美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

上杉景勝・佐渡

上杉景勝の佐渡制圧と支配の実態|金山開発前夜、本間氏滅亡後の統治戦略とは

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天正17年(1589年)越後を制圧した上杉景勝は、豊臣秀吉から「佐渡の討伐許可」を得たうえで大軍を率いて渡海し、羽茂本間氏羽茂城を攻略して佐渡全島を平定しました。

当時は惣無事令(私闘禁止令)が出されていたため、勝手な侵攻は処分対象でしたが、景勝は「佐渡本間氏がかつての敵対勢力(新発田重家の乱など)を裏で支援し、秀吉の意に従わない」ことを口実に公認の討伐として実行しています。

実務や現場の指揮では執政の直江兼続も大活躍しました。

戦国期の佐渡はまだ本格的な大金山(相川金銀山)の開発前であり、上杉謙信の時代に越後を支えたのは主に「青苧(あおそ)の貿易」「鶴子銀山などの銀」でした。

佐渡の金銀開発が最盛期を迎えて「天領」として爆発的な産出量を誇るのは、徳川家康江戸時代に入ってからのこととなります。

 

「上杉景勝が佐渡を制圧した理由は?」「黄金の島と呼ばれる前の佐渡は、どうやって統治されていたの?」

 

1589年(天正17年)豊臣秀吉の許しを得て佐渡へ渡海した上杉景勝。

     ▲上杉景勝

 

鎌倉以来の名門・佐渡本間氏を滅ぼし、島全体を上杉家の領有としました。

「佐渡=金山」というイメージが強いですが、実はこの時点では相川金山などの本格的な開発はまだ始まっていません。

 

 

では、上杉景勝と執政・直江兼続は、金山以前の佐渡をどのように支配し、上杉家の国力へと組み込まれていったのでしょうか?

 

本記事では、上杉景勝による佐渡平定の背景から、惣無事令※1を利用した大義名分、そして金山開発前夜における実地統治の裏側までをわかりやすく解説します。

※1.惣無事令(そうぶじれい)とは、豊臣秀吉が天下統一の過程で大名間の私闘(私戦)を禁じ、すべての領土争いの解決を豊臣政権の裁定に委ねるよう命じた政策・法令のことです。

 

 

 

なぜ景勝は佐渡へ侵攻したのか?惣無事令と本間氏滅亡の経緯

上杉景勝が秀吉に臣従した際に、越中前田利家に譲り、また真田昌幸が豊臣大名として公認されたことで、信濃も失った。

その代償として、切り取りを認めた。

 

 

最上義光上杉景勝が臣従した時点では、まだ秀吉とは大した関係を築いていない。

佐渡本間氏最上義光蘆名氏※2と組んで、上杉景勝に反抗していた。

※2.蘆名氏(あしなし)とは、三浦氏から興った氏族。
相模国三浦郡蘆名(現・神奈川県横須賀市芦名、芦名城)の地名に由来する。

「芦名氏」「葦名氏」「奥州三浦氏」「会津三浦氏」と表記される事もある。 相模蘆名氏と会津蘆名氏の二つの系統が存在する

 

 

最上義光上杉景勝は庄内をめぐり敵対関係にある。

大宝寺義興※3が本庄繁長の子を大宝寺義勝として養子に迎えていたから。

 

大宝寺義興は兄で悪屋形で知られる義氏の死後、義光の意を受けた重臣、東禅寺義長に擁立された傀儡で、義長や義光には恨みもあった。

 

大宝寺義興は上杉景勝と通じたから義光に殺され、東禅寺義長が義光の意を受けて庄内を支配。

 

上杉景勝を攻めることは間接的に秀吉と敵対することにもなる。

だから秀吉も認めたと思う。

※3.大宝寺義興とは、天正15年(1587年)における庄内侵攻は、当時の大名たちが入り乱れる複雑なパワーバランスの核心を突く出来事でした。

もともと庄内を治めていた大宝寺義興は、越後の上杉景勝と通じることで自らの勢力を維持しようと画策していました。

しかし、この上杉氏との接近は、山形城を本拠とし羽黒山など出羽への影響力を強めようとしていた最上義光にとって大きな脅威であり、強い反発を招くことになります。

最上義光は、上杉氏との連携を深める大宝寺氏を排除すべく庄内へと侵攻を開始しました。

この一連の争いの中で大宝寺義興は自害に追い込まれ、大宝寺氏は滅亡へと追いやられます。

その後、最上氏の腹心である東禅寺義長(勝正)が義光の代理として着任し、最上家の意を受けて庄内地方の支配を固めていきました。

しかし、これで庄内の情勢が安定したわけではありませんでした。

大宝寺氏の追討をきっかけに最上氏と上杉氏の対立は最高潮に達します。

のちに十五里ヶ原の戦いを経て、上杉景勝の重臣である直江兼続らが庄内へと侵攻し、最上勢力を駆逐して庄内を上杉の支配下に奪還することとなります。

 

 

秀吉公認の討伐と「惣無事令」の回避

天正年間、豊臣秀吉は全国の大名に対して私闘を禁じる「惣無事令」※1を発布していました。

勝手な軍事行動は即座に処罰の対象となる厳しい時代において、上杉景勝の佐渡侵攻は異例ともいえる秀吉の事前許可を得た公認の出兵でした。

 

 

景勝は、佐渡の本間氏が越後で起きた新発田重家の乱を密かに支援していたことや、秀吉の上洛命令に従おうとしない姿勢を大義名分として掲げます。

 

 

自らの私怨や領土欲望ではなく「天下人・秀吉の意に背く逆徒の討伐」という筋道を通すことで、惣無事令に抵触することなく堂々と佐渡へ大軍を送り込むことに成功したのです。

 

 

 

新発田の乱の影と本間氏滅亡の瞬間

上杉家にとって佐渡本間氏の存在は、長年の懸念事項でした。

かつて上杉家を激震させた新発田重家の乱において、羽茂本間氏は裏で新発田方に資金や物資の支援を行い、上杉景勝の足を引っ張り続けていたからです。

 

 

天正17年(1589年)、佐渡へ渡海した景勝軍は、直江兼続らの緻密な采配のもとで本拠地である羽茂城を徹底的に攻撃しました。

 

 

背後の最上氏や蘆名氏との連携も叶わず追い詰められた羽茂本間氏はついに壊滅し、鎌倉時代から数百年間にわたって島を治めてきた佐渡本間氏による支配は、ここに幕を下ろすこととなりました。

 

 

 

景勝が手に入れた佐渡の「本当の価値」

上杉景勝が手に入れた佐渡の「本当の価値」は、単なる金銀の産出地という枠を超え、世界規模の経済基盤となり得る巨大な流通ネットワーク(重商主義の財源)としての可能性を秘めていました。

 

 

大航海時代、ヨーロッパが海外の金銀を集積する重商主義によって世界的覇権を握ったのと同様に、佐渡の豊かな鉱物資源は、日本列島を世界有数の金供給源たらしめる強力なエンジンとなったのです。

 

 

マルコ・ポーロ『東方見聞録』に描かれた「黄金の国ジパング」の伝説を現実のものとするほどの圧倒的な金・銀がこの島には眠っており、江戸時代の最盛期には世界の金生産量の約10%を担い、純度99.54%という極めて高い精錬技術を誇るまでに至ります。

 

 

江戸幕府による本格的な相川金山開発の前夜にあっても、佐渡はすでに高い採掘ポテンシャルを抱えており、上杉謙信の時代から越後上杉氏が権益確保に強い意欲を燃やし続け、最終的に景勝が制圧したことで、上杉家の軍事力と政治力を支える巨大な経済的バックボーンとしてその価値を結実させたのでした。

 

 

 

相川金山はまだ先?重視された「鶴子銀山」と資源

佐渡といえば相川金山があまりにも有名ですが、上杉景勝が佐渡を制圧した当時はまだ本格的な金山開発の時代を迎えていませんでした。

 

 

この時期に実質的な経済基盤として存在感を放っていたのは、相川の前に開発が進んでいた鶴子(つるし)銀山や、島内に眠る豊富な銅などの鉱物資源です。

 

 

上杉家にとって佐渡の領有は、金山という幻想を追うものではなく、確実に銀や銅を産出する貴重な財源の確保を意味していました。

 

 

さらに、鉱物資源だけでなく、造船や建築に欠かせない良質な木材資源も豊かであり、これらの目に見える現実的な利権を手に入れることこそが景勝の大きな狙いだったのです。

 

 

 

日本海ルートの重要拠点|貿易と水運を押さえる戦略的意味

佐渡の価値は鉱物資源だけに留まらず、日本海の水運ネットワークにおける地政学的な重要性にもありました。

 

当時、日本海側を通る西廻り航路の海上貿易は経済の要であり、佐渡はその中間点に位置する絶好の避難港・補給拠点でした。

 

 

この島を押さえることは、越後と北陸、さらには上方や北国を結ぶ物流ルートを掌握することと同義でした。

上杉景勝と直江兼続は、佐渡を抑えることで対外貿易の利権を手中に収め、上杉家の軍事・経済の両面における主導権を強固なものにしたのです。

 

 

 

直江兼続が指揮した佐渡統治の実務

豊臣秀吉の命を受けた上杉景勝直江兼続佐渡島を平定し、統治を行ったのは天正17年(1589年)から慶長3年(1598年)の約10年間でした。

 

 

上杉景勝直江兼続らが構築した佐渡統治は、現地勢力を絶妙に懐柔しながら金銀山開発経済的利益の最大化を最優先する、きわめて実務重視の支配体制でした。

▲直江兼続が支配するイラスト(イメージです)

 

当時の佐渡は、数多く分家した本間氏が割拠して内紛が絶えない状況にありましたが、兼続らはすべての勢力を武力で押しつぶすのではなく、沢根本間氏などの一部をあらかじめ味方につけることで無駄な流血や混乱を避け、統治コストを最小限に抑えました。

 

 

さらに文禄4年(1595年)景勝秀吉から佐渡の金・銀山支配を正式に任されると、兼続はすぐさま立石喜兵衛志駄義秀といった腕利きの家臣を金山奉行として現地へ派遣します。

 

 

彼らを通じて産出量を厳格に把握し、豊臣政権へ滞りなく上納する直轄管理システムを迅速に作り上げました。

 

そして何より、金銀山を安定して稼働させる基盤となるのは現地労働力と島内経済の安定であったため、直江兼続らは略奪や乱取りといった乱暴狼藉を厳しく禁じ、島民を積極的に保護することで生産力の維持に努めたのです。

 

 

 

代官配置と検地|残党を抑え込む統治策

佐渡を平定した後、現場での実務統治を主導したのは上杉家の執政である直江兼続でした。

 

兼続は旧本間氏の残党による反乱を防ぎ、島内を速やかに安定させるため、すぐさま上杉家の信頼できる代官を各所に配置します。

 

 

さらに、土地の生産力を正確に把握するための検地を精力的に実施しました。

 

 

これにより、旧勢力の支配基盤を徹底的に解体すると同時に、領民からの年貢収蔵ルートを上杉家の直接管理下に置くことに成功します。

 

 

武力による力押しではなく、組織的かつ緻密な行政手腕によって、兼続は佐渡を上杉家の確固たる領国として組み込んでいきました。

 

 

 

鉱山開発の推進と上杉家財政への貢献

直江兼続の治績において特に目覚ましいのが、島内の鉱山資源に対する迅速なアプローチでした。

 

 

相川金山の大爆発前夜であった当時、兼続は既存の鶴子銀山をはじめとする採掘事業の整備・拡充に速やかに着手します。

 

 

鉱師や技術者を確保し、採掘体制を整えることで、銀をはじめとする鉱物資源を効率的に集積していきました。

 

 

こうして佐渡から得られた豊富な財源は、上杉家の莫大な軍資金や豊臣政権下での政治工作資金として活用され、上杉家の財政を強固に支える大きな原動力となったのです。

 

 

 

佐渡平定が与えた影響と江戸時代への架け橋

天正17年(1589年)の上杉景勝による佐渡平定は、上杉家に莫大な富をもたらしただけでなく、豊臣政権下での政治的地位を一気に引き上げる決定打となりました。

 

 

平定後、上杉氏は金銀山の開発を積極的に進め、石見国から最新の採掘・精錬技術を導入していきます。

 

 

この佐渡の鉱山から得られる潤沢な収益は、上杉家の軍資金としてのみならず豊臣政権の重要な財源ともなり、景勝が秀吉からの絶大な信頼を得て五大老という最高指導部の一角を占め、のちに会津120万石の大大名へと飛躍する原動力となったのです。

 

 

さらにこの佐渡平定の影響は、関ヶ原の戦い以降に訪れた上杉家の苦難の時代を乗り越える重要な橋渡しともなりました。

 

 

敗軍となり出羽国米沢30万石へと大幅な減移封を受けた際、急激な減収によって藩財政は極度に逼迫しましたが、かつて佐渡で培った鉱山開発のノウハウや蓄えが、多くの家臣団を解雇せずに養い続けるための大きな支柱となりました。

 

 

そして、佐渡の開発を通じて蓄積された経験や技術・人脈は、執政・直江兼続による米沢藩での新田開発や伝統産業の振興へと脈々と受け継がれ、江戸時代を通じて上杉家が存続していくための確固たる土台となったのでした。

 

 

 

小田原合戦・会津移封へつづく景勝の躍進

佐渡の完全平定によって安定した財政基盤と背後の安全を手に入れた上杉景勝は、豊臣政権下での存在感を一気に高めていきました。

 

 

翌年の天正18年(1590年)に始まった小田原合戦では、北陸・関東方面の主力として目覚ましい軍功を挙げ、秀吉からの絶大な信頼を勝ち取ります。

 

 

さらに、佐渡の鉱山権益や日本海の水運ネットワークを押さえた経済的背景も追い風となり、景勝は豊臣五大老の一人として権勢を誇り、ついには120万石という屈指の大名として会津へ大移封されることとなりました。

 

 

佐渡平定は、景勝が天下の有力大名へと駆け上がるための決定的な躍進の足がかりとなったのです。

 

 

 

家康へ受け継がれた「天下の天領・佐渡金山」

上杉家が会津へ移封された後、佐渡は豊臣家の直轄地を経て、やがて関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康の手に渡ることになります。

 

 

徳川家康は佐渡の絶大なポテンシャルを見抜き、大久保長安佐渡奉行に抜擢して本格的な相川金山の開発に乗り出しました。

 

 

上杉時代に培われた基盤や技術者の存在があったからこそ、江戸時代の佐渡金山は世界有数の産出量を誇る「天下の天領」へと飛躍を遂げたのです。

 

 

景勝と兼続が切り拓いた佐渡の支配体制は、かたちを変えて江戸幕府の莫大な財政を支える黄金の礎石へと受け継がれていきました。

 

 

 

まとめ

金山開発前夜の佐渡を治め、上杉家の黄金期を築いた上杉景勝と直江兼続。

 

 

上杉景勝による天正17年(1589年)の佐渡平定は、単なる一地方の征服にとどまらず、上杉家の運命を決定づける歴史的な転換点でした。

 

 

私闘を禁じた「惣無事令」という時代の波を巧みに読み、秀吉公認の大義名分を得て断行されたこの侵攻は、名門・佐渡本間氏の長きにわたる支配に終止符を打つこととなります。

 

 

本格的な相川金山の大爆発前夜にあっても、景勝と直江兼続は鶴子銀山をはじめとする鉱物資源や、日本海の水運ネットワークが持つ「本当の価値」を見抜いていました。

 

 

武力のみに頼らず、現地勢力の巧みな取り込みや代官の配置、乱取りの禁止といった実務重視の緻密な統治体制を築いたことで、佐渡は上杉家の圧倒的な財政的バックボーンへと変貌を遂げたのです。

 

 

ここで培われた潤沢な財力と行政ノウハウは、景勝を豊臣五大老・会津120万石という極みへと押し上げました。

 

 

そしてのちに訪れた関ヶ原の戦い後の米沢減封という絶体絶命の危機においても、家臣団を守り藩を存続させる確固たる礎となったのです。

 

 

景勝と兼続が切り拓いた佐渡の治世は、やがて徳川の天領・佐渡金山へと受け継がれ、日本の歴史を動かす大きな原動力であり続けました。

 

 

 

-上杉景勝・佐渡

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。