恵那の遠山諸氏が室町幕府の奉公衆※1であった時代、苗木、明知、岩村以外に飯場、櫛原、阿木、馬籠、藤などの遠山氏がいた。
※1.奉公衆とは、室町幕府に整備された室町官職の一つである。将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた。番衆(小番衆)とも。
(室町幕府『御番帳』などによる。
※現在の飯羽間(いいばま)という呼び名は江戸期の地名。『信長公記』に「いいはさま」とあり、『甲陽軍鑑』には「いいばさま」とあるので、飯場(いいはざま)を採りたいが『御系図伝記』『寛政重修諸家譜』『遠山来由記』などでは飯場(いいば)とあるので飯場とする。『寛政重修諸家譜』では飯場を「いば」と読む。
美濃国飯場とはどこに存在してるのか?
美濃国飯羽間城(現・恵那市岩村町飯羽間)のことです。
飯羽間城とは美濃国恵那郡遠山荘の地頭であった遠山氏の分家・飯羽間遠山氏が本拠地とした城で、築城時期は鎌倉中期頃※2で、遠山氏の誰が築城したかは不明のお城です。
※2.築城の時期→飯羽間城の城跡付近から二十六間筋兜が発掘された。これは縦長梯形鉄板を26枚張り合わせた実戦向きの兜で、南北朝時代の武将が着用したものであった。
このような立派な兜の出土によって、築城は鎌倉時代中期から末期と考えられる。
岩村城に最も近く防衛の最前線にある重要な城で、一の曲輪を最高所に、二の曲輪、三の曲輪、帯曲輪、出曲輪をもち物見台等も多く配置していた。
また、飯羽間城の北東約300メートルに出城の信城も存在した。
遠山氏は明知城、苗木城、阿寺城、阿木城、千旦林城、串原城などの遠山十八支城の一つである飯羽間城です。
遠山友勝は岩村第6世大和守景明の2子飯羽間城主宮内少輔景義の孫で飯羽間城主・飯間孫三郎(国景ともいう)の子とある。
だから、上の系図の景義ー□□の□□に入るのは友勝の養父、孫三郎国景が該当するだろう。
幕府奉公衆としては遠山飯場間宮内少輔と遠山孫三郎が『永享番帳』(1431)に、飯間孫三郎が『長享番帳』(1487)にみえ、時代があまり隔だたるので別人だが、飯場での呼称(宮内少輔・遠山孫三郎)は続いたものと推察される。
▲岩村城の分家・最前線の飯羽間城跡
岩村第7代遠山景秀の弟・景義が飯場城主の養子になる。
だからこれが遠山宮内少輔孫三郎景義になるだろう。
景義の子が同じ孫三郎を名乗る国景で、その人に嫡子がなかったらしく養子をもらった。
それが遠山友勝である。
三渕からの養子・細川藤孝とも関係が
遠山友勝は『遠山家系譜』によれば、「実は三渕大和守(みつぶち)の男』とあり、京都三渕氏からの養子とみられる。
細川晴員(友勝と同世代)は、母が三渕氏だったので、母方の養子になり、三渕晴員を名乗り晴員の子は兄が三渕藤英、弟が藤孝で、弟が父方の細川家の養子となり、これが細川藤孝(幽斎)である(『織田信長家臣人名辞典』)。
三渕藤英が大和守を名乗るが、先代にも大和守いた可能性もある。
三渕大和守の子という遠山友勝は細川藤孝の叔父にあたろうか。
この縁で遠山友勝が恵那遠山氏の中でも特殊な人脈を持ち得た可能性がある。
織田信長に近い飯場遠山氏
美濃国飯羽間城及び苗木城主の遠山久兵衛友勝の後継は遠山久兵衛友忠だが、この友忠は早くから織田信長に近い関係にあった。
『信長公記』では、元亀元年(1570年)9月25日の比叡山攻めで明智十兵衛(光秀)と並んで苗木久兵衛があり、この頃の苗木城主は遠山勘太郎直景だから武田信玄に近く、織田信長とは協働しない。
この(苗木)久兵衛は正しくは(苗木へ移る前の)飯場久兵衛友忠だろう、『御家譜』に「直景‥‥信長公に仕え、勇名を有す。桶狭間合戦七騎の一人」とあるが、桶狭間合戦は永禄3年(1560年)で、これも武田に近い直景が信長と協働する情勢になく、あるとしたら友忠か別系の遠山だろう。
があり、A系列は武田信玄に近く、B系列は織田信長に近かったが、Aは断絶したのでAについての理解が一般に弱い。
飯場の遠山友忠は、長男の友信、次男の友重、三男の友政がいました。長男は異母兄で、次兄友重と友政は同腹だが、友政は弘治2年(1556年)、飯場で出生された。
兄・友重は天正2年(1574年)に手賀野の明照城で19歳で戦死したから、それが正しければ友重と友政は実の兄弟で共に弘治2年生まれと云うことになります。
岩村では武田信玄に近い岩村遠山氏と苗木遠山氏の兄弟が優位にあったのに、岩村に近い飯場では織田派が存在できたか?という疑問も出るが、当時はいずれの武将も双方に縁をつなぎ、形成次第でどちらかへ身を寄せるということが多く、バランスの中で織田派・武田派の均衡があり得たのではないか。
遠山同士の争いというのは余り見られない。
天正2年になって遠山友忠が付知の遠山玄蕃を攻めているが、この玄蕃は飛騨から来て遠山を名乗っただけで恵那の遠山とは異なる(『付知の文化財』)。
飯場にいた遠山氏が信長の命で苗木などへ進出するのは、元亀3年(1572年)夏だった。
俗に東濃十八支城と呼ばれるが、この時苗木城は飯場の遠山友勝、明照城(手賀野)は友忠(友勝の子)、飯場城は友重(友忠の嫡男)と3城が飯場遠山3代を城主とするから、織田信長の信頼の厚さがわかる。
苗木『御家譜』では、信長が遠山友勝を苗木へ移した理由を同性の親族で、友勝は直景の養子とするが、同性であるだけで実際には親戚関係はないだろう。
何故かと云うと直景は40歳程だが、その養子?の友勝は60歳程(孫で3男友政17歳から推定)で、養子というものの親ほどの高齢者が後継したことになる。
遠山友勝は飯場を去るにあたって、飯場を嫡子の友忠に委ねた(そう書かれるが常識的には、当時40歳程の友忠が飯場城主で、父・友勝は隠居だった可能性も)。
上飯羽間の上平街道の傍らには、姫塚という墳墓※3(ふんぼ)がある。
※3.墳墓とは、死者を埋葬するお墓や、そのお墓がある場所を示す言葉で、元々は土を盛って造るお墓という意味もありました。
天正2年(1574年)武田軍によって飯羽間城が攻め落とされた時、飯羽間城主・遠山友信の娘がこの地に隠れていた。
里人は、この美しい姫を憐れみ、匿って保護したが、間もなく亡くなっ他ため、ここに葬って姫塚と読んだと伝わっている。
岩村の遠山景任が元亀3年(1572年)8月に急死すると、信長の叔母を繋ぎとして女城主に、信長は兄の織田信広を岩村城に置き、信長の息子・御坊丸を養嗣子に据えた。
しかし、10月に武田信玄が西上作戦と相俟って秋山虎繁が11月14日には岩村城に入城してきた。
つまり、この段階で岩村城には
①遠山景任(故人)につながる家臣(武田派)
②織田信広につながる家臣(織田派)
③秋山虎繁につながる家臣(武田派)
が同居するという奇妙な状態が成立。
「秋山軍が入城したもの、旧来からの遠山勢もおり、別に信長から派遣された織田勢もいて、織田・武田同盟条約の最後の姿をそこにみることだでき、表面和睦・内面敵対の三軍在城という変則的な戦国時代の現状を偲ぶことができる(『瑞浪市史』)。
その後、遠山景任の未亡人(おつやの方)が秋山虎繁と結婚する」(1573年2月)というのは、この奇妙な人間関係の妥協的な融和策と言える。
婚姻の条件を口実に御坊丸が甲州へ送られたのは、勝頼が信長の人質を得たと云うことで大きな意味を持った。