美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

足利将軍・足利義輝

若き信長と剣豪将軍・足利義輝の20代同士の邂逅が運命を交差した瞬間

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織田信長足利義輝謁見した、永禄2年に若き2人が交わした「最初で最後の約束」とは何だったのか。タイトルの邂逅(かいこう)の意味は、思いがけなく会うこと。めぐりあい。

織田信長初めて上洛した時期は、永禄2年にわずか百人足らずの軍勢で京都へ向かい、時の将軍である第13代足利将軍・足利義輝に謁見しに行きました。

この時期、まだ今川義元を討つということは念頭になかったと思いますが、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に桶狭間の戦いが起きた前年です。

当時の織田信長はまだ尾張国内の対立勢力を完全に平定してなかった、段階であり、足利将軍の権威を背景に支配の正当性を得ることが大きな目的だったと考えられています。

 

史実において、一般的に織田信長の上洛といえば、永禄11年(1568年)に足利義昭奉じて行った事が有名ですが、ところが、遡(さかのぼる)こと約9年前に第13代・足利義輝謁見してるんです。
          ▲足利義輝

 

永禄2年3月10日(1559年)に、雪解けの京都で歴史的な対面が果たされました。

尾張の若き織田信長(26歳)と、若き剣豪将軍として知られる第13代将軍・足利義輝(24歳)が。
翌年には「桶狭間の戦い」が勃発し、今川義元を討った信長と、6年後に非業の最期を遂げる足利義輝

 

 

京に信長は、無謀にも、わずか100人の軍勢を連れて上洛した信長の真意とは何だったのか?

 

 

そして、20代の若きリーダー2人が見つめた「天下」の形とは何だったのか。

本記事では、日本史の転換点となった「最初で最後の謁見」の舞台裏に迫ります。

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永禄2年・足利義輝との邂逅

永禄2年(1559年)に、危険を顧みず、わずか100人の軍勢を連れて京へ上洛に向かった意図は何だったのか?

 

 

決死の覚悟であったろうと思います。

信長自身はもとより随行する者、皆んな金銀の飾りを施した太刀を差して派手な装いで意気揚々と上洛を行ったようです。

 

 

堺はともかく京都の人たちは、成り上がりの派手好きな田舎者集団行列が来たと言って見物人が多かったようです。

 

 

信長の上洛の目的

尾張以外の美濃・近江・京都・大和・堺などの商いを、信長自身の目で見たい気持ちと、将軍・足利義輝との謁見の両方ではなかっただろうか?

 

 

目で見た事を、まず津島、熱田だけではなく、これから手に入れるであろう美濃での商いをどうしたらいいと参考にするためではないか。

 

 

よく言われている楽市楽座※1は信長より先に興福寺六角・斉藤などが行っていて、信長はそれを取り入れ尾張・美濃の経済を活性化させて行ったのだろうと思います。

※1
.楽市楽座
とは、信長の専売特許ではなく、先行事例が多数あって、天文18年(1549年)に近江の六角義賢(承禎)が石寺新寺で実施した例が有名です。

 

 

永禄9年(1566年)には、今川氏真富士大宮で実地しおり、信長以前に複数の戦国大名「座」の解体や市場税免税(楽市令)を行っていました。

【楽市楽座の詳細】
先行事例の存在: 信長が最初ではなく、戦国時代中頃から流通活性化のために各地で独自に行われていました。

 

 

六角氏は、天文18年(1549年): 六角承禎六角氏の居城・観音寺城下「石寺新市」で、座の商人の特権を廃止する楽市令を発令しました。

今川氏は、永禄9年(1566年): 今川氏真富士大宮(現・静岡県)で、商人の往来を自由にするなど同様の政策を実施しました。

興福寺などの寺社: 中世には寺社が市場を支配して座特権「座」を認めていましたが、徐々にその特権が規制され、「座」そのものを廃止する「楽座」へ移行する流れが各地でありました。

 

 

信長の功績: 信長は、永禄10年(1567年)頃の加納、その後の安土などでこれらの先行事例をベースにしつつ、より大規模かつ強力に「座」の完全解体と自由交易推進し、経済革命として定着させました。 

.したがって、信長「楽市楽座の発案者」ではなく、「楽市楽座を大規模に成功させた、最も有名な実践者」というのが歴史的な実像です。

 

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足利義輝との謁見での影響

「剣豪将軍」として知られる室町幕府第13代将軍・足利義輝は、三好長慶強大な実力者に翻弄されながらも、幕府権威回復を目指して剣術(塚原卜伝に師事)を極めた高い志を持つ将軍でした。

 

 

織田信長に対しては、尾張統一直後の永禄2年(1559年)に上洛した際に謁見し、その地位を認めるなど好意的に接しており、信長が天下布武を目指す上で「将軍の威光」「旧体制の限界」を認識する大きな影響を与えました。 

 

 

「剣豪将軍」足利義輝の器量と、それが織田信長に与えた影響は、文武両道の高い志をもった 剣術を極めるだけでなく、和歌公家文化にも通じ、幕府の威厳を体現しようと努め、 三好長慶ら実力者の傀儡※2となることを拒み、再三にわたり対立・交戦した。

※2.傀儡(くぐつ)とは、操り人形。自分の意志を持たず他人の言いなりになって利用されている人物や組織を指す比喩表現(傀儡政権など)としても使われる。中世には人形芝居を行う「傀儡子」という漂白の芸能者集団も存在した。

 

 

永禄の変、永禄8年(1565年)において、松永久秀らの軍勢に包囲された際、自ら名刀を振るって奮戦し、幕府将軍としての誇りを持って討死した。 

 

信長は義輝の生き様から、幕府の権威や将軍の役割、そして実力行使の重要性を学んだと考えられます。

 

 

「幕府の権威」の価値を認識(大義名分)、永禄2年(1559年)の謁見で、将軍・足利義輝織田信長の尾張支配を認める「お墨付き」を与えた。

 

 

これにより、信長は単なる地方豪族から「将軍が認める名門」へと立場を昇華させ、上洛し大義名分を得ました。

 

 

「剣の将軍」への憧れと対抗心:信長は、将軍自身が武力(剣)で政治を行う義輝のスタイルに、新しいリーダー像を見出した可能性があります。

 

 

信長自身も高い軍事力を持ち、自ら戦場に立つ「武の支配者」を目指しました。

 

「将軍の権威」「実力」の使い分け(教訓):義輝は最終的に、十分な軍事力を持たずに権威だけで実力者に対抗しようとして敗北しました。

 

 

信長は、この「教訓」を学び、義輝の弟・足利義昭を擁立する際は、強力な軍事力で支配下におき(将軍を傀儡化)、最終的には将軍そのものを追放して幕府を終わらせました。 

 

 

総じて、足利義輝は信長にとって「尊敬すべき名門の将軍」でありながら、「実力主義の時代には生き残れない古い象徴」でもあり、織田信長が「幕府の威光を利用した後に、それを超える権力(天下布武)を築く」という戦略を確立する上で不可欠な反面教師であったといえます。

 

織田信長は、尾張守護※3として、名実とともに尾張を支配する大義名分を整える筈だったが、当時、足利義輝尾張守護斯波家邸宅を改修して住んでおり、そこへ出仕したのだが、本来の尾張守護である斯波義銀も存命であったから、尾張守護就任は叶わなかった。

 

 

※3.守護(しゅご)とは、鎌倉・室町幕府が各国の治安維持・軍事・警察を担うために置いた地方長官です。

源頼朝が文治元年(1185年)に設置し、国ごとの御家人統制や大犯三箇条(大番催促・謀叛人逮捕・殺害人逮捕)を担当しました。

時代とともに力をつけ、室町時代には領地を支配する「守護大名」へと発展しました。

【守護の概要と歴史的変遷】
設置(鎌倉時代): 文治元年(1185年)、源頼朝が軍事・警察権を握るため、全国の国ごとに有力な御家人を任命しました。地頭(土地管理)とともに幕府の地方支配の基盤でした。

大犯三箇条(たいぼんさんかじょう): 守護の主な職務は、謀反人・殺害人の逮捕と、京都の警備をする御家人への「大番催促」の3つでした。

変遷(室町時代): 荘園や国領への介入を強め、室町時代には領主権を持つ「守護大名」へと成長し、軍事・警察に加えて経済力も掌握しました。

消滅(戦国時代): 応仁の乱以降には、実力で領地を奪う「戦国大名」に取って代わられ、その地位を失いました。

 

【守護と地頭の違い】 
守護: 国単位で設置され、警察・軍事を担当する(県知事のような存在)。
地頭: 荘園・公領単位で設置され、年貢の徴収や土地管理を担当する。

※.なお、現代語としての「守護」は、危害が及ばないようにまもることを意味します。

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尾張統一を目指した織田信長

足利義輝の謁見から尾張に戻った信長は、尾張国内の主導権争いで、当時、尾張は信長の清洲織田氏(弾正忠家)と岩倉城を拠点とする岩倉織田氏(守護代・織田信賢)に分裂していたので邪魔でした。

 

 

信長の父・織田信秀の死後に清洲城を奪取したものの、岩倉織田氏は依然とした強力なライバルであり尾張統一の最大の障害でしたので、岩倉織田氏(伊勢守家)の岩倉城を攻めた。

 

 

永禄2年(1559年)主な理由は、尾張国(現・愛知県)の統一を成し遂げなければ、それは背後の敵、美濃の斉藤氏(現・岐阜市)や駿河の今川氏(現・静岡県)に対抗するためでした。

 

 

永禄2年(1559年)に従兄弟の岩倉城を攻め落とし、永禄3年(1560年)に今川義元を討ち、永禄7年(1564年)には、美濃の稲葉山城を追われ、

永禄9年(1566年)に美濃三人衆(稲葉良道、氏家直元、安藤守就・竹中半兵衛の舅)を味方につけ、永禄10年(1567年)に斉藤龍興を伊勢国長島に敗走させ、美濃国平定を進め(稲葉山城の戦い)、このとき、井の口を岐阜と改称した(『信長公記』)。

 

 

織田信長朝廷に謁見

正親町天皇と初めて謁見したのは、足利義昭を奉じて入京した、永禄11年(1568年)の10月頃、上洛した際、朝廷から許可を得て天皇に謁見しました。

 

このとき、信長は天下人としての地位を磐石なものにするため、朝廷との関係化を図っています。

 

 

その後も、信長は朝廷に多額の献金をして財政支援を行い、正親町天皇から信頼を得るなどをして朝廷を掌握しました。

 

 

この対面があったからこそ、後の信長の上洛(義昭擁立)がスムーズに進んだという視点。

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義輝と信長

足利義輝と織田信長の接点 若き二人の対面: 当時、信長は26歳(数え年)、義輝は24歳(数え年)と、まさに働き盛りの青年同士の対面でした。

 

 

剣豪将軍: 義輝は上泉信綱や塚原卜伝に師事したといわれる剣術の達人で、「剣豪将軍」の異名で知られています。

 

 

非業の最期: 対面から約6年半後の、永録8年(1565年)、義輝は「永禄の変」にて三好三人衆や松永久通の軍勢に二条御所を襲撃され、最期は自ら刀を振るって奮戦した末に自害(あるいは殺害)されました。

 

 

この上洛の翌年、信長は「桶狭間の戦い」で今川義元を破り、天下人への階段を駆け上がっていくことになります。もし義輝が存命し、信長との連携が続いていれば、その後の日本の歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。

 

 

 

当時の室町幕府の情勢や、義輝亡き後の信長の動き(足利義昭の擁立など)について

将軍の権威を背景に支配の正当性を得ることが大きな目的だったと考えられています。

 

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足利義輝と織田信長の接点

若き二人の対面:当時、信長は26歳(数え年)、義輝は24歳(数え年)と、まさに働き盛りの青年同士の対面でした。

 

剣豪将軍:義輝は上泉信綱や塚原卜伝に師事したといわれる剣術の達人で、「剣豪将軍」の異名で知られています。

 

 

  • 非業の最期: 対面から約6年半後の1565年(永録8年)、義輝は「永禄の変」にて三好三人衆や松永久通の軍勢に二条御所を襲撃され、最期は自ら刀を振るって奮戦した末に自害(あるいは殺害)されました。

 

この上洛の翌年、信長は「桶狭間の戦い」で今川義元を破り、天下人への階段を駆け上がっていくことになります。もし義輝が存命し、信長との連携が続いていれば、その後の日本の歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。

 

 

当時の室町幕府の情勢や、義輝亡き後の信長の動き(足利義昭の擁立など)について、さらに詳しくお調べしましょうか?

 

 

-足利将軍・足利義輝

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。