
彼女は武将でも政治家でもない。
しかし、秀吉が天下人に駆け上がる過程で最も重い決断を強いたけられた一人だった。
兄・秀吉の命により離縁させられし、宿的・徳川家康の正室としてと継ぐ。
こんな理不尽はない、彼女自身の意思はどれほど反映されていたのか。
史料を辿りながら、豊臣兄弟と妹・あさひの関係性を読み解いて行きたいとおのいます。
▲朝日姫
北政所(ねね)とあさひの決定的な違い
北政所は「守る女」で家臣団の統率と各大名の妻女との外交、秀吉の暴走止める存在として、豊臣政権の「内側」を支えた女性です。
特に、重要なのは「北政所の存在すなわち豊臣家の正当性」だったことです。
北政所は、知的で芯の強い女性であり、秀吉の暴走のブレーキ役で秀長とも信頼関係があって二人で暴走を止めていました。
政治家の一面をのぞかせる。
あさひは差し出される女
前夫と離縁させられ家康の正室への輿入れさせられ「実質的に人質的婚姻」豊臣政権の外に放垂れた存在、彼女の人生は秀吉に振り回され「感情を背負わされる役」駿府で孤独に耐えながらの生活で48歳という若さで亡くなってしまった。
秀吉の出世は喜んでいたに違いないが、前夫との生活の方が心休まっていたと思います。
母・大政所
あさひ(朝日姫)が豊臣秀吉の命により徳川家康の正室として駿河へ輿入れした際、母である大政所(なか)は自身の高齢(当時約70代)にもかかわらず、
天正14年(1586年)5月、可愛い娘・あさひが向かう駿河とほぼ同時期に家康の人質として三河国の岡崎へ就きました。
※.上記の大政所(なか)をクリックして頂くと、母・仲の在所の御器所(現・名古屋市昭和区)の記事があります。興味あり方は読んでください。
その後、大政所は家康が秀吉に臣従して上洛するまで三河に留っていました。
豊臣兄弟の妹・あさひとは
朝日姫又は旭姫は、戦国時代から安土桃山時代にかけけての豊臣秀吉・秀長の妹で、晩年には秀吉の政略によって徳川家康の正室(継室)となり、家康との結婚後は駿河御前と呼ばれ、死後の法名は南明院と呼ばれます。
生まれと家族関係
あさひは、天文12年(1543年)、尾張国(現・名古屋市中村区)に生まれた。
兄・秀吉とは年齢が約10歳、秀長とは約7歳差でした。
幼少期に兄・秀吉が幼い頃に家を出て武士として赴いたため、あさひが秀吉と過ごした幼少期の記憶は乏しく、どちらかと言えば秀長との生活が身近な「兄妹関係」があったと考えられています。
あさひは、再婚した仲(母)と竹阿弥の間の子とされていますが詳細不明です。
一番上の姉・ともの父親は木下弥右衛門、天文12年に没したと記されいるので、秀吉・秀長・あさひは同母同父の可能性もあります。
当初は、尾張国の農民に嫁いだが、藤吉郎(秀吉)が出世知すると共に、この夫も武士に取りたてられ佐治日向守※1を名乗った
※1.佐治日向守とは、生年不詳。豊臣秀吉の妹・あさひの夫。徳川家康の正室となったあさひ(朝日姫、旭姫)の前夫とされる人物であるが、その実在性には疑義だある。
天正13年(1585年)朝日姫は、兄・豊臣秀吉の命で徳川家康の正室として嫁いだ。
朝日姫は既婚者であり、『朝野旧聞ほ裒藁』が引く「古老聞書」や江戸時代中期に尾張藩士によって作成された『塩尻』『士林泝洄』によれば、それは秀吉の家臣だった副田吉成(甚兵衛、与左衛門)だったという。
一方でほぼ同時期に編纂された『武徳編年集成』は、朝日姫の夫のを佐治日向守として以下の記事を載せている。
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佐治日向守の元へは生駒親正と堀尾吉晴※を派遣して秀吉の命令を伝えさせた。
それを聞いた日向守は「私たち夫婦が拒否すれば国家の害となる。
朝日姫を返して天下が治まるならばどうして断ることがあるだろうか」と了承したが、「私が生きていてはよくなこともあるだろう」と言ってそのまま自害してしまった。
朝日姫の間に子はなかった。
※.上記の堀尾吉晴をクリックして頂くと秀吉との関係「松江城」を築いた人の記事があります。興味ある方はご覧になってください。
秀吉との関係
あさひは秀吉の実妹として、兄の出世と豊臣家の台頭と共に立場が変わって行きました。
当時の史料には、あさひ自身の感情や深い交流を直接伺わせる記録は残っていませんが、「守べき家族」であると同時に「政権を支える駒」、一般的に彼女の「豊臣家の妹」という立場は家族というよりも政治的な役割に重きが置かれました。
秀長との関係
秀長は兄・秀吉と並んんで豊臣政権を支え重要人物ですが、あさひとの具体的な交流については史料が乏しいものの、年齢差が近いことあり兄妹として日常的に接する機会もあった可能性が高いと考えられます。
運命を変えた再婚ー徳川家康の正室
天正14年(1586年)兄・秀吉と徳川家康の関係は依然として不安定でした。
この膠着を打破するため、秀吉が切った切り札こそ、妹・あさひの輿入れという途轍もない考えでした。
離縁という代償
あさひは秀吉の命により前夫と離婚し、家康の正室として駿府へ向かう。
これは個人の結婚ではなく、「豊臣政権と徳川家の和睦を保証する人質に近い婚姻」だった。
家康は、この結婚を形式だけはなかった正室として迎えてくれた。
政略結婚であったことは確かだが、家康はあさひを正室として遇し、一定の敬意を払っていたとされます。
子を設けることはなかったものの、彼女の存在が豊臣ー徳川関係の安定装置であったことは疑いない。
あさひは、天正18年(1590年)京都で48歳の生涯を閉じた。
法名は南明院殿総室光旭。
彼女の自身の言葉は史料には残されていませんが、その沈黙こそが、戦国女性の現実を雄弁に語っていると思います。