頼朝は朝廷政治から武家政治に変えた人物で、武家政権が徳川末期まで続いた。
なのに源頼朝のドラマ・映画はないですね。
何故かと言うと、頼朝が先頭に立って戦ったという武勇伝は、石橋山の戦いあるいは真鶴からの逃亡・房総半島での出来事ぐらいです。
平家を倒した実戦の主役は弟達・範朝、義経、その弟も戦が終われば殺されていった。
▲源範頼 ▲源義経
なんとも哀れな弟だち、真の味方がいないなか、頼朝は北条氏を信じていたんだろうか?
頼朝の死については謎だらけ。
木曽義仲については、源氏の主をとられるから義仲・義高親子を亡き者にした、怨恨説か?幾多の血を流し自分の地位を守ろうとした征夷大将軍・源頼朝享年51歳の時落馬で命を落とす。
ということになっています。
競馬で落馬する話はよく聞きますが、亡くなる話はあまり聞きません。
暗殺説か?
病気説か?
享年51歳で亡くなるとは悔しかったに違いない。
まだまだやることがいっぱいあったろうに、元気なら後継もうまく出来ただろうに、あまりにも簡単に亡くなった頼朝。
状況はどうだったんだろう
頼朝は乗馬が下手だったのか?
病気で気分が悪くて、ふらついていたかのどちらかです。
乗馬は下手だったとは思いません、なぜなら流人生活を送っている頃から、馬に乗ったり小舟に乗ったりとナンパばかりしてたから相当自信があったと思われます。
八重姫しかり北条政子しかり次々と女性に手を出してた湘南のプレーボーイでした。
そんな中、北条時政は娘の政子を平家の伊豆目代・山本兼隆との政略結婚を望んでいたので結婚式の約束まで持って行った。
当日、政子は山木兼隆と結婚式挙げて、その夜に大胆にも頼朝が恋しく頼朝の元に走って逃亡したという。
頼朝が挙兵したのは30歳を過ぎた中年に入るか入らないかの年で、山木兼隆憎しで北条氏の助けを借りて旗揚げをして鎌倉殿になった。
そんな折、建久10年(1198年)12月27日の相模川の橋供養の落成式に出ての帰り、源氏の棟梁が馬から落ちるとは不思議と思います。
よっぽど頭の打ちどころが悪く、翌年1月13日に亡くなってしまう。
当時のことは『吾妻鏡』をみれば分かるはずですが、何年か抜けている場所があって落馬した記述が欠落してて詳細不明になっています。
疑われるのは北条氏、都合の悪い箇所は取り去ったとしか考えられない。
14年後にやっとコソッと現れる
それから14年後の吾妻鏡の項目に少しだけ、いきなり建暦2年(1212年)2月28日落馬のことが出てきます。
何かというと、稲毛重成の妻、建久6年(1195年)7月4日に急死したため、重成は出家し、広福寺を氏寺とした。
その後、重成は亡き妻のために相模川に橋を架け、建久9年(1198年)12月27日源頼朝が渡り初めを行った。
稲毛重成の妻は、頼朝の妻・政子の妹、北条義時の姉で北条時政は義父。
なおかつ頼朝も義兄弟になります。
その稲毛重成も、元久2年(1205年)6月22日に畠山重忠の乱が起こり、北条時政の謀略によって従兄弟の重忠が滅ぼされると、その原因は稲毛重成の謀略によるもので、重成が舅の時政の意を受けて無実の重忠を讒言※1したとされ、翌23日、三浦義村によって弟・ 榛谷重朝、その子・太郎重季、次郎秀重が謀殺され、重成は大河戸行元によって殺害された。
子の宇佐美祐村に討たれた。
※1.讒言(ざんげん)とは、他人をおとしいれるため、ありもしない事を目上の人に告げ、その人を悪く言うこと。
突如14年後に落馬事件が『吾妻鏡』に登場
建暦2年(1212年)2月28日に出てきます。
何かというと、相模国の相模川に架かる橋が数ヶ所朽ち果てているので修理しましょうと、三浦義村が提案した。
当時の合議制の13人に選ばれている三浦義澄・北条義時・大江広元・三好康信で軍議をおこなった。
大江広元は、あの毛利元就に先祖にあたります。
そもそも相模川の橋は、稲毛重成という御家人の亡き妻の供養のために造った橋だけど、頼朝様も亡くなったし、義理の弟。稲毛重成も亡くなって縁起の悪い橋なので修理しなくていいんじゃないかという結論を当時の将軍・実朝に報告をした。
ところが三代将軍・実朝は「父が亡くなったのは武家の棟梁として権力を握って20年経ち官位を極めた後のことだ、稲毛重成は自分の不義で天罰を受けただけ、橋の建立とは全く関係がない、別に縁起の悪い橋じゃない、相模川橋は二所詣※2に必要なもので、庶民もパワースポット詣に使うから早く修復するように」と3代将軍の実朝は答えた。
※2.二所詣とは、鎌倉幕府の将軍が毎年正月に恒例に行事として、伊豆国の伊豆権現(伊豆山神社)と相模国箱根権現(箱根神社)に参詣したこと。
二所参詣ともいう。源頼朝の二所権現崇拝に始まる。▲
▲今も残る「相模川」の橋脚(写真は市役所で了承済)
▲マップ(市役所で了承済)
怨恨説
『保暦間記』は、日本の中世、南北朝時代に成立した歴史書で、成立は14世紀半ば、延文元年(1356年)以前、作者不明。
源頼朝の死について、建久10年(1199年)に、相模川橋供養の帰路、八的ヶ原(やまとがはら、現在の辻堂及び茅ヶ崎の広域名)で義経ら叔父の源義広・源行家らの亡霊を、稲村ヶ崎海上に安徳天皇の亡霊を見て、日頃体調を崩していくなかで、たまたま馬に乗って鎌倉で気を失い病に倒れたと記している。
溺死した
『承久記』に水神に領されて亡くなった。早い話が落馬して川に落ちて溺死したと記されています。
糖尿病説と毒殺説
建久10年(1199年)正月の記述を見てみると、18日前右大将頼朝卿依飲水重病 去 11日出家之由世以風聞 20日 前右大将頼朝去 13日早世云々と記されています。上記の意味は前右大将頼朝をクリックして、他のブログを読んでください。
「飲水の重病」とは、今の糖尿病であったとされています。
この日記の筆者である近衛家実(このえ いえざ ね)は、京都の六条猪隈小路にあった邸宅猪隈殿か ら猪熊(猪隈)関白と呼ばれました。
承久3年(1221年)に発生した承久の乱では、後鳥羽上皇らの挙兵に反対 しました。
そのため一時期役職を解任されましたが、 乱の後に復権し、後高倉院と鎌倉幕府を協調させて、 朝幕関係修復に努めました。
家実は鎌倉幕府の信任も厚く、幕府と近い関係に ありました。
そのため、頼朝の病状などを聞くことができたのではないかと思われます。
ただし、18日の本文の記述「依飲水重病」を「飲水によって重病となり」と読めば、頼朝は何者かに毒を盛られたという解釈も可能になると思います。
明月記を書いた藤原定家の見方
宮廷歌人・藤原定家(ふじわらのていか)の 日記である『明月記(めいげつき)』を取り上げます。
定家は中堅の貴族として生まれ、後鳥羽院歌壇の中心として『新古今和歌集』などの撰者として有名で す。
彼の日記である『明月記』は、源平の争乱から 承久の乱に至る動乱の世を物語る第一級史料です。
20 日 前将軍去 11 日出家、13 日入滅。大略 頓 病 歟 とあります。
この「頓病」という語は、急病のことで、頼朝の死 因が急病の可能性も否定していません。
このように頼朝の死の直後に記された公家の日記 からは「落馬」という言葉は出てきません。
通説では、頼朝の死因が「落馬」になっているにもかかわ らず、「病死」(あるいは毒殺)を推測できるような 記述が残されています。
それではなぜ「落馬」説がでてきたのでしょうか。
また、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、頼朝が歯の病に苦しんだという記載があります。
歯の病の記述は数回におよび、京から薬が届けられたり、薬師堂に祈願をしたりしています。
そのため、歯の病、虫歯や歯周病があった可能性も指摘されています。
頼朝の病は明らかではありませんが、幕府設立に至る権力闘争、舅の北条時政や妻・政子との緊張関係など、絶え間ないストレスは、武士の頭領の体を蝕んだのかもしれません。
落馬後に亡くなった頼朝の死は、今もなお謎を残したままです。
参考・歴史上の人物の病気を診る
余談ですが、NHKの朝放送の「健康ライフ」で歴史上の人物の病気を診るので‥
「司会者」
歯周病による脳卒中、どういうことですか。「先生」
当時の書物である「武家俗説弁」のは「忽ち 卒中風さし起こり病痾(しゅくあ)日を追て重く」なったと記されています。医学史家の富士川游博士は死因を脳卒中と推定しておられます。
脳卒中の中でも血の塊が詰まる脳梗塞だと思います。
ほかに慢硬膜下血腫説、破傷風説などがありますが、私はやはり通説通り脳卒中。
ただし一過脳虚血発作、TIAと申しますけれども、これを起こしたのではまいかと考えております。
さらにそれを、引き起こすきっかけになったのが歯周病ではないかと推察しております。
と答えています。