東濃地方特に岩村町近辺には、古く三万年前には人が住んでいた形跡が石器物の発見によって証明されたという“歴史掘りおこし読本”第2巻に書いてあった。
※ここに3万年前に発見されときに記事があります。興味ある方は上記の三万年前をクリックしてご覧になってください。
古代は日本史としては歴史時代、大陸文明の影響を受け大化の改新が行われ国家体制が整えられた所謂律令時代。
すべて文字によって記録された文献のみでは明らかにし得ない時代で、考古学的調査も絶対に必要なのだ。
そこでまず文献によって当地方の環境を概観して、しかるのち考古学的考察を加えて当地方の状況を明らかにしてみたい。
そこで思いついたのが加藤景廉が、鎌倉時代に源頼朝から、この遠山荘を貰わなかったら、今の岩村町はないと思っています。
そこで景廉が来る前はどうだったのか?
ちょっと調べてみる気になりました。
美濃国岩村町の起源
恵那郡は木曽川の上流地域に発展した所で、それに土岐川の上流及び矢作川の上流ともなり、これらの川沿いに農耕が行われ文化の花が咲いていった場所だったと思います。
それは既に原始時代として縄文・弥生・古墳時代の様相を考慮して来たのですが、古代即ち文献に登場するようになって、国・郡・里の行政区割が定まり、恵那郡が置かれた。
胞衣(えな)は赤児の臍緒(へそのお)の意で、恵那郡阿木村血洗池に因む天神御生証の伝説により、その神胞を収めた山を恵奈山というと美濃古蹟孝、古蘇志略に記している。
▲血洗神社
▲血洗池跡の碑
▲皇太子碑もあります。
ところで恵奈山を隔てて、太古史で信濃国に伊那郡があり、伊那谷は稲谷の義で美濃の東奈嶽も奈嶽であろうといわれている。
恵奈は音韻※1が通じているから、なんらかの関係があると思われる。
※1.音韻(おんいん)とは、音とひびき。また、その調和。音色。とある。▲
恵那郡の郡司は何人であったか全く不明であるが、その役所は郡家といい、おそらく大井辺りと想像され、郡史では長島町正家ではないかといっている。
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恵那那の六郷
郡内六郷についてみるに、その設置は前述の如く奈良時代であるが、六郷の名が揃って文献としてみられるのは平安時代・朱雀天皇の朝、源順※2.の編んだ和名類聚抄が始めてだす。
※2.源順(みなもと の したごう)とは、平安時代中期の貴族・歌人・学者。嵯峨源氏、大納言・源定の曾孫。左馬允・源挙の次男。官位は従五位上・能登守。梨壺の五人の一人にして三十六歌仙の一人。
六郷とは、絵上、絵下、坂本、竹折、安岐、淡気です。
この中で木曽川本流に沿って絵上、絵下、坂本、竹折があり、支流阿木川に安岐、土岐川の上流に淡気があった。
これは現在の如く地図的な区割りではなく、人家集団の約五十戸単位に名づけたものです。
そこでその六郷の位置を当ててみると、淡気(たむけ)郷は土岐川の支流小里川の上流、現在の山岡町及び明知地方に亘る地域です。
竹折郷は現在の恵那市武並町竹折の地域で、東山道の駅路に係り大井駅と土岐駅(釜戸)との中間にある地域のことをいう。
坂本郷は竹折郷の東に連なり、今の坂本はその本郷にある。
東山道の坂本駅は現在では、中津川辺りことをいう。
坂本の名は蓋し神坂の下なる以って名づけたのであろうと思われます。
絵下郷は中津町の小字に会下があるが、この辺りが本土で、今の中津川落合の地域である絵下とは恵奈山の下の意と思われます。
絵上郷は三代実録に吉蘇、小吉蘇両村とあるが、要するに今の木曽谷の地域です。
安岐郷は阿木川の流域で、今の中津川市阿木を本土として、岩村川一帯を指したもので、美濃国神明帳に従四位下阿気明神があり当郷の鎮守でもあります。
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木曽路の開発
六郷の配置は以上でありますが、この木曽川に沿って大和地方から信濃国及び東国地方に通ずる駅路が開かれたことが、当地方のの開発に重要な意義があるので、これを考えてみる必要があります。
大化二年(646年)孝徳天皇改新の詔国駅馬、伝馬を置かれることが定められています。
文武天皇大宝令の中に「始開美濃国岐蘇山道」と見えている。
即ち恵那郡木曽川筋に沿って官道が開かれ、絵上郷木曽谷を経って信濃国府松本に連絡したのである。
和銅七年(714年)12月美濃守笠朝臣麻呂に対し七十戸四六町を賜い、小掾従七位下門部連御立、大目山口忌寸兄人に各位階を進められたのは、この古蘇路開通に対する功を賞せられた。
当時、古蘇谷は美濃国恵那郡絵上郷に属していた。
この道筋は大体今の中山道にあたり、木曽谷の南部を古蘇といい、北部を小蘇といい、境峠(標高1486m)を越え、寄合渡で飛騨国府より信濃国府に通じる野麦道に出会ったのです。
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東山道の復活(神坂越)
ところが平安時代の始めになって、この中山道筋が廃止されて、恵那山の北にある神坂峠を越えて信濃国下伊那町会地村駒場に通じる東山道が官道として復活された。
▲神坂神社
この道は大化年間より以前から信濃、美濃を通じる旧道で、日本武尊※3の通過せられた伝説があり、太古の時代から開拓されていたらしいが、何しろ神坂峠は海抜1595mという高い山越をしなければならないので、奈良時代には木曽川に沿って中山道は開たのである。
※3.日本武尊(やまとたける)とは、景行天皇12年-景行天皇41年)は、記紀などに伝わる古代日本の皇族(王族)。
『日本書紀』では主に「日本武尊」『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合には一般には「日本武尊」の用字が適用される。
第12代景行天皇NO皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。
熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄。
しかし、木曽谷は距離が長く、この間人里が殆どなく、僅かに古蘇、小吉蘇の二村だけで、駅亭の設置も足らず、道路崩壊するもこれを修理することもできなかった。
そこで平安時代に入って再び神坂峠越えの旧道が官道として復活された。
延喜式に掲げる駅伝の記録を見ると
土岐駅 駅馬十疋 伝魔五疋(今の釜戸)
大井駅 駅馬十疋 伝魔十疋(今の大井町)
坂本駅 駅馬三十疋(今の中津川千旦林)
阿智駅 駅馬三十疋(今の下伊那郡会地村駒場)
この中の大井駅と坂本駅が恵奈郡に属しているが、坂本駅から信州阿智駅の間に神坂峠がある。
この神坂路の難嶮であったことは、当時の記録に散見する。
例えば、斉衛2年(855年)の図解に恵奈郡坂本駅は信濃国阿智駅と相去ること、七十四里雲山畳重し、路遠くして坂高し、星を戴※4て早く出発するも夜を犯して晏く去る、一駅の程も猶数駅に倍する。
※4.戴(たい)とは、頭にいただく。敬う。あがめる。あおぐ。いただく。▲
駅子の負荷常に逓※5送に苦しみ、寒節の中には道には死する者多し、駅馬の数の他駅に比べて多く、駅子に対する課役を免し、賑給を与える等種々の処置が行われにも拘らず、全郡疲弊して郡治困難を極め、坂本の駅子悉く逃亡し、諸便壅寒すという始末であった。
※5.逓(てい)とは、次から次へと送る。順次。だんだん。
平安中期になって朝廷の中央集権化が緩むにつれて、駅伝の制も漸く廃滅に傾き、神坂路も壊れた。
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木曾義仲と吉蘇庄
いよいよ木曾義仲の名が登場してくる。
一方吉蘇路の方は藤原末院政時代に入って大吉祖庄に大宮司宗像少輔が木曽谷を領し、庄司中原兼経がここに居り、木曽中太と称したが、その子・兼遠は源義仲(木曾義仲)を養い、治承4年(1180年)挙兵せしめ旭将軍の名を生さしめた。
中原兼遠には三男一女があり、長男は樋口次郎兼光、次男は今井四郎兼平、三男は落合五郎兼行といっていずれも劣らぬ武将であり、一女は巴御前であった。
この一族によって木曽路が改修され、木曽路は街道として東西交通の要路となった。
木曾義仲が京都で頼朝軍に敗れた後、木曽氏は衰えたが、義仲に一妹があり、菊姫といった兄歿落後東濃に潜居した。
▲ここに菊姫のURLを入れる▲
頼朝の妻・政子はこれを知り憐れんで猶子※5とした。
▲※5.猶子(ゆうし)とは、明治以前において存在した他人の子供を自分の子として親子関係を結ぶこと。
ただし、養子縁組とは違い、契約関係によって成立し、子供の姓は変わらないなど親子関係の結びつきが弱く擬制的な側面(その子の後見人となってる)が強い。
木曽谷にいた奸侫※6の輩はこれに属して不知行の所々を菊姫に寄付して、その使節と称して権門の庄園を押妨したので、幕府に訴える者があり幕府は菊姫を招引して調べた。
※6.奸侫(かんねい)とは、道徳的、もしくは精神的な価値のないこと。▲
菊姫は所々押領のことは奸曲の輩の所以で、一切知らぬ旨を訴え陳謝した。
政子はこれを憐れみ、これを取りなし美濃国遠山庄内の一村を賜い、且つ信州の義仲の恩顧を蒙った小諸太郎光兼等御家人に菊姫の世話をするよう命じた。
いよいよ菊姫が遠山荘(岩村に)来る。
この菊姫の伝説があります。