美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

三好宗I渭

三好三人衆・三好宗渭の執念|信長との死闘から豊臣秀頼に殉じた百歳

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「かつての宿敵・三好三人衆・三好宗渭が、なぜ豊臣秀吉・秀頼親子に仕え、最期まで忠義を尽くしたのか」という、歴史の皮肉とロマンが詰まった部分をメインに据えた記事を作成しました。

 

戦国史上、織田信長最も追い詰めた「信長包囲網」を繰り広げた三好宗渭

 

その中核を担い、将軍殺しの汚名をも厭わなかったのが「三好三人衆」の一人、三好宗渭=政康※1である。

※1.三好宗渭(みよしそうい)とは、戦国時代の武将で三好一族、宗家の家臣、三好三人衆の一人、一般的に政康と呼ばれ初めは右衛門大輔正勝、続いて下野守政生、後に出家して釣竿斎宗渭(ちょうかんさいそうい)となった。

『狩野文書』の元亀2年7月曜日付け一任斎宛・足利義昭御内書には、一任斎為三に宛てた手紙の書き出しに「舎兄下野守跡職井自分当知行事」と記されており、下野守は一任斎の兄となる。
つまり、宗渭と為三は兄弟です。

宗渭の父は三好宗三=三好政長である。
三好宗渭は父・三好政長と弟・為三と共に細川晴元に仕え、天文13年(1544年)家督を譲られたが実験は父にあった。
父は本家当主・三好長慶と対立したが「江口の戦い」で長慶に敗れる。

戦後、細川晴元が将軍・足利義輝と共に京都から近江国へ逃亡すると三好長慶と戦ったが敗れ長慶に下って主従関係になり、将軍・足利義輝を狙い襲撃する。

 

 

信長に敗れ、歴史の表舞台から消えたかに見えたこの老将には、驚くべき「後日談」が残されていた。

 

かつての仇敵・豊臣秀吉「お伽衆」として迎えられ、さらには大坂の陣にて秀頼を守るべく、100歳近い老骨を鞭打って参陣したというのだ。

 

なぜ彼は豊臣の世に、自らの居場所を見出したのか。

「豊臣と三好兄弟」の数奇な縁と、伝説の武将・三好清海入道の正体に迫ります。

 

 

豊臣秀吉と三好宗渭の関係

三好宗渭=政康の人生が「史実(古文書の記録)」「伝承(江戸時代の物語)」の境界線にあるから書かれていません。

 

 

特に後半生は、専門書や当時の日記(公家の日記など)を繋ぎ合わせないと見えてこない、非常に通好みな内容になります。

 

 

敗北から天下人の「御伽衆」※2になった三好宗渭

御伽衆※2とは、一言でいえば、天下人「話し相手」「政治・軍事のアドバイザー」のことです。

 

 

秀吉のような天下人は、毎日分刻みのスケジュールで動いていますが、ふとした休息の時間に、歴史の教訓や過去の戦の失敗談、あるいは世間の噂話を聞きたがりました。

そこに仕えたのが御伽衆です。

 

 

御伽衆は誰が選ばれるのか?

隠居した老将、没落した名家の当主、学識のある僧侶などが選ばれました。

 

三好宗渭=政康は、かつて京都を支配し、将軍を殺し、信長と戦った「生き証人」ですから、秀吉にとっては最高に面白い話を持っているレジェンドだったわけです。

 

 

役割(単なる暇つぶしではない)ではなく、知恵袋、過去の合戦の戦術や、室町幕府の複雑な儀礼を教える。相談役になったり、秀吉が迷ったときに、昔の事例を引き合いに出して助言したりする。

 

 

権威付け「かつての支配者(三好氏)が自分の話し相手をしている」という事実を見せつけることで、秀吉の権威を高める。

 

 

かつて信長を震え上がらせた三好宗渭は、晩年、秀吉の御伽衆に列した。

 

 

戦国の荒波を生き抜いた老将が、黄金の茶室で秀吉に語った『信長包囲網』の裏話は、いかなる趣があっただろうか。

 

 

秀吉は、かつての強敵を側に置くことで、自らの天下が本物であることを実感したのかもしれない。

 

 

宿敵の秀吉との再会、数奇な主従関係

織田信長に敗れ、一度は阿波(徳島)へ逃れた三好三人衆の三好宗渭ですが、織田信長の死後、天下人となった豊臣秀吉は彼を呼び戻します。

 

 

かつて「野田城・福島城の戦い」で信長・秀吉を苦しめた三好宗渭を、秀吉はあえて側近である「お伽衆(おとぎしゅう)に加えたのです。

 

 

なぜ秀吉は呼び戻したのか

秀吉は「かつて自分の主君・信長を震え上がらせた強敵」を傍に置くことで、自らの器の大きさを示そうとしました。

 

 

また、三好宗渭は室町幕府の儀礼や畿内の古いしきたりに詳しかったため、新参者の秀吉にとって「生きたマニュアル」として重宝されたのです。

昨日の敵は今日の友」という戦国の合理性です。

 

 

宗渭にとっても、三好家の再興や生き残りのためには、かつての敵であっても勝者に仕えるのが最善の「拾い方(生き残り方)」でした。

 

 

伝承される「三好兄弟」と豊臣家への深き縁

三好三人衆のメンバーである「三好政勝(政長の子)宗渭=政康は、親族関係にありました(諸説ありますが、従兄弟や兄弟とされることも)

 

三好一族の立ち位置は、秀吉の時代に三好家の一族は豊臣政権に深く組み込まれます。

 

例えば、秀吉の甥である「豊臣秀次」は、一時期、三好家の名跡を継いで「三好信吉」※3と名乗っていました。

※3.三好信吉とは、秀吉の姉(瑞竜院日秀)の長男・秀次が養子に出された時の名です。

羽柴秀次は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名、公卿。官位は正二位、関白、左大臣。二代目武家関白。

幼少期、戦国大名・浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉とし、宮部吉継と名乗った。

次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長=笑岩の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称孫七郎とし、三好信吉と名乗って三好家の名跡を継いだ。

 

 

 

 

なぜ物語では兄弟なのか

江戸時代の講談では、三好宗渭(清海入道)三好政勝(伊三入道)「兄弟」としてセットで語られるようになります。

 

これは、共に豊臣家に忠義を尽くした三好一族の結束力を、分かりやすく「兄弟」という形で強調した演出だと思われます。

 

 

 

百歳の出陣、大坂の陣に散る――豊臣秀頼に捧げた最後の忠義

田幸村も一目置いた?大坂城「生ける伝説」として語られいる、慶長19年(1614年)、大坂冬の陣。

かつての三好政権を知る生き残りの老将として、三好宗渭は大坂城に入城します。

 

 

この時、すでに80代〜90代(伝承では100歳近い)という驚異的な高齢でした。

 

 

軍事顧問としての役割として、真田幸村後藤又兵衛「大坂城五人衆」は、実戦経験こそ豊富でしたが、巨大な城の管理や儀礼には疎い面がありました。

 

 

三好宗渭は「かつての幕府を支えた重鎮」として、城内の秩序維持や、秀頼の側近としての儀礼的な助言、さらには三好流の鉄砲術の指導など、精神的な支柱となりました。

 

 

 

三好宗渭の散り際の美学

翌年の夏の陣、豊臣家の滅亡が現実味を帯びる中、三好宗渭は最期の戦いに挑み、夏の陣での最期を美学で、<史実では、落城の混乱の中で自害した、あるいは戦死したとされています。

 

 

しかし、この「かつての天下の主導者が、滅びゆく豊臣家のために老骨を鞭打って戦った」という事実が、後の人々の心を打ちました。

 

 

 

「三好清海入道」の誕生

この壮絶な散り際が、真田十勇士の「三好清海入道」へと昇華されました。怪力無双の巨漢として描かれるのは、彼がかつて信長軍を何度も跳ね返した「強靭な精神力と武勇」の象徴なのです。

 

 

三好宗渭こと三好清海入道

永禄7年(1564年)に三好長慶※4が死ぬと、長慶の甥三好義継後見役の一人として台頭、三好長逸・岩成友通と共に三好三人衆と呼ばれ、松永久秀を含め三好家中で重きをなした。

※4.三好長慶とは、戦国時代の武将で、畿内・阿波国の戦国大名で、室町幕府の摂津国守護代、相伴衆。

元は、細川晴元に有力家臣であったが、細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍・足利義晴・義輝共々細川晴元を京都より追放し、三好政権を樹立する。

その後は、細川氏が支配していた領地を継承・拡充して勢力を畿内の大部分にまで広げ、足利義輝、六角義賢、h畠山高政らと時に争い、時に和議を結び畿内の支配者として「君臨した。

おしどりを形どった花押を用いていたという。

永禄8年(1565年)3月には出家して釣竿斎宗渭と名乗り、同年5月19日、他の三人衆、松永久通と共に三好氏と対立する室町幕府第13代将軍・足利義輝の御所を襲撃して殺害した(永禄の変)。

 

 

三好氏、足利将軍・義輝を暗殺

現職将軍・足利義輝が殺害されるという「永禄の変」※5が、なぜ、義輝は殺害されなければならなかったのか?

※3.永禄の変とは、永禄8年5月19日(1565年)、室町幕府の第13代将軍・足利義輝が三好義継や三好三人衆、松永久道らの軍勢によって、京都・二条御所を襲撃され殺害された事件のことで、永禄の政変と呼称されることもあります。

 

この事件の目的・動機は、事件前の三好氏と将軍との関わり方が、どのようなものだったか?

 

 

足利義輝は、自身の政治権力を回復しようと、幕府の威厳を取り戻そうと三好氏に頼らないで直接統治を目指して大名間の調停などを精力的に行い、三好政権と対立した。

 

 

三好は自分たちに都合のいい傀儡(操り人形)の別の将軍・足利義栄を立てて実権を握り続けようとし、邪魔な存在の足利義輝を排除しようと判断され、三好義継、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩城友通)松永久道らが共謀し、二条御所を襲撃した。

 

 

三好三人衆信長を阻む

将軍・足利義輝が暗殺された(永禄の変)、後の政権が揺らぎ幕府は一時空白状態となり、三好政権が再確立されかけましたが、織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してきた。

 

 

織田信長と足利義昭が、永禄11年(1568年)上洛した事で三好・松永勢力と対立、当時の畿内を支配していた、三好三人衆が反信長で拠点をおいて抵抗を続けますが、優秀な信長軍の前に短期間で形勢は傾き、畿内制圧が進みました。

 

 

この時点で、三人衆は、畿内で政権として振る舞う足場を失い、以後は阿波(現・徳島県)へと退きました。

 

 

永禄12年(1569年)1月、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・石成友通)池田勝正ら約3,000人軍勢が織田信長の留守(岐阜へ帰還)を狙い、京都・下京の仮御所六条本圀寺に滞在していた第15代将軍・足利義昭を急襲・包囲されましたが駐留していた細川藤孝、明智光秀、松永秀久らが防衛戦を展開したため三好勢は撤退「本圀寺の変」。

 

 

幕府再興直後の将軍・足利義昭を窮地に陥れた事件です。
この事件を受け、義昭はその後、より防御力の高い二条城(旧二条御所)への移転を決めた。

 

 

この戦闘により、当時の幕府権力がいかに織田信長の軍事力に依存していたかが浮き彫りになり、その後、義昭と信長の対立が表面化する一つの要因となりました。

 

 

信長が義昭に突きつけた異見十七ヵ条

将軍に就任した足利義昭は、織田信長を「副将軍」に任命しようとしたが拒否。

 

 

さらに、信長が将軍・足利義昭に突きつけた「異見十七ヶ条」は、将軍の行政権を著しく制限し、信長が幕府を完全に支配するものでした。

 

 

将軍・足利義昭は、権威を守りたいため、信長に反発。

松永久秀、浅井氏、朝倉氏、武田氏などと連携し、「信長包囲網」を形成して信長を阻みました。

 

 

織田信長は、この対立を機に将軍・足利義昭を京都から追放、天正元年(1573年)室町幕府は滅亡「しました。

 

 

結果として、将軍・足利義輝の自立意識が暗殺を招き、その後、継承となった足利義昭の自立意識が信長の天下統一の障害となり、最終的に幕府という支配体制が解体されることとなった。

 

 

-三好宗I渭

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。