美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

羽柴はどうして作られたか?

なぜ秀吉は「羽柴」を名乗ったのか?信長が娘を嫁がせた“愛されキャラ”丹羽長秀の実力

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「織田信長に愛された武将」と聞いて、誰を思い浮かべます?
明智光秀、羽柴秀吉、それとも柴田勝家だろうか。

だが、信長が自身の庶兄・織田信広養女にしを嫁がせ、さらに信長自分の娘・五女まで丹羽長秀の息子・長重に嫁がせて「一族」として遇した武将がいる。

それが、丹羽長秀です。

「羽柴秀吉」「羽」が、誰の名前から取られたかご存じだろうか?

正解は、織田家の重臣・丹羽長秀です。

 

 

柴田勝家の柴田の「柴」丹羽長秀の丹羽の「羽」の二人の偉大な先輩にあやかったとされています。

 

 

この有名な名付けの由来から、丹羽長秀は「信長家臣団のナンバー2だった」と思われがちです。

 

 

しかし史実を紐解くと、彼は軍司令官としてトップに君臨していたわけではありませんでした。

 

 

では、なぜ秀吉は彼から一字を貰ったのでしょうか?

気性の激しい信長は、永禄6年(1563年)当時まだ家中での家柄・地位が低かった長秀の出世を後押しし、長秀を厚く信任する証として自分の庶兄・織田信広の娘(桂峯院)を養女にしてを丹羽長秀に嫁がせています。

さらに息子・丹羽長重に自身の五女(報恩院)を嫁がせるほど丹羽長秀を愛したのでしょうか?

 

 

 

「羽柴」の由来とナンバー2の真相

木下藤吉郎から「羽柴」に改姓したのは、元亀4年(1573年)7月すなわち天正元年※1です。

※1.元亀4年(1573年)7月は、室町幕府が滅亡し、元号「元亀」から「天正」へと改元された、戦国時代の大きな転換期にあたります。

織田信長によって将軍・足利義昭が京都から追放され、織田政権の天下統一が本格化し始めた月として知られています。

この激動の7月の主な出来事は以下の通りです。

天正元年7月18日は、室町幕府将軍・足利義昭が槙島城(現・京都府宇治市)で信長に降伏し、畿内から追放され、実質的に室町幕府が滅亡しました。

天正元年7月28日に、朝廷により改元が行われ、「元亀」から「天正」へと時代が変わりました。

 

 

 

「羽柴」の由来

◇合成苗字の誕生: 秀吉(当時は木下)は、織田家での出世をアピールするため、同僚である宿老の丹羽長秀「羽」と、柴田勝家「柴」を拝借して「羽柴」と名乗りました。

◇処世術と忠誠: 先輩武将にあやかることで信長への忠誠心を示し、同時に周囲の有力武将たちとの関係を良好に保つための巧みな処世術でもありました。

秀吉の頭の良さを表しています。

 

 

柴田勝家との決定的な役割の違い

元亀4年(1573年)頃、木下藤吉郎

は、柴田勝家と丹羽長秀から一字ずつを譲り受け、「羽柴」と改姓しました。

 

 

この有名なエピソードから、丹羽長秀は柴田勝家と並ぶ織田軍の二大巨頭だったと思われがちです。

 

 

しかし、二人の実際の立ち位置には大きな違いがありました。

柴田勝家が北陸方面軍の司令官として越前一国を任されるなど前線の要を担ったのに対し、丹羽長秀は若狭一国の支配や四国方面軍の副官といった役割にとどまっています。

 

 

当時、織田軍で圧倒的な動員能力を誇り実質的なナンバー2として君臨していたのは、石山本願寺攻めの総指揮を執った佐久間信盛でした。

 

 

つまり、丹羽長秀は軍司令官のトップという立ち位置ではなかったのです。

 

 

 

では、なぜ「佐柴」ではなく「羽柴」なのか

では、なぜ秀吉はより大きな影響力を持っていた佐久間信盛の「佐」を取って「佐柴」と名乗らなかったのでしょうか。

 

 

そこには、部将としての単純な序列ではなく、織田家臣団内部の「派閥構造」に対する秀吉の繊細な配慮がありました。

 

 

豪族出身で発言力の強い旧来のグループと、信長に直接取り立てられた実務派の側近グループ。

 

 

 

織田家臣団のリアル系図2つの派閥

【古渡・末盛譜代と那古野譜代】2大派閥。

古渡・末盛譜代は、代表格:柴田勝家、佐久間信盛

動員能力の高い地元の有力領主たち。声が大きく発言力も強い。>

 

那古野譜代は、代表格:丹羽長秀(長秀も小領主の次男)

信長が直接取り立てた側近グループ。信長に忠実で、実務能力や知略に優れる。

理由

これを現代の企業に例えるなら―― 佐久間柴田は、大勢の作業員を抱える「力のある強力な協力会社の社長」さん。

対する丹羽長秀は、人数は少ないが技術力で信頼される「優秀な専門設計事務所の所長」といったところ。

そして秀吉自身は、身一つから叩き上げた「超絶優秀な現場監督」

 

秀吉が「羽柴」を名乗ったのは、単に個人の序列に媚びたわけではなく、「二大派閥(有力領主グループと信長直属グループ)両方に気を配ったから」と考えれば非常に合点がいく。

 

 

 

信長に「身内」として愛された理由

丹羽長秀の最大の特徴は、抜群の「実務能力」「人柄」にあった。

長秀は派手に敵の首を揚げるような武功よりも、城の普請(安土城の総普請奉行など)兵糧・物資調達、行政調整といった「裏方仕事」で抜群の手腕を発揮した。

 

 

長秀が裏で支えていたからこそ、信長は天下統一へ向けて暴れ回ることができたのだ。

 

さらに長秀は、性格が温厚で滅多に人と争わなかったと伝わる。

 

 

気性が激しく論功行賞に厳しい信長ですら、長秀には強い信頼と親愛の情を寄せていた。

 

 

その証拠に、信長は長秀に自分の養女を嫁がせ、さらに長秀の嫡男・光重には自身の五女を嫁がせている。

 

 

親戚関係を二重に結ぶほど、信長にとって長秀は「手放せない存在」であり「愛すべき男」だったのです。

 

 

派手な戦国絵巻の中では、明智光秀の知謀や柴田勝家の武勇、秀吉の立身出世の陰に隠れがちな丹羽長秀。

 

 

しかし、信長に心から愛され、秀吉からも一目置かれ、組織を陰から支え続けた「五郎左(長秀)の存在なくして、織田家の躍進はなかったと言えるだろう。

 

秀吉は、その双方の派閥を代表する重臣・柴田勝家と丹羽長秀に気配りを見せることで、自身の立場を円滑にしようと考えたのです。

 

 

 

丹羽長秀とはどいう武将か

天文19年(1550年)より織田信長に仕える。

天文22年(1553年)梅津表の合戦にて19歳で初陣を飾った。

弘治2年(1556年)稲生の戦では信長に付いて味方した。

↓ 信長の家臣なのに信長に付いたとは?
おかしいと思いませんか?

 

 

それは、稲生の戦いとは、弘治2年(1556年)8月24日に尾張国春日井郡の稲生原(現・名古屋市西区)で起きた、織田信長と、その弟・織田信行(信勝)との家督をめぐる合戦です。

 

 

織田家が「どっちに付くか」信長信行につくか、真っ二つに割れていたから当時の尾張織田家は、信長が完全に支配していたわけではありませんでした。

 

 

この「稲生の戦い」は、信長と、その実の弟である織田信勝(信行)による、凄絶なトップ争い(お家騒動)です。

この時、織田家の重臣たちの多くは、素行が悪く「うつけ者」と呼ばれていた信長を見限り、品行方正で評判の良かった弟の信勝に味方しました。

 

 

あの猛将・柴田勝家や、宿老の林秀貞といった最高幹部クラスでさえ、この時は信長を裏切って弟の信勝側に付いていたのです

 

「主流派(敵)」ではなく「弱小派の信長」を選んだ丹羽長秀の凄さは家臣団の大部分が敵に回る中で、まだ若手だったが、周囲に流されることなく一貫して信長を支持し続けた。

 

 

つまり、あの状況での「信長方に付いた」というのは、単に命令に従ったという意味ではなく、「織田家が真っ二つに割れ、多くの重臣が裏切る中で、命をかけて信長を信じ抜く選択をした」という、長秀の忠誠心と先見の明の高さを示す非常に重要なエピソードなのです。

 

 

永禄3年(1560年)桶狭間の戦いでは、今川義元の攻撃部隊に入っていないものの従軍している。

『信長公記』などから、斎藤龍興の美濃国における戦いで台頭したと考えられ、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて信長が上洛した際、南近江の六角氏征伐で箕作城を攻めるなど武功を挙げた(観音寺城の戦い)

 

姉川の戦いの直後から、信長は8ヶ月に及ぶ近江佐和山城の包囲を続けていたが、元亀2年(1571年)2月24に城将の磯野員昌が開城勧告を受けて退城すると、代わって丹羽長秀佐和山城主となった。

 

 

 

“愛されキャラ”丹羽長秀の真の実力

人柄が良くて信頼されるからこそ、組織の潤滑油として抜群の実務(裏方)成果を出せた。

戦国時代で「実力者」というと、柴田勝家や明智光秀のように「戦で敵の首をたくさん取る」「大軍を率いて敵陣を破る」といった派手な武功を想像しがちです。

 

しかし、長秀の真の実力はそこではありませんでした。
具体的には次の3つの意味が込められています。

 

 

 

1. 「調整力」と「実務能力」という実力

安土城の建設(総普請奉行)や兵糧・軍需物資の手配など、数万人規模の人間と巨大な資金・物資を動かす仕事は、現場の職人や他の武将たちとの高度な交渉・調整能力がなければ絶対に成功しません。

 

 

誰からも好かれ、角を立てずに全体をまとめ上げる長秀の人柄(愛され力)そのものが、こうした「巨大プロジェクトを完遂させる実力」に直結していたということです。

 

 

 

2. 「信長に猜疑心を抱かせない」という実力

信長は優秀な部下であっても、野心が見えたり自分に歯向かいそうになると容赦なく処分・追放しました(佐久間信盛の追放など)。

 

 

しかし長秀は、温厚で手柄を誇らず、忠実に実務をこなしたため、信長から「絶対に裏切らない安心できる存在」として絶大な信頼を得ました。

 

激しい信長のもとで最後まで全幅の信頼を勝ち取り続けたこと自体が、彼ならではの凄まじい実力(=生存戦略)だったと言えます。

 

 

3. 「組織の摩擦をなくす」という実力

癖の強い豪族や猛者たちが集まる織田家臣団の中で、長秀のように「誰からも嫌われない男」がトップ層にいることで、家臣同士の不要な摩擦や対立が防がれていました。

 

 

秀吉が自分の名前に「羽」の字を入れたのも、長秀が持つ「みんなに愛され、敵を作らないブランド力」にあやかりたかったからです。

 

 

つまり、この言葉は「派手な武勇伝でねじ伏せる強さではなく、誰からも愛される人柄をベースにした『完璧な実務・調整能力』こそが、彼の本当の凄みだった」ということを意味しています。

 

 

 

安土城をつくった「裏方のプロ」

丹羽長秀の真骨頂は、華々しい戦功以上に、抜群の行政能力と実務手腕にありました。

 

 

その代表例が、織田家の威信をかけた安土城の建築です。

長秀は総普請奉行(工事の最高責任者)を務め、膨大な資材の手配や人員の配置、複雑な工程管理を完遂してみせました。

▲総普請奉行の丹羽長秀のイラスト(イメージです)

 

さらに、戦場における兵糧や軍需物資の調達・給食など、組織を円滑に回すバックオフィス全般で欠かせない存在だったのです。

 

 

前線で信長や他の武将たちが暴れ回ることができたのは、彼という頼れる「裏方のプロ」がいたからにほかなりません。

 

 

 

信長が「娘」を嫁がせた理由

気性が荒く人間関係にも厳しかった信長ですが、長秀に対しては並々ならぬ愛着と信頼を寄せていました。

 

 

その理由は、長秀が非常に温厚で争いを好まず、誰からも慕われる人柄の持ち主だったからです。

 

 

信長は長秀を手放せぬ存在として重宝し、自身の庶兄・織田信広の娘(桂峯院)を養女にし丹羽長秀の正室として嫁がせています。

▲信長が丹羽長秀に養女を娶らせるイラスト(イメージです)

 

 

さらに息子・丹羽長重=光重に信長自身の五女(報恩院)を嫁がせています。

 

 

二重の婚姻関係を結んで完全に「身内」として遇したことからも、信長から長秀への並々ならぬ親愛の情がうかがえます。

 

 

 

 

まとめ

織田家を陰で支えた「最高の実務家」信長の信頼を得ていた丹羽長秀。

 

長秀なくして信長が、ここまで出世できなかったと言っても過言ではないと思います。

 

 

戦国時代の主役といえば、華々しい武功を立てた武将や、鮮やかな謀略で敵を打ち破る智臣に目が向きがちです。

 

 

しかし、丹羽長秀のような「頼れる実務家」がいなければ、織田信長の天下布武も、その後の秀吉の大出世も成し遂げられなかったのは間違いありません。

 

 

膨大な資材と人間を動かす行政能力、そして激しい織田家臣団のなかで誰からも敵を作らない温厚な「愛され力」。

 

 

丹羽長秀が持つこの特別な実力があったからこそ、信長は全幅の信頼を寄せて身内に迎え入れ、秀吉もまたその威光と人徳にあやかろうと「羽」の一字を買い求めました。

 

 

大河ドラマ『豊臣兄弟!』で長秀が登場するシーンを見る際は、彼が画面の裏側でこなしている圧倒的な仕事量と、周囲を和ませる人柄にぜひ注目してみてください。

 

派手な立ち回りとは一味違う長秀のリアルな魅力が分かると、戦国ドラマの奥深さがより一層面白くなるはずです。

 

 

-羽柴はどうして作られたか?

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。