄元年(1558年)とする説があります。
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この後、信長は残る上四郡の支配者である守護・斯波氏や守護代・織田弾正忠家(岩倉織田氏)の勢力を排除し、永禄2年(1559年)頃までに尾張一国を統一しました。
<h3>信賢の反信長</h3>
<h3>岩倉城の内紛の隙を突く信長n</h3>
永禄元年(1558年)頃、岩倉織田家では当主・織田信安と嫡男・織田信賢の間で家督争いが発生し、信安が追放されるという内紛が起きていました。
信長はこの「身内のゴタゴタ」を好機と捉え、従兄弟にあたる犬山城主・織田信清を味方に引き入れた上で、信賢の討伐に乗り出しました。
信長は永禄元年(1558年)の浮野の戦い※2▲で信賢軍に大勝し、翌永禄2年(1559年)に岩倉城を陥落させて信賢を追放しました。
<h2>浮野の戦い※2</h2>
織田弾正忠家の織田信長は、尾張国の支配を固めつつあった。
尾張下四郎を支配※3▲
▲※3.尾張下四郎とは、尾張国(現・愛知県西部)を四つに分けた行政処分「下四郡」を指しています。尾張国は当時、地理的に「上四郡」と「下四郡」に二分され、それぞれの別の守護代が支配していました。
上四郡:丹羽郡・葉栗郡・春日井郡・中島郡。
下四郡:海東軍・海西郡・愛知郡・知多郡。▲
支配の経緯(織田信長の場合)
もともと、尾張守護は足利一門の斯波(しば)氏でしたが、戦国時代には権威が失墜し、実権は守護代の織田氏(大和守家と伊勢守家)にありました。
織田信長(弾正忠家)の父である織田信秀は、もともと下四郡守護代・大和守家の家老という立場でしたが、次第に勢力を拡大していきました。信長は家督相続後、以下の経緯で尾張下四郡を支配下に置いていきます。
- 守護代の排除: 信長は、形式的な主君であった尾張守護・斯波義統(しばよしむね)の子、斯波義銀(しばよしかね)を保護し、守護代の織田信友を謀反人として攻め滅ぼしました(1554年)。
- 清洲城掌握: 信長は守護所であった清洲城(現在の愛知県清須市)に入城し、尾張支配の拠点としました。
- 内乱の平定: 弟の織田信勝(信行)との家督争い(稲生の戦いなど)や、上四郡守護代の岩倉織田氏との戦いを経て、最終的に尾張一国を統一しました。
このように、「尾張下四郎を支配する」とは、尾張国の中枢地域である下四郡の支配権を、形式的な権威であった斯波氏や主筋の守護代家から奪い取り、自らの権力基盤を確立することを意味しました。これは信長が天下統一への足がかりを築く上で非常に重要なプロセスでした。
<h2>織田家のルーツ</h2>