大河ドラマでは、梶原景時の役は中村獅童さんが演じています。
獅童さんにピッタリの役ですでネ〜
梶原景時とはどいう人物か知っていますか?
この梶原景時が頼朝を助けていなかったら鎌倉幕府はできなかったと思います。
頼朝軍の最初の戦いといわれる大庭軍との石橋山の戦いでは、大雨による酒匂川の増水で、頼りの三浦軍の参戦が遅れたため頼朝軍は大惨敗を喫した。
その時、頼朝は数人の部下と共に、大庭軍の討手から逃れるために、とりあえず山中に逃げ洞穴に潜んだ頼朝軍。
その大庭軍の討手の中にいたのが梶原景時であった。
必死に行方を探していた梶原景時が洞窟の中にいる頼朝を発見するも、頼朝のただならぬ佇まいに何か感じるものがあったらしく、敗走中の敵将を「自分の手柄」として差し出すのが忍びなく、主君・大庭に背き頼朝らを見逃した。
徐々に頼朝の信任厚く、御家人には煙たがられる
梶原景時は、保延6年(1140年)の頃、坂東八平氏の流を汲む梶原景清の次男として、相模国鎌倉郡梶原(現・鎌倉市)で生まれています。
母は、武蔵国多摩郡(現・八王子市)の武士横山孝兼の娘です。
梶原氏は、同じ坂東八平氏の一つである大庭氏の家人となっていましたが、平治2年(1160年)の平治の乱で、頼朝の父・源義朝が敗死した後は、平氏に従っていました。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将で、鎌倉幕府の御家人。石橋山の戦いで頼朝を救ったことから、頼朝に重要され侍所所司、厩別当になる。
当時の東国武士には珍しく教養があり、和歌を好み、「武家百人一首」にも選出されています。
父・源義朝と対立した人物として知られるが、頼朝の信任厚く都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。
鎌倉幕府では頼朝の寵臣※1としての権勢を奮っていた。
※1.寵臣(ちょうしん)とは、国家統治者のような政治的重要人物と親密な関係にある友人・侍臣のこと。
▲梶原景時
頼朝が九死に一生を得た洞穴は諸説ありますが、そのうちの一つ「鵐の窟」※2があります。
※2.鵐の窟(しとどにいわや)とは、現・神奈川県真鶴町に)にある、頼朝がこの岩谷に隠れようとしたとき鵐と呼ばれる鳥が舞い出た、また、大庭氏・伊東氏らの追手が岩谷を覗い時に鵐が飛び出してきて、誰もいないと勘違いさせたという言い伝えから「鵐窟と呼ばれているにだという。
頼朝はこの後、真鶴の浜から房総半島に逃れ、その後、東国の武士を次々に味方に付けて大軍を率いて鎌倉へ入ると、治承4年(1180年)10月には、富士川の戦いで平維盛率いる平氏軍を都からの追討軍に勝利した。
平氏方として参戦していた大庭京親は降伏するものの後日処刑される。
梶原景時は、土肥実平を通じて降伏し、治承5年/養和元年(1181年)正月に源頼朝と顔を合せ、頼朝はあの時の礼をいって頼朝軍に加わった。
梶原景時は、教養があり弁舌も優れいたことから、「鶴岡八幡宮若宮」の造営や御台所の出産に関わる諸事を取り仕切る奉行などを任され、さらに侍所所司(軍事・警察を担う組織の次官)任命されています。
源頼朝に仕える梶原景時は忠義を尽くしますが、その行動が他の御家人達から反感を買っていた。
平家打倒で義経とあわない
頼朝の強い信頼得た梶原景時は、軍事全般を取り仕切る別当長官・和田義盛の元で、御家人担当の所司として機能していった。
平家追討の際には、義経の元で侍大将として出陣、朝廷との連絡や調整役も務めた。
景時は京都の貴族に仕えていた時代もあり、文化的素養も高く歌道や音曲にも通じていたし、弁も立ったという。
頼朝人脈の景時だから、義経の日々の挙措動作※3を見るにつけ、その天真爛漫ぶりは我儘にしかみえない。
※3.挙措動作(きょそどうさ)とは、立ち振る舞いのこと。「挙」は、上に挙げること。「措」は、下におくこと。「挙措」は、身のこなし・立ち居振る舞いのこと。
頼朝のために、義経のことを許せないと思うことがしばしばであった。
例えば、平家物語の巻11には、屋島における戦時の時の船の櫓の問題について、義経相手に論争を仕掛けている。
これなども、「精神主義に陥りがちな義経の独りよがりを、ここで私が諌めなければ」という、景時の頼朝に対する使命感のような忠誠心がそうさせたとも言えなくもない。
宇治川の先陣争いで、「いけづき」という名馬に乗った佐々木高綱に、これまた希代の名馬「するすみ」に乗った梶原景季(「景時の長男)は負けてしまう。
梶原景時鎌倉から追われる
文武に優れた梶原景時は、鎌倉幕府侍所別当として御家人達の行動に目を光らせ、勤務評定や取締まりに当たる役目、いわゆる目付役であった。
頼朝にとっては重要な役割を担った忠臣せしたが、御家人達からは恨みを買いやすい立場の人物でした。
正治元年(1199年)正月頼朝が急死し、嫡男・頼家が家督を継いだ。
しかし将軍体制に対する御家人たちの鬱積※4した不満により、頼家はわずか3ヶ月で訴訟の採決権を奪われ、代わって幕府宿老による「十三人の合議制」しかれ、将軍の独裁は抑えられた。
頼朝時代に続き2代将軍・頼家が「一の郎党」として頼みにしてた梶原景時も加わってしまった。
合議制が成立後の半年後の秋、将軍御所の侍所で桔城朝光が、ありし日の頼朝の思い出を語り「忠臣二君に仕えすというが、あの時出家すべきだった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」と述べた。(『吾妻鏡』10月25日条による)。
翌々日、御所に勤める女官である阿波局(政子の妹)が結城朝光に「あなたの発言が謀反の証拠であるとして梶原景時が将軍に讒言し、あなたは殺される事になっている」と告げた。
驚いた朝光は三浦義村に相談し、和田義盛らの御家人たちに呼びかけて鶴岡八幡宮に集まると、景時に恨みを抱いていた公事奉行人の中原仲業に糾弾状※5の作成を頼んだ。
※5.糾弾(きゅうだん)とは、不祥事や汚職などの疑惑をもとに避難・咎め立てし、職責を問い質す、と言う意味で用いられる表現。政治家や組織の幹部などの要職にある者が、地位ある者としてあるまじき行為を行ったとして、非難、批判、辞職要求などを行うことを指す場合が多い。
10月28日66人名による梶原景時糾弾の連判状が一夜のうちに作成され、大江広元に提出された。
景時を惜しむ大江広元は躊躇して連判状を留めていたが、和田義盛に強く催促されて将軍・頼家に言上した。
11月12日頼家は連判状を景時に見せて弁明を求めたが、なにも弁明せずに一族を引き連れて、所領の相模国一宮(現・神奈川県寒川町)に下向した。
鎌倉の邸は取り壊され、景時は京へ行く事にした。
梶原景時一族滅亡
翌正治2年(1200年)正月20日、景時は一族とともに京都へ上る道中で東海道の駿河国清見関(静岡市清水区)近くで偶然居合わせた吉川氏ら在地武士たち、相模国の飯田家義らに発見されて襲撃を受け、狐崎において合戦となる。
子の三郎景茂・六郎景国・七郎景宗・八郎景則・九郎景連が討たれ、景時と嫡子・景季、次男景高(36歳)は山へ引いて戦ったのち討ち死にした。
その首は隠されていたが翌日探し出され、一族33名の首が路上に懸けられた。
頼朝の死から1年後のことであった。
『吾妻鏡』正月28日条の武田信光(伊沢信光)からの報告によると、景時は朝廷から九州諸国の総司令に任命されたと称して上洛し、武田有義を将軍に奉じて反乱を目論んだという。
加藤景廉とは仲がよく梶原景時が滅ぼされると、親しかったため一旦は連座して所領の一部を収公※7されたが大したことはなかった。
岩村城は残った。
※7.収公とは、領地などを権力が取りあげること。